0-04 女は自らを聖女と称した
気付いたときにはもう遅い。
樹の裏から飛んできたロープはものの数秒で女の動きを封じた挙句、別の幾本かはその身体を勢い任せに引き上げた。
その先に繋がった部分を別の木陰から引きずり出し、ヴィルは慣れた手つきで丈夫そうな枝にそれを括る。
事実、慣れている。
普段からこの雑木林で鳥や動物を捕らえているし、それ以前に傭兵時代の戦場でも、敵の陣形を崩せる罠は有用な技術だった。何ごとも覚えて損はない。
「……やっぱ若いな。二十歳かそこらか」
つるし上げられた衝撃で帽子が脱げ落ち、ようやくアトレーゼの顔をはっきりと見られた。
零れた長い黒髪は少々癖が強く、木漏れ日を浴びて
なかなか美人だ。顔立ちだけなら正直ちょっと好みだったし、不思議なことに、初めて会う気がしなかった。
……もちろん不死身の怪物に知り合いはいないが。
紅墨色の瞳が困惑気味にヴィルを見上げているが、その表情も悪くない。
「まあ歳なんざどうでもいいが、何だって俺を殺そうとする? 教会がどうとか言ってたから、おまえさんの個人的な恨みじゃあないんだろうが、俺だって訳もわからんまま大人しく死んではやれねえ」
「……」
「つまりだ。おまえは誰に雇われてて、そいつはどこにいる?」
この女を殺しても仕方がない。
女を送り込んできた大元をどうにかしなければ、ヴィルの生活に平和が戻ってこないのだ。
戦争の時代が終わり、もう傭兵の仕事はないと見切りをつけて引退した。
誰も殺し合わずに済むならそのほうがいいと思ったからだ。そしてもう、自分もこれ以上誰も殺さずに生きたい、できるならそれに越したことはない、とも。
しかしアトレーゼは、吊るされているせいか息苦しそうな声でこう答えた。
「雇われてなどおりません……私は
聖女とな。
思わぬ単語にヴィルは目を丸くしたが、むろんアトレーゼは冗談を言っているふうではない。
その言葉にはもっと淑やかな印象がある。
きれいに磨かれた教会の壇上で、聖書やら清められた道具を片手に人びとに笑顔と癒しを与える、そんな人畜無害な女に与えられる称号だと思っていた。
まさか無骨な鉄塊を振り回して男を殺そうと詰め寄る怪女が、自ら『聖女』を名乗るとは。
その教会とやら、ほんとうにまともな組織なのか?
という疑問がヴィルの脳裏をよぎったが、それを実際に口にするより先に、アトレーゼに異変が起きた。
ふいに彼女の胸元からボタンが弾け飛び、ヴィルの顔に当たる。しかし問題はそれではない。
なんと服の内側から、糸と繊維を引き裂いて、あの大剣の刃先が飛び出してきたのだ。
いつの間に手から消えていたのか。
まったく気が付かなかったが、そんなことがありえるのか。
いや、そもそもなぜ剣が身体の中から現れる?
驚愕しつつもヴィルは剣を構える。
なぜなら今の思わぬ一撃により、アトレーゼを封じていた縄も切れたからだ。
切り裂かれたドレスの胸元から豊かな乳房が覗くのすら構わずに、解き放たれた怪物は、ふたたび剣の柄を握りしめる。
まったくもって異様だった。半裸の女が長い黒髪を振り乱し、身の丈よりも大きな剣を振り上げる、その光景はいっそ凄艶にすら思えた。
これを聖女と呼ぶには趣味が悪すぎる。
むしろ悪魔のごときその女は、しかし存外聖女の名に相応しいような麗しい声で、死を告げるのだ。
「大儀のためです――天使の御許に下ってください」
鋼鉄が叩きつけられる。
しかし、そこにあるはずだった、頭蓋を打ち砕かれた男の死体はない。
すでに半歩下がってそれを避けた元傭兵は、恐れなど微塵もない不敵な笑みさえ浮かべ、宣言する。
「断る。悪いが俺は信心深くねえんでな」
ヴィルの剣は流れるようにして空を斬り裂き、刃幅も刀身も数倍はあるだろう大剣を薙ぎ払った。どこをどう突けばいいかは経験が教えてくれる。
これほど大きな得物なら、いかに体幹を鍛えていたとしても重心を保つのは易くない。
均衡を崩されたアトレーゼの指が一瞬ばかり柄から浮いた、その刹那をヴィルは見逃さなかった。
踏み込みは半歩で充分。そこでわずかに上体を屈め、そのまま左の肘で露わになった胸の下あたりを強かに打つ。
「――諦めな。少なくとも剣と喧嘩じゃあ、おまえは俺を殺せねえよ」
主を失って地面に転げ落ちた大剣が、木の根を自重だけで叩き割る。
それと同時にアトレーゼがくずおれるのを、ヴィルは抱くようにして押し止めた。
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