第5話 散花
古ぼけ、色褪せた木製のブ厚い扉を開き、さらに赤茶けた鉄格子を抜けた先にある、レンガ造りの奥まった空間。
サンテティエンヌ家地下牢。そこにビフテキはいた。
ビフテキは依然気を失ったまま、天井から吊るされた手枷に繋がれ、その動きを著しく制限されていた。
「──う、うーん……」
しばらくして、ビフテキの体がビクッと小さく振動する。ビフテキは苦しそうに呻きながら、瞼を痙攣させながら、なんとかして目を開けた。
「──お目覚めですか」
そんなビフテキに声をかけたのは、さきほど執務室でビフテキの首に〝薬〟を注射した男だった。男は丁寧な口調でありながら、とても冷ややかな目で、焦点が定まってないビフテキを見下ろしていた。
段々と意識が覚醒するビフテキ。やがてビフテキは隣に何かの気配を感じたのか、ゆっくりと虚ろな顔で横を向いた。
「──え……わっ……あいたッ!?」
ビフテキの隣にあったのは、山のように積み重なった
「──ちょ、これ、なんなんですか!? 何やってるんですか!」
ビフテキは手錠と男の顔とを交互に見ると、やがて思い出したように「あっ!」と声を上げた。
「どうやら、思い出したようですね」
「あなたは……父の執務室にいた……。私をどうするつもりですか……」
「殺します」
「ころ……ッ!?」
あまりにも淡々と、業務的に吐かれたその〝殺意〟に、ビフテキの声が裏返る。
ブルーデンツと共に今まで、いくつもの死線をくぐり抜けてきた彼女にとって、男の吐いた〝殺す〟という言葉に
──が、その程度でビフテキが怖気づくはずもなく、彼女は「フン」と鼻を鳴らすと、強がりでもなんでもなく、ただ不敵に笑ってみせた。
「なんで脚は拘束しなかったんだ」
「それは──」
「──おい、もしかしてあんた、私のこと舐めてんの?」
殺意を向けられたことにより、自分も殺意を以て身構えるビフテキ。相変わらず両手は拘束されているものの、ビフテキの眼は人間というよりも、もはや獰猛な肉食獣に近かった。
「……この状況で、まだそういった態度をとれる元気があるとは……さきほどの俺の言葉を嘘か脅しかと思われたのですか? 『まさか本当に殺すつもりはないのだろう』『まさか本当にガルグマッグの娘である私を殺すわけがないだろう』と。……いいですか、わかっておられないようなので、申し上げておきますが──」
「いいや? あんたが本気で私を殺そうとしているのはわかってるよ。目、声色、視線、呼吸、足の重心……それらを踏まえて、あんたがこれまで、かなりの人間を殺してるって事もわかる。仕事柄っていうか、生まれてから……じゃなくて、捨てられてから、そういう類人間はいっぱい見てきたからな。……あんたからもその〝外道〟のニオイがプンプンしてくる」
「ほう?」
男は態度を一変させ、ビフテキを値踏みするように上から下まで舐めるように見回した。
「……んだよ。気持ち悪いな……」
「ククク……さすが、エドラー様のご息女。そこらのお嬢様とは違いますな……」
「エドラー?」
「おっと。今のは聞かなかった事にしてください。……もっとも、あなたはこれより、じっくり、ゆっくりと死んでいくのですからね」
男が蛇の如く舌なめずりをしながらビフテキに近づくと、ビフテキは大袈裟にため息をついてみせた。
「あのねぇ……わかってないのはあんただって言ってんの」
「ふははは。〝わかっていない〟ですか。俺の何──がァッ!?」
ビフテキが渾身の力で振り上げた脚が、つま先が、男の股間にめり込んだ。男は叫び声を上げる間もなく、その場にうずくまるようにして、もがき、苦しみだした。
「──それ以上近づいたら股間を潰すよ。……て、警告する前に近づいてくるから。ったく……」
ビフテキが再び嘆息を洩らし、改めて自身の手元──鎖に繋がれた部分を見た。
黒く、太い鉄の鎖が、手錠のような形状の鉄の枷に溶接されており、ガッチリとビフテキの手首を固定している。ビフテキはそれを押したり引いたり、
「……どうしたもんか。とりあえず、いますぐに次の監視員なり、代役なりが来そうな気配はないけど、それまでになんかとか──むぐっ!?」
突然起き上がった男の手が、アイアンクローのようにビフテキの口を塞いだ。ビフテキは即座に男の股間に二度目の蹴りを放つが──
「無駄ですよ、お嬢様」
ニタリと男は大きく口角を上げながら言った。その表情に、その得も言えぬ不気味さに、ビフテキは強い不快感を覚えて慄いたが、すぐに気を取り直し、男の顔を睨みつけた。
「なんでそんなにすぐ動けるんだ……と、驚いてますね? 残念ながら、執務室で注射したのは、特殊な筋弛緩剤です。意識や感覚はハッキリとしていますが、その体は、筋肉は、極限まで緩みきっており、使い物にはならなくなる……という代物です」
「んだよ……それ……」
「……まあ、もっとも、その状態で、私の股間を蹴り上げてきたのは、少し想定外でしたが──」
──バシン!
男はビフテキの口から手を離すと、そのまま彼女の頬を強く平手で殴打した。ビフテキの頬がじんじんと赤く腫れていく。男は再びビフテキの顔を手で掴み、ずいっと顔を近づけた。
「ですが、そんな可愛らしい抵抗もこれまで。どうですか、もう手足の感覚もなくなっているでしょう? その証拠に、二度目の蹴りはまた一段と優しか──」
「──ぺっ」
ビフテキが男の顔面に唾を吐きかける。が、さきほどの男の殴打により口内を傷つけてしまったのか、その唾には僅かに血が混じっていた。
「へ……へへっ、手足の感覚がなんだって? あんた程度のやつ、首から上さえ動けばどうとでもなるんだよ」
男は吐きつけられた唾を丁寧に拭ってみせると、挑発するビフテキに向き合い、静かに口を開いた。
「……さっき、ブリジット様はなぜ足を拘束しないのか、と訊いてきましたよね。それは──」
男はビフテキの足を持つと、そのままグイっと股を開かせた。
「は!? ちょ、なにやって──」
「こういう事だよ!!」
ビフテキは拘束されたまま、その体勢のままじたばたと暴れているが、まったく力が入っておらず、抵抗らしい抵抗になっていなかった。
「俺はフローラが好きだった」
「はあ?」
「サンテティエンヌ家の一人娘で、気高く、美しいフローラに恋をしていた。エドラー様がおまえの母親、フローラと結婚する前から、フローラの事が好きだったんだ! なのに、フローラはエドラー様と結婚しやがった! だから俺は16年前のあの日──
男はそう言って、ビフテキの着ている服をビリビリと強引に破いていく。ビフテキの透き通るような白い肌が、薄暗い地下牢のロウソクの灯りに照らし出され、艶めかしく光る。
男の興奮度は、すでに最高潮まで達していた。
ビフテキも、さきほどまで男に見せていた強気な表情は消え、その目に涙が浮かばせ、一転して懇願の言葉を口にしていた。
「い、いやだ……! やめ……て! それだけは……!」
「おい……おいおいおい、なんだその生娘みたいな反応は! おまえ、スラムに捨てられていたんだろ? ……いや、だがそうか、もしかして、おまえ……」
男の口から出かけた言葉に、ビフテキは顔を背け、口をきゅっと一文字に結ぶ。
「なるほどな。これは僥倖だ。まさかおまえが……。それに、いくら泣き叫んでも無駄だ。ここへは誰もやってこない。俺と、おまえだけだ! ……せいぜい楽しもうぜ、
結局耐え切れなくなってしまったのか、感情という波が堰を切り、固く閉ざされていた口を押し開けて、言葉が漏れた。
「い、いや……たすけて……こんなの……いやだ! ……師匠、師匠ぉ……っ!」
「──おう、呼んだか?」
突然牢屋に響く第三者の声。
男は咄嗟に振り返ったが──ガツン!
鋭い回し蹴りを顎を受け、勢いそのまま、反対側の牢屋の壁に叩きつけられてしまった。
「え……?」
現れたのは、
「な……んで、ここに……?」
「おいおいなんだ、その顔は。──あ、もしかして、邪魔したか? もっかい縛っとこうか?」
「いや、なんで……なんでここに……?」
「
「……しゃ、謝礼金?」
「いや、なんつーか、普通、弟子が師匠に面倒見てもらったら謝礼金とか払うだろ? それが未払いだったから回収しに来た。んで、だいたい二年分だから──」
ブルーデンツは未だ混乱しているビフテキを他所に、ポケットからメモ帳を取り出すと、そこにさらさらと書き出していった。やがてブルーデンツは記入し終えた紙を破ると、ビフテキの前にずいっと差し出した。
「──まあ、こんくらいが妥当だけど、払えるか?」
「いや、無理……ですけど……こんなに持ってませんし、そもそも法外ですし……」
「そうか。……うーん、でもこれ、
「はあ? ど、どういう……?」
「この暗がりで顔もうっすらとしか見えないし、俺、時々目が悪くなるから、判断がつかないんだよな……」
「え……っと……」
「──だから一回だけ訊く。おまえはサンテティエンヌ家のブリジットか? それとも俺のバカ弟子のビフテキか?」
ブルーデンツの言いたいことを理解したビフテキの顔から、不安の色が消えていく。ビフテキは一息つくと、改めて、力強い視線でブルーデンツを見た。
「どっちだ」
「わ、私は……」
「おまえは?」
「バカ弟子……じゃありません……」
「……あ、そ。なんだ、人違いだったみたい──」
「──ですが、ブリジットでもありません。私は、私の名前は〝ビーフ・ステーキ〟です。そして、私の目の前にいる、変態マゾ豚の弟子です……!」
ビフテキの回答を聞いたブルーデンツはニヤリと笑ってみせると、手に持っていた紙切れをくしゃくしゃと丸めて捨てた。
「じゃあ、昨日のは無しって事で」
「え?」
「解雇は無し。これが返済出来るまで、おまえただ働きな。じゃ、よろしく」
「いや、でも……私、もう弟子辞めるって……」
「アホか! おまえにかけたぶんの金回収出来るまで、逃がすわけねえだろ!」
「に、逃がすって……」
「死ぬまでこき使ってやるから、覚悟しとけよ! マジで!」
「し、師匠……!」
ビフテキは急にハッと我に返ると、ブルーデンツから視線を逸らして言った。
「こ、こほん。……あー、わかりました。それでいいです。しょうがないなあ」
「なんで嬉しそうなんだおまえは」
「全然嬉しくありませんけど!」
「──あ、おい、そこのおまえ」
ブルーデンツに指摘され、こっそりと牢屋から出て行こうとしていた男が、びくっと肩を震わせる。
「おまえ、なに人の
「い、いやあ……そのお……」
さきほどブルーデンツに蹴飛ばされた事によって、完全に反抗心を折られた男は、特に反論もせず、ゴマをするようにブルーデンツの顔を見ている。
「おまえ……もしかして、特殊な性癖でも持ってんのか?」
ブルーデンツにそう指摘された男は、ただ乾いた笑みを浮かべているだけだったが、今度はそれを聞いていたビフテキが、顔を赤くしながらブルーデンツに抗議した。
「はあ!? ちょ! 何言ってんですか! ノーマルでしょうが! 私を好きになるという事は!」
「いや、だって……おまえ……なにも……ないじゃないですか……なにも……」
「なんで敬語!? しかも、なんで師匠のほうがそんなに悲しそうなの!?」
「ごめんなさい……」
「失礼が過ぎる!」
「……まあ、ともかく、今度無断でコイツに何かしょうもないことしたらおまえ──たかるぞ!」
ブルーデンツが一喝すると、男は泣きながら、情けない声を上げながら、牢屋から逃げ出した。
「──あっ、逃げた。追わなくていいんですか、師匠? たぶん助けを呼ばれると思いますけど……」
「いいんだよ。俺も助けを呼んである」
「助け……ですか?」
「ああ。……けどま、元巨大犯罪組織の一員でも、ザコはザコか……」
「巨大犯罪組織って……もしかして、何か知ってるんですか?」
「まあな。とりあえず、俺たちもここを出るぞ。そろそろ仕上げだ」
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