二話 柚希の運命

『シュガー』


「ニャー」


『ただいま』


 空き家にシュガーを置いて帰るようになって1週間。

学校が終わるとここへ缶詰を持ってきて、俺の膝に乗ってそれを食べる姿を眺めるのが日課になっている。


『今日何してたの』


眉間を撫でてやると目を細めて気持ちよさそうにする顔に、とてつもなく癒される。

足や腕に絡みつくように身体を摺り寄せてくると、寂しかったと言われているみたいで胸が苦しくなるけどその姿すら可愛い。

シュガーと出会ってから、忘れていたような、感じたことないような気持ちを感じることが増えたけど、実はこの気持ちを他の誰かにも感じたことがある…というのはこの世できっと俺しか知らない。


『あ、おい。鞄の中に入ろうとすんな』


「ニャー」


『お前汚れてるだろ。それ踏むなって』


鞄の奥に潜ませていたそれを取り上げると、シュガーは不思議そうに俺の指先に視線を向けた。

男子学生の鞄に入っているには違和感のある、赤いリボンがかかった小さな箱。

いつでも渡せるように鞄に入れていたものの、渡すタイミングがなくてもう何週間も眠っていたそれ。

見るたびに気が重くなるから、目に付かないように鞄の奥に入れていたのに。


「ミー…」


耳を下げて俺を見つめるシュガー。


『別に怒ってないから。…それにこれ捨てることになるかもしれないし』


鞄の中に面白いものでも見つけたのか、ゴソゴソと動く鞄を見つめながら手の中にある箱を指でなぞった。

 隣りに住む二歳年上の幼馴染の乃々香が、俺の卒業式の前日に専門学校を卒業する。

同じタイミングで俺も高校を卒業して、そんなに遠くないとはいえ実家を離れるし。

ずっと隣りにいた幼馴染に、挨拶の一つというか、晴れて乃々は社会人になるわけだからお祝いくらいしてやろうと。

ただそれだけ……なら、まぁ今日にでもインターホンを押しに行けばいい。

行けない理由があるから今もこの手にこの箱があるわけで。

 今までは近くにいたから気まずくなりたくなかったし、いや、そんなことより本音は自信がなかったからだけど。

元から落ち着いた性格の乃々は、どんどん大人になっていってるように見えて、本当は少し距離が遠くなったように感じてた。

それに…乃々は入りたい会社を見つけて専門学校で色んな勉強をしていたし、俺がピアノを、色んなものを諦めている間も、昔と変わらず努力していた。

 乃々の隣りは当たり前のように俺だなんて小さな時から思い込んでいたけど、それはただの幻想なんだって少しずつ気付き始めてる。

彼女の隣りにいるためには今までの自分じゃダメだ。

だから、家を出てやりたいことに向き合おうと思った。

苦労したってあの家で卑屈になって過ごすよりずっといい。

でも俺がちゃんと夢を叶えられるまでに、乃々のことだからさっさと良い人見つけてよろしくやってんのかもしれないなとか考えたら、せめて…ずっと好きだったことくらい伝えてから家を出たっていいだろ。

そう思っていたけど。


『…簡単には言えない』


「ニー」


『鞄飽きたのか』


「ニャー」


『何だよ』


「ニャー」


『…さっさと渡せって?』


「ミー」


『それとも捨てろって?』


「ニャー」


『はは、どっちだよ』


ケジメをつけるためにも、伝えた方がいいとは分かってる。

そう思ってこれだって買ったんだから。


『シュガー』


膝の上で昼寝しようと身体を丸めたシュガーが尻尾で返事をする。


『もし振られたら…慰めろよな』


「ンニャー…」


もう完全に目を閉じているのに、愛想程度に返事するシュガーの小さな温もりが心地いい。


『お前も早く安心する場所で寝たいだろ。…あともう少しだからな』








「柚希!何してるの?」


『…っうわ!』


俺の声に驚いたシュガーが飛び上がって地面に着地する。


「わ…猫!」


『びっくりするだろ。急に声かけんな』


 いや本当にびっくりした。

バクバク鳴る心臓に手を当ててシュガーを抱き上げる乃々を見上げた。

こんなタイミングよく現れるか?

最近顔見てなかったのに、今日に限って。

いつからいたんだ。まさか、あの独り言を聞いていたなんてことは…。

猫相手に、振られたら慰めてくれなんて話しかけていた自分の姿を思い返して、ゾッとする。


「可愛い!どこの子?」


「ニャー」


「柚希!この子返事したよ!可愛い」


『おい、話聞け』


「ね、どこの子?名前は?」


一方的に話しながら目を細めてシュガーに顔を近づける乃々を見て、小さく胸をなで下ろした。

幸いなことにあの独り言は聞こえてなさそうだ。

もし聞こえていたら、乃々なら気になるって顔で俺を見て、我慢できずに聞いてくるだろうから。


『…シュガー』


「シュガー…?」


「ニャー」


「わ、また返事したよ」


『シュガーは賢い猫だからな』


 まるで我が子のようにシュガーを自慢して、興味津々の乃々の質問に答えている間、目線は泳ぐように鞄の上に置いた”それ”に向いてしまう。

渡すなら今かもしれない。

一瞬そんな考えも頭を過ったけど、餌をねだり始めたシュガーの缶詰を取る動作に紛らわせるようにして箱を鞄に押し込んだ。

餌を食べる姿を二人でしゃがんで見守りながら、いつも通り会話を交わすけど、服の中は変な汗がずっと滲んでる。

だって心の準備も何もできてないのに。

今ここで渡すのか?

いや、渡すにしても今伝えるのか。

いやいや。今じゃないだろう。卒業式もまだだし。やっぱりそれが終わらないことには…って俺は一体誰に言い訳してんだ。


『…乃々も共犯だからな』


「え…?」


『あと一週間。乃々もシュガーの様子覗きにきてやって』


引越しまで後一週間ある。

引っ越しの当日までに、気持ちの準備をするしかない。

俺の中でちゃんとけじめがつけられるように。


「新しい家に引っ越したら私もシュガーに会いに行っていい?」


ほら…諦めようとしたって、俺を見つめるその瞳に心は言うことを聞いてくれそうにない。

どうしたって、俺が乃々を好きなことは変わらない。


『俺の飯もついでに作るって約束してくれるなら』


「ふふ…うん。約束する」


 意味わかってんのかよ。

嬉しそうに笑う乃々の顔を見ていると自然と頬が緩みそうになった。

おんぼろアパートだけど、シュガーを温かい布団で寝かせてやれて、その隣りで乃々が笑ってくれるなら、俺はもう何も諦めたりしないから。

もし、乃々が今は俺を選んでくれなくても、乃々のことも諦めたりしないからな。


 未来はそうやって、ずっと続いているんだと思ってた。

心さえ捨てなければ、傷つくことを恐れなければ、俺自身を見失わなければ、どんなに時間がかかっても幸せな未来があるんだと思ってた。

その気になればなんでもできるんだと思ってた。

毎日は当たり前に繰り返されるんだと思ってた。


いつか自分の夢を自分の手で叶えて、父さんと母さんを安心させてあげたいと思ってた。


兄ちゃんの自慢の弟になりたいと思ってた。


いつかシュガーが歳をとって自分の力で歩けなくなったって、飯を食えなくなったって、その命が尽きる日まで俺が側にいるんだと思ってた。


乃々がどんな返事をくれても、最後に選ぶのは俺であると…そう信じてこれからも前を向いて生きていこうと思ってた。


 そうやって俺の人生は…当たり前に続くのだと思ってた。







 引っ越し当日、空は雲一つなくいい天気だった。

荷物なんて荷物はないけれど、最低限の家電製品と日用品がアパートに入って、後はシュガーを連れてくるだけだ。

シュガーの為に用意した首輪と小さなベッドは、どちらもシュガーの目の色と同じミント色にした。

古くて必要最低限のものしかない部屋にあるのがミスマッチにも感じるけど、きっとシュガーも乃々も気に入ってくれるだろう。


『さぁ…迎えに行くか』


シュガーと一緒に今日は乃々も来ることになっている。

テーブルの上に小さな箱を置いて、用意した台詞を頭の中で何度も繰り返した。

大丈夫。今日は言える。

靴を履きながら腕時計に視線を落とすと細いミント色のブレスレットが視界に入って、口元が緩んだままドアを開けた。

露店で買った安物だけど。シュガーの目の色にそっくりで一目ぼれした。

一緒に暮らし始める日につけようと、今日腕に通したばかりだ。

 外に出ると昨日とは景色が全く違って、吸い込んだ空気すら美味しく感じる。

今日から俺はここで生きていくんだ。


”いまから行く”


乃々にそうメッセージを送って、歩き出した。

 しばらく歩いた先にある公園から聞こえる子供たちの声は、色んな音に敏感な俺が、数少なく好きだと感じる音。

その声に耳を傾けながら信号で止まった時に見た景色。


それが俺がはっきりと見た最期の景色だったと思う。


公園の前の横断歩道にある信号は赤。

でもそれに気付かず後ろに手を振りながら公園から走ってきた男の子。


次にぼんやりと見えた景色は、濁った青だった。

今日はいい天気だったのに。

この後雨でも降るんだろうか。


それなら早くシュガーを迎えに行ってやらなきゃ。


どこかで色んな音が聞こえる気がするけど、よく聞こえない。



シュガー待ってろ。すぐ行くから。

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