第10話 異世界の尖兵
魔王のもとに凶報がもたらされる、少し前――。
要塞都市、ゼバスティアンにて。方面軍および管区防空司令部を担う城塞では、全指揮権を持つオークが足早に司令部を目指していた。ヘルマン将軍。つい先ほど、首都パッヘルベルから帰還したばかりの猛将である。
彼は疲労を怒りに変えて大股で進み、蹴破るようにして司令部の扉を開けた。
「状況報告ッ!」
まさに咆哮。比喩でも何でもなく、並みの賊ならこの一喝で逃げ出しかねない。反面、味方であればこれほど頼もしい声はなかった。浮き足立った通信士たちを一斉に地表へ戻す。魔法でもスキルでもなく、天賦の才だ。
「敵部隊、北門から第二層へ到達! 各部隊共に応戦していますが、攻勢が激しく後退を続けています!」
「二層とは切り込まれたものだな……!」
苦々しくヘルマンが呻いた。要塞都市ゼバスティアン。魔族帝国の主要都市にして防衛拠点でもあるこの地は、その名の通り全域が一個の砦を成している。
城塞を頂点として螺旋状に登る街並みが、全七層。真上から見下ろすと、ちょうど楕円形となった全体像が、植物の断面図のように思えただろう。ここに対空拠点となる塔が四つ。平行四辺形を描き全方位をカバーした。
地上では防御層。空では塔から放たれる攻撃魔法。難攻不落と称されるこの都市は、事実、誕生から現在まで陥落したことがない。今のところ最大の被害記録は、神聖帝国軍による全面攻勢。それも大昔の話である上、第五層で食い止められた。
当然、だからといってヘルマンに楽観視はない。古来より、過信によって滅びた国はいくつもある。そもそも衰退戦争の被害からして、まさに代表例だ。古代のウィザード文明とやらは、その傲慢からこの世を去った。
そして現在も、決して楽な戦いとは呼べない。帰還早々、演習に備えて休むはずだったヘルマンが、急報を受けたのが三十分前。一時間と経たず、すでに一層を抜かれているのだ。烏合の衆ではあるまい。
厄介な状況だ。本来なら周囲に置かれた各基地から警告があった上、さらに迎撃を受けた末にゼバスティアンへと辿り着く。すなわち、侵攻部隊はここへ至るまでに消耗しているはずなのだ。それがどうやってか、いきなり要塞都市の眼前に現れた。
これでは各基地への応援要請も難しい。こちらの守備に部隊を抽出すれば、その分だけ守りも手薄になる。どこから現れたのかもしれない脅威を前にして、だ。
「敵の正体は!? 賊か、南側の連中か!?」
「不明! 大隊規模の地上部隊と推定! 敵航空戦力は確認されていませんが――」
「ならば賊だ! だからと言って侮るなよ!」
これだけの規模の部隊が山脈を越えたなら、どうやってもこちらの哨戒網に引っかかる。少数に分かれて魔物のテリトリーを抜けてきた、という可能性も無くはないが、それならば北門でなく南門から突破されるだろう。
とはいえ不可解には違いない。賊なら賊で、こんな規模の組織が今までどこに潜んでいたのか。目的は何か? 演習直前、ヘルマンの留守を狙ったようなタイミングで仕掛けてきたのは偶然か?
――また借りを作ってしまうな。
独りごちたのは無二の友人、フレスベルグ卿について。会食の席、酔い覚ましの水薬を飲まされていなかったら、防衛の指揮もままならなかっただろう。加えていざという時、あてに出来る。
フレスベルグ卿率いる第二〇一旅団は、王太子と共にゼバスティアン北西に野営していた。客人に手間をかけさせたくはないが、そう言ってもいられない。合同演習は白紙に戻ったも同然だ。
「第五、第六層の戦力を四層へ集結、立て直させろ! 降下猟兵を北門および第一層へ展開! 第三層の手前で挟撃する! 民間人の避難、青羽側への連絡も怠るな! せっかく友人がいるのだ! 頼らせてもらうとしよう!」
「了解! ――待った、これは……閣下!」
通信士の一人が、顔をしかめて振り向く。いや、彼だけではない。この司令部に詰めている通信士たちへ、次々と混乱が広まる。
「なんだ、どうした!? 青羽側の状況は!? すでに交戦中か!?」
「不明……! ジャミングです!」
「……なんだと?」
猛将として名高いヘルマンと言えど、この報告には獰猛さが息を潜めた。
「敵の妨害により、交信が不調……二〇一旅団と繋がりません!」
「何を馬鹿な……!」
大隊規模の敵地上部隊。正体が賊だとして、これ以上の余剰戦力があるわけがない。ましてや軍の回線を遮断し得るだけのジャミングなど、それほどの後方支援を備えた賊がいるものか。
――神聖帝国か? だが……。
この規模の妨害を行なえるならば、総兵力は少なく見積もっても一個旅団。だが、そんな軍勢がどうやって山脈を越えた? どうやってここまで接近した? 一帯に配置された軍事基地の目をすり抜けた、その方法はなんだ?
――いや、惑わされるな……!
憮然と腕を組みながら、ヘルマンは己を叱咤する。現にジャミングは行なわれ、敵の脅威はここにあるのだ。この事実だけを見ればいい。推理だとか分析だとかいう仕事は、自分の役割でないし性分ではない。
「伝令で回せ! 人でも馬でも犬でもいい! 各部署に現状および命令を通達! 航空騎兵を出してフレスベルグ卿にも援軍を要請しろ!」
檄を飛ばす最中、しかしあの友人ならばすでに気付いているはずだと、ヘルマンは希望を抱いていた。目前の騒乱に気付けないほど稚拙なら、フレスベルグは今の地位にいるわけがなく、御前試合でわざわざ腕を競ったりもしていない。
友軍は必ず来る。幾度となく剣を交えた信頼が告げていた。
あの武人ならばそろそろ――。
「! 対空ソナーに反応……方位三二〇よりアンノウン多数、向かってきます!」
「来たか!」
まさに青羽の軍が野営している方角。フレスベルグたちに間違いない。対空監視要員の続報が、ヘルマンの予感を決定付けた。
「波長識別……二〇一旅団!」
「よぉし! 全対空部署へ伝達、急げよ! 死んでも誤射はさせるな!」
困惑していた司令部が、再び活気を取り戻す。これで助かる。敵の規模がどうであれ、ここから先はこちらの番だ。青羽側の展開を待って攻勢に出る。正面を一層したら、残敵を探して掃討。この妙な奇襲はこれで終わりだ。
――やはり、借りを作ってしまったか。
ひとしきりの命令を下した後、ヘルマンは深く息をついた。御前試合では勝ちを譲られたものの、あの男には将としての器で敵わない。惜しむらくは友軍とはいえ、同じ旗の下にいないこと。
青羽の王国で、唯一となる混血の名将。どうせなら魔族帝国で軍に入っていれば、今頃はより高みへと立てただろうに。いやいや、そうなってはこうして助けてはもらえないか。これが最適解というやつかもしれない。
ヘルマンは安堵からそんな感慨に耽った後、再び気を取り直して状況を睨んだ。いずれにせよ勝ち戦だが、まだ勝ったわけではない。青羽の援軍が到着する前にここを落とされでもしたら、元も子もないのだ。
今はまだ油断をせず――。
「え……?」
「ん?」
フレスベルグたちの来援を知らせた、対空監視要員。まだ若い獣人の娘だが、彼女は突如として奇妙な声を上げる。
「少尉? おい、どうした?」
「いえ、それが……」
振り向けた彼女は目を見開き。けれど口元は呆然として、なのに頬へと冷や汗を伝わす。ありえない状況に置かれたら、人はきっとこんな奇怪な表情になるのだろう。
「接近中の航空騎編隊より……AGTM12発射の兆候を探知しました」
「――」
ヘルマンの思考が止まる。AGTM――空対地戦術魔法。航空騎兵が用いる中で、最大級の攻撃手段。ワイバーンに同乗した魔術師たちが、空中に収束させた魔力より放つ破壊魔法の総称だ。極端な話、これを地上の対空戦力として流用したものが、ゼバスティアンが誇る四つの塔。
この内、十二番目となる術式は長距離光速砲の正式名称で知られる。一個の球体として圧縮された雷を、文字通り光の速さで発射する。ピンポイントで目標を狙える精度に、理論上、如何なる物質をも無効化する絶大な貫徹力を誇った、ロングレンジの破壊魔法。
ただし制約は激しく、魔術師は当然として飛竜とその騎手も優れたものを、三騎分は揃える必要がある。発射角の計算、設定、収束……その他諸々を三騎で分担し、しかも発動から発射までの数分間、常に均等な位置を維持しなければならない。どれかひとつでも狂えば目標を外し、悪ければ収束された雷が編隊の中心地で暴発する。
太古のウィザード文明では、この魔法をベースに簡略化された兵器が、歩兵の携行する標準装備として量産されていたというのだから驚きだ。伝説によると、魔法を扱えない者でも容易に運用可能な武器だったらしい。
もちろん、現代においてそんな技術はない。一千年を経ても根強く残る衰退戦争の恐怖が、魔法の、特にこうした攻撃魔法の再発達を忌避していた。
しかし――そういえば確かに、フレスベルグ率いる第二〇一空陸機動旅団は、この術式とこれを用いる戦術に長けている。
まず光速砲で敵の射程外から対空拠点を潰し、次いで敵司令部を爆撃。混乱した残存部隊を、最後は騎兵を中心とした陸戦部隊で蹂躙する。この戦い方で、彼は拠点制圧において絶対的な戦績を誇ってきた。
とすれば、残る疑問はただひとつ。
――なぜだ?
ヘルマンがまるで他人事のように胸裏へ呟いた矢先――轟音がゼバスティアンの城塞を揺さぶった。
「敵光速砲、第二対空塔を直撃……!」
言う間にも二発目、三発目と立て続けに砲声が轟き、そして四度目が聞こえた時すでに、要塞都市が誇った対空防御塔は崩落している。瓦礫となって市街へ降り注ぎ、守るはずだった人々を押し潰す。
だが終わりではない。
――次が来る……!
向こうの照準は明らかだ。対空拠点の後、司令部を攻撃。指揮系統を破壊する。これが本当に、本当にフレスベルグの仕業なら、五発目がまさにここを狙っているはずだ。
「防殻展開ッ!」
土壇場の指示は、通信士でなく司令部付きの魔術師へ。最後の砦として、ここにも防衛戦力が控えている。
されども、果たしてどれほどの意味があったのか。高密度に圧縮された、無類の貫徹力を誇るエネルギー体。魔法による防御壁を張ったとして、どれだけの効果があるだろう。――もしも展開が間に合っていたなら。
「――!」
城壁を貫く稲光。その衝撃にヘルマンの巨体が軽々しく宙を舞った。一瞬だけ意識を失い、地に落ちた痛みで現世へ戻る。あるいはこの一撃で消し飛んでいた方が、まだ救いはあったかもしれない。
「報告しろ……!」
全身の苦痛に耐えながら呻き、目を開けた先。そこに最早、ゼバスティアン方面軍司令部は存在しない。
直径十メートルほどの穴を穿たれた防壁。これと重なっていた空間は跡形もなく消し飛び、周囲は熱で溶解している。生きている者は、少なくともヘルマンには見つけられなかった。光速砲の余波で、ことごとく蒸発したか。
――なぜだ?
攻撃が始まる直前、友の記憶へ投げたのと同じ疑問。
フレスベルグが裏切った。これは疑う余地もない。突如として現れた敵の軍勢、ジャミング、どれも説明がつく。この要塞都市を攻撃しているのは、神聖帝国でも、ましてや賊でもない。味方としてやってきた、第二〇一空陸機動旅団。青羽の王国の軍勢である。
けれど。いいや、だからこそわからない。
なぜこんなことが起きた。なぜこんなことをした。いつから、これを考えていた。全てが嘘だったとでも言うつもりか。交えた剣、飲み交わした酒、友と呼んだその言葉も。何もかもが芝居だとでも言うのか。
――フレスベルグ卿……あなたに何が起きたのだ?
朦朧と吐き出した言葉は、この期に及んでもまだ裏切り者への怨嗟とならず、友人への思慮だった。
そうして目蓋を閉じかけた、刹那。
「閣下……!」
誰かがヘルマンを呼び起こす。泣き出しそうな声をした誰かが。繋ぎ止められた意識の先で待っていたのは、あの獣人の娘である。
「ああ、少尉……無事だったか」
「はい……! 早く避難を……! もう、みんな……」
「わかっている……」
とうとう堪え切れずに嗚咽を零した背中を、軽く叩いてヘルマンは起き上がった。ふらつく足元。愛用のツヴァイヘンダーを抜き、杖代わりにして何とか歩く。
すると、
「閣下……?」
「いや、ふむ……少尉、まだ交信魔法は使えると思うか?」
対空ソナーや交信魔法など、通常なら個人の運用が難しい魔法を可能とする、魔力増幅器を内蔵した通信士用の端末。衰退戦争によって滅びた文明の、未だ使われている貴重な財産だ。光速砲の直撃によりほとんどは破壊されているが、まだ明滅しているものもある。
「でも、閣下……!」
「言いたいことは……わかる。だが手伝ってくれ。今なら、どこかに繋がるかもしれん……」
射線上にある全てを貫く光速砲。収束された莫大なエネルギーは、だが同時にジャミングへと風穴を開ける。可能性は限りなくゼロに違いが、それでも無ではなかった。
そしてヘルマンを助け起こした彼女は。ヘルマンが名前も知らないその娘は、たとえどれだけ涙を流していても軍人には違いなかった。駆り立てるのは責務か義憤か。ヘルマンの身体を必死で支えながら、生きている端末へどうにか辿り着く。
「オープンチャンネルでいい。伝えてくれ。いいか?」
「はい……!」
一拍を置き、ヘルマンは告げた。
「我、すでに指揮能力無し。ゼバスティアンは陥落。敵主力、第二〇一空陸機動旅団と確認……」
少尉が反芻するのを待ちながら、一言ずつ紡いでゆく。それでも最後の言葉を口にするには、嫌になるほどの不快感があった。
「……青羽は、敵」
声に出して初めて実感する。せめて怒りなり悲しみなりがあれば、まだ現実感があっただろう。自分の口で語っておきながら、ヘルマンにはやはりこれが真実だとは思えなかった。
「送信しました……さあ、早く……!」
「ああ。――!」
続きかけた足を留まらせる、敵意。怪我だけならずっと軽い少尉よりヘルマンが先に気付いたのは、熟達の戦士だけが持つ本能ゆえか。
「閣下……?」
「逃げろ、少尉。敵だ」
光速砲によって穿たれた防壁。司令部を陥落させたまさにその大穴めがけて、一騎のワイバーンが近づいてくる。
騎手以外に兵員はいない。偵察? ――否。後ろにたった一人だけ、槍を携えた影がいる。
――来るか。
むしろ静かに呟いたヘルマンが、大剣を構えた瞬間。ワイバーンに同乗していた人影は、そのまま飛竜を蹴って跳び、風穴を通ってヘルマンの眼前へと着地する。
奇妙な風貌。明らかに雑兵ではない。鎧の類は一切なく、身に着けているのは遠い異国の衣服。麻色をした着物と深緑の袴。足元には草履を履き、平たい菅笠をかぶった目元は俯き加減で窺えなかった。
得物は長柄。十文字の切っ先をした槍を、右手で持って肩に担ぐ。加えて左腰に長剣が一振り。魔王が扱っているのと同種の、いわゆる刀を差している。
ただし何よりヘルマンの警戒心を仰いだのは、見てくれよりも雰囲気だ。じっと佇むだけで、微動だにしない男。こちらを見ているのかいないのか、それすら怪しい。同時に一切の隙がない。無防備なようで、しかし不用意に動いた途端、瞬きする間もなく首を取られる。広いとはいえ屋内で、刀でなく槍を手に挑んでくるのも同じ理由。
己の実力に対する、絶対的な自信。決して過剰なのではなくて、本当にそれだけのものを秘めている。
そんな確信を抱かせる、男。
「……逃げろ。まだどこかに味方の航空騎兵がいるはずだ。探し出して首都に向かえ。ここで起きたことを陛下に伝えろ」
「それなら閣下が――」
「この図体で後ろに乗れば、振り切れるものも振り切れん。こちらはこちらでどうにかする。行け」
ヘルマンの背後、少尉がぐっと唇を噛み締めた。
「お待ちしています、閣下……! パッヘルベルで、待ってます……!」
「ああ、約束だ」
意を決して駆けてゆく少尉の気配に、ふとヘルマンは笑いたくなった。これでは上官と部下でなく、父親と娘のような有様だ。伴侶が居たとして、あんな風に出来た娘は望めまいが……。
そうして、問う。目の前の敵に。
「何者だ」
返答はなかった。動きもない。
だから続ける。少なくともこの男がここにいる間、あの若い少尉を槍が追いかけることはない。こんな相手に追撃されるくらいなら、歩兵小隊から逃げ惑う方がよほど楽だ。
「王国の者ではないな。なぜ彼等と共にいる。……フレスベルグに何をした」
「――些末事よ」
ようやく、男が喋った。渋みのある低音と、漂う余韻。嘲笑。
「なに?」
「こちらの事情とあちらの事情。どちらも知らぬ。どちらも等しく、些末事よ」
「……ならば、なぜ青羽につく?」
菅笠の下から、男の口元が微かに笑った。
「魔王を名乗る女の話を聞いた。腕が立つ上、斬っても死なぬと。ならば本当に死なぬかどうか、斬ってみる甲斐があるというもの」
嘘を話す口ぶりではない。魔王の存在を知り、斬ってみたくなった。お前は偶然、魔王の側にいた。これから斬る側の人間なら、この場で斬らない理由はない。
男の物腰はそう語っていた。
「……お前は、なんだ」
「さてな」
また笑う。笑った後で、男は続ける。
「神だなどと語る童には、勇者だなどと呼ばれている」
ヘルマンが斬り込む。直上から振り下ろされたツヴァイヘンダーが、男の胴体へと迫り――槍によって防がれた。刃とは逆側の、単なる柄に。
――ありえん。
たとえ鋼で出来ていようと、質量も威力もこちらが勝る。骨格で支えて受けたにせよ、傷ひとつつかないとは道理に反するではないか。
ヘルマンの声なき驚愕に、男の微笑が重なった。空いていた左手を、逆向きにして槍を掴む。防がれたままの大剣が、反転する長柄に弾かれた。
「……!」
一瞬早く飛び退いたヘルマンの、今まで居た空間を穂先が薙ぐ。逃れた先、休む間もなく刺突が迫った。
「ぐっ……!」
足元を狙った一撃。大剣で払いながら右側面へ抜けると、両者は再び向かい合う。一見すると双方共に無傷。しかし、
――左半身……鈍っているな。
至近距離で光速砲を受けた影響。逃れたように見えて、左足が僅かに遅れる。脛の辺りから鮮血が流れた。掠り傷程度。骨や筋には達していない。
「その図体でよく動く。それにしても、物の怪も血は赤色か」
挑発、ではない。男はどうやら本気で言っていた。
「オークを見るのは初めてか?」
「そうともよ。こちらの世に来て、なにしろまだ数日だ」
事も無げに言い放つ。せせら笑って使った、その表現が気になった。こちらの世に、と。この国に、ではない。ずっと昔、ギムナジウムで受けた歴史学の授業を思い出す。
衰退戦争の頃、別の世界から現れたという戦士たち。かつての魔王と相対し、世界を救った英雄。すなわち勇者。
同じ称号で呼ばれたと、男は言った。現状を振り返ってみると、あながち虚言とも言い切れない。しかし目の前の敵が本当に勇者だとして……。
「なぜ陛下を狙う?」
「言ったはず。斬ってみる甲斐があるからよ」
「貴様の理屈ではない。貴様の言う、童の……神とやらの事情だ。陛下には世を滅ぼすつもりも、神と相対するつもりもない」
「魔王を名乗っている割に、ずいぶんと懐が広い」
「そういう方だ」
返答に、男が踏み込んだ。またもや放たれた刺突。今度は胸元を狙ってくる。身体ごと回転させて受け流すものの、次の瞬間には斜めからの振り落としとなってヘルマンを襲う。
咄嗟に身を屈めてやり過ごしたが、
「……!」
いざ反撃に転じようとした矢先、左足が言うことを聞かない。先ほどの傷はヘルマンが自覚している以上に深かった。ほとんど麻痺した状態では己の痛覚などあてに出来ないのだと、今更ながらに悟る。
これを見逃す甘さを、敵は備えていなかった。
「ぐぉッ……!」
三度目の突き。だが今までとは軌道が違う。真正面からツヴァイヘンダーで受けたヘルマンは、直後にどういう原理か思い知った。
捻りを加えた一撃。受けに徹したのは失策だ。大剣ひとつでは衝撃をまるで止め切れず、ヘルマンは背中から壁に激突した。
「く、ぐッ……!」
追撃は止まない。前進を阻む大剣を、男はこのまま断ち斬るつもりか。左右へ伸びた十文字槍の片側が、すぐ鼻先にまで迫っていた。
「知らぬ」
未だ槍を押し込みながら、不意に男が言い放つ。魔王は神と戦う気などない。そういう人柄なのだと告げたヘルマンに対する、今更になっての返答だ。
「神の事情など、おれは知らぬよ。聞きはしたが、もう忘れた。己で問うてみるがいい。貴様らにも、あの世くらいはあるのだろう?」
ツヴァイヘンダーが悲鳴を上げた。堅牢であるはずの刀身がひび割れ、砕ける。そのまま首を断たせる寸前、
「おぉ――ッ!」
刃を掻い潜ったヘルマンが、折れた得物を手に男の懐へと潜り込む。伸ばし切った槍の内側。男に成す術はない。とっくに限界を向かえている肉体を怒号によって突き動かして、ただの人間の、オークに比べれば遥かに華奢な体躯へ迫った。
突き出す切っ先。砕けていようと刃はある。押し斬られた断面。研がれてもいないそれも、だが強引に放てば人を貫く――!
刹那だ。
「見事」
皮肉抜きの称賛へ、鯉口を切られた響きが重なる。風が吹き抜けた、とヘルマンは思った。思うと同時に、両肘から先が宙に舞う。
「――ッ」
戦意が途切れ、思考が消えた。大剣を両断した時点で、男の手は長柄のもとを離れていたのだ。そして槍が落ちるより早く太刀へ手をかけ、一閃を伴う抜刀によりヘルマンの剛腕を、返しのもう一太刀で首を断つ。
再び鞘に収まった白刃を、だがヘルマンにはついぞ視認できなかった。わかったのは自身に訪れた結末と、目に焼きついた文様だけ。
果たしてそれは、男の刀に浮かび上がった鍛え肌であるのだろうか。波打ち連なる幾何学模様。もしそうならば美しいと独りごちる。この世ならざる美しさを秘めた妖刀。二つと存在し得ない人を殺める道具。
だが、とヘルマンの中で矛盾が生じた。二つとないはずなのに、以前にどこかで見かけた気がする。あれはどこだったか。誰だったか。
思い出せないほど遠くて。忘れられないほど近い。いつかの白昼。
あの娘も、やはり、陛下を――。
「……ふん」
血風と共に転がったオークの首を、男は小首を傾げて見下ろした。斬り伏せた敵に何を想うか、あるいは何を憂うか。面差しは菅笠の下に隠れたままで、やはり窺えない。
いずれにせよ大したものでなかったらしい。転がっている槍を拾い上げると、また無造作に肩へと担ぐ。
すると、
「――ご苦労様です」
「ほう。居たのか」
部屋の隅から上がった少女の声に、男はさして驚きもせず振り向いた。彼の台詞ではないが、実際のところいつから居たのだろう。殺し合いを見守っていたのなら、男とヘルマン、両者の目を欺いたことになる。
異様に白い、その少女は。
身にまとった法衣らしき布地もそうなら、肌も髪も、全てが白い。そしてひょっとすると、双眸も白濁しているのだろうか。閉じたままで開こうとせず、しかし男の方を確かに見ている。外見からすれば十歳にも満たないだろう、幼い子供。
「まるで気付けなんだ。いつから居た?」
「正確には、私はここに居ませんよ。投影しているだけです」
「ほお……? どれ」
言うなり、男は何の前触れもなく少女めがけて槍を投じた。脅しや冗談の類ではなく、胴体に。十文字槍は確かに少女の身体を貫き――そのまますり抜けて壁に突き立った。
「ふん、影か。つまらん」
「物騒ですね」
「人斬りが物騒で何が悪い」
平然と言ってのける。万が一にでもこれが実体を持つ本物だったとして、眉ひとつ動かなかったに違いない。
「大目に見ましょう、今回は」
「そりゃ嬉しい」
「いかがですが? こちらの戦いは」
「楽しめてはいる。今のところは」
「それはそれは。嬉しいです」
互いに挑発的な物言い。気心の知れた仲間、という雰囲気ではなかった。機会さえあれば殺してやる。そういう内面が透けて出ていた。
「向こうはどうだ」
「終わりましたよ。ビーリングは死に、お二人共、無事に帰路へついています」
「おれも帰るとしよう」
直後、突き刺さったままの槍が消える。跡形もなく。まるで最初から何もなかったかの如く。されど穂先の傷跡だけは刻みつけ。
魔法。それともスキルか。
「ふたつだけ、お尋ねしたいことが」
「知らぬ」
さっさと踵を返した。向かう先は若い少尉が逃げた通路。城塞の外へと通じる道だ。
しかし、
「ひとつ。なぜ遅らせたのですか?」
白い幻影が、進む先で待ち構えている。
「ヘルマンが戻る前にゼバスティアンを攻める。そういう計画だったと思います。なのにどうして、彼の帰還を待ったのです?」
「楽しみが減る」
「つまり、あなたの個人的な欲求を満たすため、将兵の命を無駄にしたと」
「おれに軍を預けておいて、勝手はするなと今更抜かすな」
「とんでもない」
少女の顔に笑みが浮かんだ。明るく無邪気な、おそろしい顔。
「あなたは勇者様なのですから。あなたのやることは、全て正しいに決まっています」
「なら失せろ」
「ふたつ」
と、また行く手に現れた少女が訊いた。
「なぜ見逃したのですか? 魔族は全て殺すようにと、あなたにはお願いしたはずです。逃げた女性も魔族ですよ」
「次は斬るとしよう」
「今、斬って欲しかったのです」
微笑みが問い詰める。
「勝手をするなとは抜かすな、そう言ったはずだが?」
「誤解なさらないでください。不思議に思っただけです。勇者様は人斬りを自称していらっしゃるのに、女子供は斬れないのですか?」
白い少女の、外見は天使。では中身はどんな怪物だろう。それとも、これは無垢を突き詰めた結果なのか。穢れはないが優しさもない。この微笑は人が犯したあらゆる罪を赦しながら、表情を変えずに首を括らせる。
「斬りたければ斬る。他にはない。たとえば同じ女子供でも、お前の首なら喜んで刎ねよう」
「私の首を? それはおかしいです、勇者様。だって私は神様ですよ?」
かくもあっけなく、少女は告げた。異なる世界の魂を連れ込み、魔王を滅ぼさせる信仰の対象。両者の関係がもし本当に勇者と神であるなら、衰退戦争の頃と同じ状況だ。
ただ一点。現在の魔王も、先代と同じ人類にとって絶対的な脅威であるか否か。そんな問題に目を向けなければ。
「くっ、くくっ……!」
「……?」
ようやく足を止めた男の口が発する笑いは、やはり嘲り。ただしヘルマンに向けた時よりも数段、侮辱の色合いが強い。
「どうされました?」
「いやぁなに。相も変わらず可笑しくてな。お前が神とは」
「あなたにとっては神ではないと?」
「いいや、知ったことではない。ただ教えておいてやろう。善人を名乗る善人ほど、腹の底には黒い滓が溜まっている。神を自称した時点で、お前は神になど程遠い」
少女の笑みが深まった。そういう形をした怒り。人の分際でよくもほざくと、幼い姿で告げていた。
「貴重なご意見です。あなたが仰るのなら、きっと正しいに違いありません。ということは、人斬りを自称する勇者様も、人斬りになれない半端者ということなのですね」
「怒ったか」
「ええ。怒っています。あなたにそう見えるのなら、私はとても怒っています。あなたが心の底から、勇者であると自称してくださればいいのに。そうすれば、あなたの理屈であなたは勇者でなくなります。勇者様でないのなら、私があなたを壊したとしても、何の問題もありませんでしょう?」
気高い神の、傲慢なプライドを傷つけたらどうなるか。彼女はきっと本気でやる。肉体を壊し精神を壊し、魂までも破壊して苦しみを与え続けるだろう。
「心配はいらんよ、神擬き。おれは半端な人斬りでいい。お前が望むようなことは、ひとつとしてかなえてやる義理がないのだから」
「それを聞いて安心しました、勇者様。とてもとても安心しました。いつか必ず、あなたに神罰が下りますように。いつの日か必ず、あなたが私に赦しを請いますように。私はあなたの、武運長久を願っています」
怨嗟の祝福を言い残し、少女の幻影が消え去った。すうっと風景に同化し、もう通路には人斬りの男しか残っていない。
彼はそのまま何食わぬ顔で外へと赴き、待ち構えていた航空騎兵を仰ぎ見る。
「済んだぞ」
「……了解」
鉄面皮の下、苦虫を噛み潰した表情で騎手は言った。
「あの王太子だか皇太子だかは、どうしてる?」
「ご命令通り……騎兵を率いて北西へ」
「では、もうこの地に用はない」
男が後席に乗ると、飛竜はゆっくりと羽ばたいた。夜更けにあるまじき明るい空。燃え盛る都市を眼下に、友軍の群れへと合流する。
「壮観だな」
零した男に対し、騎手は何か言おうとして――口を噤んだ。魔族帝国が誇る南方最大の軍事拠点。要塞都市ゼバスティアン。最大の脅威である対空防御塔を失い、援軍すら断たれたかの城塞は、すでに残骸となり果てた。
防御層は突き崩され。守備隊は退路を失くして掃討され。逃げ遅れた民間人と兵士とが、放たれた火に生きながら焼かれる。動く者のない都市の骸。ならば空から見下ろす光景は、さながら火葬といったところ。
「引き上げだ、フレスベルグ」
「……承知しました」
騎手は――青羽の王国で唯一、魔族の血を引く混血の将は、照らされた空に光球を放つ。十メートルほど上昇して弾ける、発光信号。交信魔法よりずっと容易く、ジャミングの影響も受けない簡易的な命令手段。この場合は撤収の合図となる。
呼応して、まだ低空に残っていた各部隊から同じ信号が上がってきた。神と勇者の名のもとに、魔族と決別した正義の軍隊。あの少女が本当にその神だというのなら、納得のいく景観だ。
都市を焼き尽くして去る飛竜の群れ。一切の例外なく、魔王に加担するものを排除する暴力。彼等の姿には、確かに白い少女の狂気が重なって見える。あのおそろしい微笑みが望む光景は、まさに地上の惨劇だった。
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