第306話 緋山晴沙

 柔らかく、それは実に心地よく。

 明日人の髪にするりと触れ、離れたかと思うと再びもどってくる。

 直前まであった激しい痛みは消え失せ、今あるのはそれから解放された穏やかな感覚のみ。

 安らぎと呼べる感情に浸りながら、明日人はしばらくの間その動きに身を任せていた。

 硬く自分の顔を打ち付けたはずの床は、今はまるで人の体のような柔らかさを自分の後頭部に伝えてくる。


 ……おかしい。

 次第に明日人は違和感に気付いていく。

 自分は確か『結』の反動で倒れたはずだ。

 その際にうつぶせに倒れていったはずなのに、今はあおむけの状態になっていないか。

 それにこの柔らかい感触だ。

 これはまるで……。


 そこで思考を止め、目を開いた明日人は体を起こそうとするものの、「まだ駄目ですよ」という言葉と共に肩を押さえられてしまう。

 覗き込むように明日人を見下ろしながら、声の主は穏やかに笑いかけてくる。

 予想外の人物と自分の置かれた状況に混乱しながら、明日人は口を開いた。 


「あの、どうしてここに、……緋山さんが?」


 明日人の問いに、緋山ひやま晴沙はるさは口元に笑みを残したままで答える。


「ちょうど私がこの部屋の外の廊下を歩いていたら、大きな物音がしたので。あ、でも私きちんと一度はノックをしましたよ。だから怒らないで下さいね」


 ころころと笑いながら、緋山はそれでも明日人の肩から手を離そうとしない。

 だが自分は彼女の腿の上に頭をのせた状態、つまりは膝枕をされているのだ。

 意識が戻った今、いつまでもこの体勢でいるのはよろしくない。


「ご迷惑をおかけしました。この状況を招いたのは、その……、自分なのです。更に言えば誰かに襲われたという訳でもありません。これはですね、実は新しい発動を試してみたいと思って……」


 目が覚めて間もない、さらには自分の置かれた状況に混乱しながら、明日人はたどたどしく言葉を出していく。

 緋山はようやく明日人の肩から手を離したと思えば、今度はやさしく明日人の髪をくかのように触れてくる。

 先程までの心地良い感覚はこれだったのだ。

 そう認識をした途端に、明日人の顔の熱が再び上がっていく。

 どうすればいいかわからず、所在なさげに手を上げ下げしてしまう明日人の様子を楽しむかのように、緋山は手の動きを止めようとしない。


「ひっ、緋山さん、僕はもう大丈夫ですからっ! どうか頭を撫でるといいますか、その……」

「あらそうですか。残念」


 懇願こんがんするような自分の言葉に、ようやく緋山の手は明日人の頭から離れた。

 名残惜しいような、ホッとしたような思いを抱え明日人は小さく息をつくと、改めて状況を確認していく。


 痛みが完全に消えていることから、緋山が自分に治療を行ったと考えるべきであろう。

 きちんと礼を言わねばと理解はしている。

 だが彼女からの一連の行動で、今の明日人には目を合わせることすら恥ずかしく思えてしまうのだ。

 彼女が自分をからかって反応を見て楽しんでいること。

 もっともこれは決して明日人を困らせようとするものではなく、親しみのこもったスキンシップであるのは十分に理解している。

 だがそれにより動揺が生まれ、礼を言いそびれさせているのも事実なのだ。


 可憐な顔立ちと穏やかな物腰の一方で、緋山はいたずら好きの性格であるということ。

 またそのギャップがたまらないと、熱烈なファンもかなりいるのを明日人は聞き及んではいた。


 だが自分と彼女は同じ四条でありながら、評判を人づてに聞く程度の接点しか持っていない。

 これもまた言葉を出しにくい原因の一つと言えるだろう。


 その理由として、緋山の直属の上司と自分との関係がある。

 彼女の上司は真那まなだ。

 自分と真那の関係があまり良好でないこともあり、今まで緋山とはせいぜい挨拶をする程度のものでしかなかった。

 まさかそんな彼女が廊下に居合わせてしまうとは。

 その気まずさやこの状況をどう説明すべきかと、言葉をなかなか発することが出来ない明日人に緋山は声をかけてくる。


「井出様。こちらはあなたの許可なく治療を行っております。改めて了承を頂きたいのですが」


 確かにこのままでは、彼女が明日人の了承を得ずに治療を施したということになってしまう。

 これは自分たち治療班にとって、服務ふくむ規律きりつ違反いはんになるものだ。

 さすがにそれはよくないと明日人は口を開く。


「わかりました。では四条、井出明日人。緋山さんに治療の依頼を……」

「う~ん、だめですねぇ。それでは」


 笑顔のまま、緋山は再び明日人の肩へと手を伸ばしてきた。


「井出様。あなたはこの部屋にご自分がいたことや、ここで私に見られたことを誰にも話したくない。この考えは合っていますか?」


 突然の問いかけと体を押さえられたことで、逃げられなくなったことに驚きながらも明日人は答える。


「あ、はい、……その通りです」

「なるほど、でしたら」


 口角がさらに上がっていくと、彼女はとんでもない提案を口にする。


「では井出様、私はここでのことを黙っていましょう。そのかわり今から言う二つの選択のうちどちらかを選んでくださいな、一つ目はなぜここで倒れていたかを私に教えてくれる。二つ目は……」


 出された提案に明日人は顔色を失っていく。

 相変わらず彼女は優しく笑みを浮かべたままだ。


「さて、どちらになさいます? なんでしたら二つとも選んで頂いても私は全く問題ないですよ~」


 緋山からの提案に、明日人は冷静になろうと目を閉じて考え始める。

 まず一つ目の提案は無理だ。

『結』の継続のためにも、今は彼女に倒れていた理由を知られるわけにはいかない。

 だが二つ目の提案もリスクが低いとはいえ出来れば避けたい。


 ならばここは一つ目の選択肢を選び、倒れた状況を何か偽りの理由で言えばよいではないか。

 そうだ、先程のように新しい発動を試していたら反動が起こったと説明すればいい。

 そう答えを決めた明日人は、目を開くと緋山へと言葉をかけていく。


「わかりました。僕は一つ目の選択肢で……」


 そこで明日人の言葉が止まる。


『一つ目の選択肢でお願いします』


 そう言おうとした明日人の目に、いつの間にか自分の肩から右手を離し手のひらを上に掲げた緋山の姿が映る。

 彼女の手のひらの上では、野球ボール大の赤い液体のようなものが、うねうねと揺れ動いているではないか。

 みっともないのを承知しつつ、明日人はしりもちをついた姿勢のままで後ずさりで緋山から離れていく。


「ひっ、緋山さん! それを僕にですか? あのそれって確か、相手の嘘か本当かを見破る発動でしたよね? 仲間内での発動は服務規程違反になるのでは……?」

 

 悲鳴に近い明日人の声を聞き、それでも緋山の顔には笑顔が消えることはない。


「だってこのまま井出様に了承されなかったら、どちらにしても私は違反ではないですか。大丈夫ですよ? ありのままに答えていただければいいだけのお話なのですから。……そうでしょう?」


 ここでなければ見とれてしまうであろう、女神のような慈悲をたたえた笑みが目の前にある。

 だが今の明日人には、その笑顔の主の背中に漆黒の羽が生えているように思えてならない。


「では井出様。一つ目の選択ということでよろし……」

「違います! 二つ目ですっ!」


 明日人は叫ぶように声を放つ。


「あら? でも先程は一つ目の選択肢でと言いかけていらっしゃったような?」


 小さく首をかしげながら問うてくる緋山に、明日人は必死に口角を上げて笑顔を作り出す。


「そっ、それはですね。『一つ目の選択肢で、……はなく二つ目を選ぼうと思います!』と言おうとしたのです!」


 苦しい、かなり苦しい言い訳だ。

 頬がけいれんを起こしそうな緊張状態にありながら、明日人はそれでも笑顔を保ち緋山の反応を待つ。


「なるほど、では二つ目を選ばれるということですね」


 緋山は掲げていた手を握り締める。

 同時に彼女の手のひらの上で揺らめいていた赤い球体は、シャボン玉のように音もなく弾け消え失せていった。


「では井出様、先程申し上げた順序でお願いしますね。うふふ、とっても楽しみ」


 嬉しくてたまらないといった様子で緋山は明日人へと顔を向け、手を差し伸べてくる。

 その顔には「ニガサナイ」という五文字が書かれているかのようだ。

 出来ることならば逃げだせないだろうか。

 なんなら彼女の熱烈なファン達に代わってもらいたい。

 そんなことを思いながら、明日人は立ち上がり緋山の元へと歩いていくのだった。

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