海の夢 / 娘娘

追手門学院大学文芸部

加筆版

 目の前に広がる青い海と空。その景色は壮大で見ているだけで飲み込まれてしまうと思うほどだ。だが、その景色に踏み入ることを禁じているように、鉄製の柵がそこにあった。

 事前知識なしにこの景色をみると、柵が邪魔に思えるが、ここは屋上。なくてはならない大事なものだ。むしろ、学校の屋上だと言えば、簡単に飛び越えられてしまうような腰までの高さしかない柵は心許ないだろう。故に、屋上は原則立ち入り禁止となっている。この壮大な景色の中、私がいることも、キャンバスを広げた男がいることも間違っているのだ。


「海に飛ぶんだ。海に手が届くように」


 こっちに視線など全くよこさず、雲ひとつない青空を見つめたまま、男は静かにそう言う。

 その男の姿は、この壮大な景色の中でも存在感があるのに、語る声はどこか儚さを含んでいた。


◇◇◇


「……大丈夫?」


 突然、後ろから声をかけられ、俯き気味の顔をあげる。

 後ろには、こんな私にも根気よく付き合ってくれる幼馴染が居た。


「ぼーっとしてたみたいだけど」


「だ、大丈夫。何もされてないし、気分もいいよ」


 心配性の幼馴染に、いつも以上の心配そうな顔をされ、焦って一瞬言葉に詰まってしまった。最近は梅雨も明け、猛暑日が続いているのだ。教室で席にも座らず呆けて思い出に浸っていては、熱中症だと疑われてしまう。それがなくとも、常に彼女の私に対する心配事は絶えないというのに。


「本当に? なにかあったら」


 幼馴染の言葉を聞き終わる前に、左肩に突然痛みが走る。

 反射的に目を向けると、悪意の籠った目がそこにあった。

 不味い。

 見たらだめだ。


「ちょっと」


「いいから」


 幼馴染が声をかけようとしているのを制止する。肩がぶつかるなんて可愛いものだ。反発なんてしようものなら、次何をされるかわかったものでは無い。今日は珍しく、思い出に浸る余裕ができるくらい大きなことはなかった。きっと今日のあの子達は機嫌がいいんだろう。これぐらいですむなら、大人しくしていた方がいい。


「こういうのは、ちゃんと言わなきゃ駄目だよ。私もう見てられない」


「……私、今日は用事あるんだ。先に帰ってて」


 そう言って早足に教室を出る。私を呼ぶ声が後ろから聞こえたような気がしたが、これ以上は聞きたくない。どうしようもない心の奥底の暗い部分を吐き出してしまいそうで、怖かった。


 とにかくこの気持ちを消したくて、急いで階段を上がる。放課後には初めて立ち寄る屋上へ。もしかしたらこの時間も居るかもしれない。いなくてもさっきの平穏な思い出に浸りたい。あの空間だけが、私の味方なんだ。

 人の目を気にしながら最後の階段を上り、迷いなく扉をあける。


「この時間に珍しいね」


 壮大な青さとともに迎えてくれた人物から声がかかった。こちらを全く見ずに声をかけてくる姿を見て、安らぎを感じる。

この変わらない景色に、戻ってきたんだとそっと息を吐いた。


「先輩、この時間も描いてるんですか」


「まぁ、夏は日が沈むのも遅いしね」


 たしかに。そう言葉にして、椅子に座った先輩の傍に気をつけながら腰を下ろす。落ちた絵の具が地面を汚さないようにか、先輩を中心にして広がるようにブルーシートが敷かれているのだ。そのおかげで座った時、地面からくるコンクリートの暑さも少し和らいでいるのはありがたいが、絵の具で汚れないように気をつけなければならない。この先輩は、何故か青しか絵の具を使わない。使わないというか、青しか持っていないのだ。ブルーシートに青の絵の具は、見えはするが、気をつけないと自身の服を汚してしまうのではないかという不安があった。


「で、どうした?」


 心配してくれているのだろうか。にしては、筆が動き続けているし、幼馴染と比べて顔は心配しているようには見えない。

とりあえず、どう答えたものかと少し考え、さっきの思い出話を振ることにした。


「ふと思い出したんです。私と先輩が出会った時、気になること言ってたなって」


「気になること?」


「海に飛ぶって。やけに真剣に言ってたの覚えてますか」


 私の言葉に、あぁと納得したような声をあげた先輩は、筆を置き、空を見上げた。


「……海って、この世界の7割を占めてるって知ってるか」


 突然何を言い出すんだ。驚いて、言葉を無くしてしまった。初歩的な地理の話だろうか。それにしても、言い方がポエマーみたいだ。


「海7割、陸3割の水の惑星。それが、我々人類が住む地球なのである」


「えっと」


「ここ景色は、どこまでも繋がっているように見える。俺が今、3割に居るって言うなら、7割の世界を見た時、鮮やかな世界が……自由が待ってるかもしれないって」


 ポエマーですね、なんて、茶化せる雰囲気では無い。それほど真剣であり、でもどこか悲しそうに話す先輩に、何をいえばいいのか分からなかった。ただ、なんとなく、共感してしまう自分もいた。そんな私を、この時初めて視界に入れた先輩は、雰囲気を緩めて笑う。


「夢なんだ。海に飛ぶことが。飛べたら、届きそうだろ?この景色に」


「そうかもしれませんね」


 私も笑う。人間は飛べないと無粋なことをは言わない。海は下にあって、手なんてすぐ届くなんて、言うつもりもない。先輩の後ろにあるキャンバスには、上下が反転したような海と空の絵があったから。


◇◇◇


 梅雨なんて終わったと思っていたのに。全身濡れてしまった服を見て、次何をされるか分からない恐怖を憎しみに変える。今日は、雨が降っていた。通り雨だったのか、昼頃にやんだ雨は、水溜まりとなって嫌がらせをしていたらしい。気分を損ねた彼女たちが、トイレにいた私を見つけたのは、数分前のことだ。数日前は、感動と安心を与えてくれていた空を憎む。小さな窓から見える空は、とても濁っているように見えた。


「そろそろ靴下乾いたかなぁ」


「汚いし、教室もどろ」


「自分で水浸しにしちゃったんだし、ついでにトイレ掃除しときなよ。マジメちゃん」


 彼女は持っていたホースを渡し、用は済んだとばかりにトイレを出ていく。濡れていないことが気に入らないと水をかけられて、私は今全身が濡れている。このままトイレを出たら廊下を濡らすことになるし、放課後とはいえ人が居るであろう所に出れば注目を浴びるかもしれない。そんな怖いことはごめんだ。ある程度乾くまでトイレで待つことを心に決めて、持っていたホースを片付け、スカートの裾を雑巾のように絞る。トイレに入ってくる人を恐れて、隠れるように洋式トイレの一室に入り、ほっとしたあたりで、孤独感が襲った。


「なにしてるんだろう」


 ポタポタという地面が鳴らす音と共に呟いた言葉は、震えているように聞こえた。


◇◇◇


 今日は晴天だ。この壮大さも見慣れれば、なんてことないように思えてくるのだろうか。私は今、この青さを見て何も思えない。いや、むしろくだらないとさえ思えると言ったら、先輩はどういう反応をするのだろうか。


 油をさした方がいいような、少し耳障りのさびた扉を開けた音が聞こえ、音の方に振り向く。


「先輩。この時間に珍しいですね」


「……それは、俺の台詞じゃないかな」


 そこには、先輩がいた。先に私がいることが怪しいと思っているのか、目を細めている。いや、眩しいだけか。


「初めてだ。この景色は」


「前々から思ってましたけど、先輩ってかっこつけですよね」


「今日は辛辣だな」


「前にかっこつけてた時、言ってましたよね。海に飛ぶのが夢だって」


 かっこいいと思って言ってた訳じゃないんだけどな、と小さな声が聞こえるが、今日は態度で無視することを示すように空を見上げ、話を続ける。


「私も共感したんですよ。理解はあまりできなかったんですけど、なんとなく分かるようなきがして。それで、考えてみたんですけど、私も夢なのかも知れません。海に飛ぶこと」


 言葉にして、どこか落ち着いたような気がした。もうどうでもよかった。ただ、言いたいことを心のままに声に出していたら、納得できる言葉が見つかったような気がする。初めから心の奥底にある暗い部分は、きっとこれを望んでいたんだ。


「夢物語は今日で終わりです。私は今から海に飛びます。背中押してくれますよね。先輩」


 先輩は、夢を叶える後輩を祝ってくれるだろうか。それとも、悲しんでくれるのだろうか。

 心ですがりながら先輩がいるであろう後ろは、もう見れなかった。後ろを見ることも、前を見ることも怖かった。ただ、この変わらない空が、先輩の言う海が、全て解決してくれたらと願うことしかもう出来ない。空を見て海を見て、安堵するのは何度目だろう。くだらないよ。本当に。


「今見ている景色がもし、本当に輝いて見えるのなら、飛び込んでみるのもありかもしれない」


 声が横から聞こえ、驚いて身体が固まる。


「それは……先輩も死ねるのなら死にたいってことですか」


「今見てる景色が鮮やかに輝いて見えた時は、もう未練なんてないだろうなと思ったから。夢が叶った後なんだし、思いっきり飛んでみるのも悪くないかもなって」


 夢を叶えるために死ぬことはないと笑い声が聞こえる。この景色に、執着と呼んでもいいほど入り込んでいた人の言葉とは思えない。夢を叶えるためなら全て捧げてしまうほどの熱があると思っていたのに。


「俺には、本当の景色が見えてないんだと思う。みんなが言うようなモノクロって色に見えてるんだろうし、青って色もよく分からない」


 突然の告白に理解が追いつかない。だけど、分からないながらも、確実に私の中での先輩が崩れた。私は先輩のことを何も知らない。そう思い知らされているようだ。今までの先輩の言っていたことを少しも理解出来てなかった。 共感すら出来てはいなかった。


「でも、この景色は不変なんだよ。俺には、形も色も変わってないないように見える。だから、変わったものを見つけるまで、見続けようと思ったんだ。俺の見る世界で特別なものを見つけたら、もう自分の見る景色が他人の見る景色より劣っているなんて思わずにいられるかなって」


 先輩は、優しく語っていた。自分の弱みを見せて、安心させるように。


「空と海を逆さに描いても笑われないことを願ってた。上にある海に手が届くような発見をしてみたかった。見てる世界を否定されず気にしないでいられる自由が欲しかった。そうずっと思ってたんだ」


 恥ずかしい。しようとしていた自分の行為や、今まで自分がここに来ていた事も、どんな目で先輩は私を見ていたんだと、私を視界に入れない時どんなことを思っていたんだと、恥ずかしくなる。怖くなる。


「だから……ありがとう」


「……え?」


「笑わないで肯定してくれて、ありがとう」


 なぜ、感謝されたのか、分からない。分からないというより、もう分かった気になりたくなかった。先輩の気持ちは私には分からない。でも、ただ嬉しかった。認められて必要とされたんだって。


「泣くなよ」


 照れくさそうな先輩。自分の頬に手を当てると、手が濡れた。最近は泣いてばかりだ。


「ありがとうございます。先輩」


「なにがだよ」


「私もそろそろ変わらなくちゃと思って」


 質問の答えになってない返事をする。もう逃げないように宣言したかったんだ。もう、人の目を気にしないように。全て諦めてしまわないように。気持ちを誤魔化さないように。そう決心する。涙を拭い、先輩の方を見ると、先輩もこちらをじっと見つめていた。


「届きそうだよ。海の夢に」





あとがき


 初めまして。娘娘です。

 今回の作品は、思い出が詰まったものとなりました。というのも、この小説は高校時代に作った演劇脚本をもとにしています。

 脚本を書いていた時の癖なのか、登場人物の心情でなく行動や状況説明を書きがちで、この小説を書いている時、今私はなりきりチャットをしているのかなと黒歴史が頭をよぎりました。必要ない行動描写や説明しすぎているところを削除したり、行動を心情に言い換えたり、修正に修正を重ねましたが、なんだかまだ読み返すと違和感があります。

でも、思い出に耽りながら小説を書くのはとても楽しかったです。

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

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