第64話 『ここ』にいますよ
店に戻ってすぐに、奥戸は困った様子でつぐみへと頼みごとをしてきた。
「あぁ、そうだ冬野さん。そこの試着室の鏡の前に、ウエットティッシュがあるのです。持ってきてもらっていいですか? 私、手がふさがっているので」
奥戸にだけ、荷物を持たせていることに改めてつぐみは気付く。
「すみません! 私ったら、手伝いもせずに」
「いえいえ。その手伝いとして、持ってきてくださると助かりますから」
「わかりました。えーっと、ここですね」
確かに部屋を出てすぐに、ベージュのカーテンで仕切られたスペースがある。
つぐみはカーテンを開くと、靴を脱いで中に入った。
鏡の前には、確かにウエットティッシュが置いてある。
「奥戸さん。これをそのまま持っていけばいいですか?」
「いいえ。……あなたがそこにいてくれれば、大丈夫ですよ」
言葉の意味が理解できないまま、つぐみは振り返る。
開かれたカーテンの向こう側で、奥戸は自分に向けて手のひらを広げていた。
「奥戸さ……?」
カーテンがひらりと揺れたかと思うと、カーテンレールからぶちぶちと音を立ててつぐみの上に降りかかってきた。
そのままカーテンは自分を包んでいく。
いや、包むというレベルではない。
強く締め付けられて、呼吸すらままならない。
「あ、うあああっ」
息が出来ない。
体からは軋むような音と痛み。
叫んでいる間にもカーテンは、つぐみの体を締め付けていく。
いっそ気を失ってしまった方が、楽になるのではないだろうか。
立つことも出来なくなり、そのままつぐみは床に倒れこんでしまう。
見上げた鏡に映るつぐみの姿は、胸から下をベージュの布で覆われ、まるでミイラのような状態になっていた。
「わざとスマホを落として音を立てて、誘導するとは大したものでしたが」
奥戸が傍に来るとつぐみの顔に触れた。
その瞬間に痛みが消え失せ、呼吸ができるようになる。
つぐみは浅い呼吸を繰り返しながら、奥戸を見上げた。
「
「は、はくじつ? それは一体?」
つぐみの顔に浮かんだ疑問の表情と言葉に、奥戸は「違うのか?」と呟いている。
「まぁ、どちらでもいいですね。いつまでもそんなところに転がらせているのも、失礼というもの」
身動きのできないつぐみを、奥戸は軽々と抱きあげる。
「さぁ、大事な時間を一緒に過ごしましょうか。まずは部屋に案内しましょう」
彼はつぐみを抱きかかえたまま、部屋の奥の方へ向かっていく。
「どこへ連れて行くのですか? 先程の作業場とやらですか?」
「ほぅ、理解が早い。手間が省けるので助かりますね」
奥戸は作業場と呼んでいた部屋の前に来ると、つぐみを一度おろして扉を開けた。
中は真っ暗だ。
暗さなど気にすることなく、奥戸は彼女を再び抱えて歩き出す。
目が慣れてくるにつれ、つぐみにも少しだけ部屋の様子が分かってきた。
どうやら中央に、椅子が置いてあるようだ。
その椅子につぐみを座らせると、そのまま部屋を出て行く。
逃げ出せないだろうか。
そう思い体を動かしてみようとするが、体の自由が全く利かない。
今は奥戸がいない。
シヤに伝えようとつぐみは小声で
「シヤちゃん、ごめん。捕まっちゃった。一番奥の作業場といわれる、暗い部屋に座らされています。体を布で強く巻かれていて、自由が利きません」
話しているうちに、つぐみの目からは涙がこぼれ落ちていく。
「ううっ、嫌だ。みんなの所に帰りたい。……帰りっ、帰りたいよぉ」
「それは出来かねますね」
部屋に外からの明かりが入る。
こちらへと来る光の筋を眺めていると、手袋を着けた奥戸がつぐみの鞄を持って現れた。
そのままつぐみの横に鞄を置くと、部屋の隅へと向かっていく。
かちりと音がして、ほんのりとした明かりが灯った。
ガラスのテーブルランプを手にした奥戸が、再びつぐみの元へと戻り、鞄の荷物を一つ一つ取り出していく。
「このお店に繋がるものは、全て回収させてもらいます。残りの物はすべてお返ししますから。そこは安心してくださいね」
つぐみの頭の中にヒイラギの家で見た資料が浮かぶ。
どれも所持品は無くなることなく、発見されていた。
いま自分にそれが行われようとしているのだ。
「あなたの左腕のブレスレットは、後で回収しますね」
「ブレスレットを回収するって、どういうことですか? こんなにきつくされていたら、取り出せる物ではないはずですが?」
「あぁ、それは心配いりませんよ。全て終われば、勝手に出てきますから」
「出てくる? いったい、どういうことなんですか?」
掛けられる言葉に奥戸は手を止め、つぐみを見つめてくる。
「……あなた、意外と冷静ですね。さっきみたいに、泣き叫ぶものだと思っていましたが」
「どうせ助からないのでしょう? だったら最期まで、自分がどうなるか知って私は死にたいです」
「これは、……面白い人だ! 殺してしまうのが惜しいほどに!」
鞄を置き、奥戸はつぐみの正面へ回り込む。
両手でつぐみの顔を無理やりに上げさせると、顔をぐっと近づけてきた。
「あなたにはずっと、二面性を感じていました。千堂さんから聞いていた、消極的な姿。一方では、大胆な行動をして真相を知りたがる姿。本当のあなたは、どちらなのですか? 中々に謎が多い女性というのは、素晴らしく美しいものですね。……あぁ、そうでした」
つぐみから手を離し、まるで歌うように手を高々と掲げると奥戸は続ける。
「あなたの親友の千堂さん。最期の時までずっと、同じ言葉を呟き続けていましたよ。『忘れない。覚えている』とね。結局、意味を教えてくれないまま、彼女は謎を残して消えてしまいましたが」
沙十美が消えた。
消えたとはどういうことだ。
嘘だ、そんなの嘘に決まっている。
浮かび上がる思いを否定しながら、つぐみは声を上げる。
「……嘘だ、沙十美が消えたなんて嘘だ」
「嘘ではありませんよ。いや、消えたというのは違いますね。あぁ、そうだ! とてもいいアイデアを思いつきました」
奥戸は、足早に部屋を出て行く。
しばらくして現れた彼の手には、黒い水の入った小さなガラス瓶。
冷蔵庫に入っていたものだろう。
困惑した表情のつぐみと目が合うと、嬉しそうに傍へとやって来る。
「本当は私が頂くつもりでとっておいた最後の物です。彼女の薬はごく一部の上級の方にしか、支給されないことになりましたから。これは本当に貴重なものなのですよ」
そう言いながら、ガラス瓶の蓋をつぐみの前で開いた。
「はい! あなたの親友の千堂さんは『ここ』にいますよ」
この人は、何を言っているのだ。
正体不明の水を見せてきて、私の友達がいると言う。
そんなわけはないのに。
そんな事があってはならないのに。
考えたくない、導き出されてしまった答えにつぐみの心は悲鳴を上げる。
「いっ、嫌ぁぁぁぁぁ!」
答えに耐えきれず、つぐみは叫ぶ。
喉がひどく痛む。
苦しさに思わずむせ返りながら、つぐみは奥戸を睨みつける。
沙十美? 沙十美は?
いない、いない、なんで?
どうして? どうして?
私、まだ沙十美の顔を見ていない!
タルトを一緒に食べる約束をまだ、守れていない。
沙十美にぎゅって抱きついて、しつこいって怒られてない。
まだ、嫌だ、だって……!
次々とあふれくる思いが胸を締め付けていく。
「嘘だ、嘘だ! そんな事があるはずがない。ふざけないで! 認めないこんな事っ、私は絶対に認めないっ!」
「あなたが認めようが認めまいが、これは事実ですよ」
つぐみの態度に動じることなく、奥戸は続ける。
「おやおや、咳き込んでいてとても苦しそうですね。水分をとった方がよいでしょう?」
奥戸はつぐみの顔を再び上に向けさせると、ガラス瓶を近づけてきた。
何をしようとしているか悟ったつぐみは、口をきつく閉じて抵抗していく。
「なぜですか? お友達と一つになれるというのに?」
淡々と語る奥戸の声に含まれているのは苛立ちの感情。
「……仕方ないですね。強情な子には、少しは自分の立場を知って頂かないと」
その言葉が終わるや否や、つぐみの髪を掴み、後ろに仰け反らせる様に強く引っ張る。
痛みと喉の圧迫感で思わずつぐみは口を開いてしまう。
「ふふ、どうぞ。あなた達が重なり合う味は、いったいどんなものでしょうね? とても楽しみです」
あぁ、駄目だ。
そう思うつぐみの口の中に、ひんやりとした液体が入ってきた。
直後にガラスの割れる音がして、つぐみの口と鼻が押さえつけられる。
呼吸のすべを奪われ、耳の奥で鼓膜が震えるような感覚につぐみの体が震えていく。
(もう駄目だ、……息が)
耐えられずつぐみは、口の中にあるその液体を飲み込んでしまった。
「あ、ああ! 沙十美ぃっ! 私っ、私は……」
「良かったですね。二人は、一緒になれたのですね。美しい友情は永久に続くのでしょうね! あはははは」
おかしくてたまらないといった様子で、奥戸は笑い続けている。
つぐみはそれを何の感情も起こることなく、ただ見続けることしかできない。
奥戸はひとしきり笑うと、真顔になり言葉を続けていく。
「彼女やここに来た人は、私達の糧に。つまりは私達の痛み止めの薬になってもらいました」
「痛み止めの薬? 意味が、……分からない」
「簡単に言えば私達は、ある力を持っています。私で言うと『蝶』の力。その能力を使う時に感じる痛みを、和らげる薬になってもらっているのです」
「蝶ってあのヒラヒラ舞っている蝶ですか? その力を持つなんて一体……」
信じられない。
つぐみには全く理解出来ないことばかりだ。
「あぁ、やはりいい。この話をすると皆、同じようにとても素敵な顔をしてくれるのですよ。そうですよね。急にある力と言っても信じがたいでしょう? ですから」
奥戸はつぐみの体に向かって、手のひらを広げる。
「実際に体験した方が分かりやすいでしょう。冬野さん。蝶のさなぎを見たことがありますよね?」
「……えぇ」
「さなぎの中ではね。一度、体を再構築するのです。幼虫の頃の皮膚や筋肉が溶けて、新しく成虫の体を作り直すのです」
感覚は全くない。
だが下を見ればつぐみの足の部分が、カーテンによって信じられないほどきつく巻かれていくのが見える。
「こうして生まれ変わったあなた方が、私達の薬になるのですよ。では少し準備をしますので」
そう言って奥戸は鞄の場所まで戻ると、出した荷物を再び鞄に片付けていく。
呆然と見つめるつぐみの目に、ちらりと青いものが映る。
あれはシヤのハンカチだ。
直接、渡したかったのに、返すことも出来なくなってしまった。
新しいものと一緒に渡して、どんな顔するか見たかったのに。
自分にはそれはもう、出来ないのだ。
その悲しみでつぐみが目を閉じるたびに、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちていく。
「ごめん。シヤちゃん。ハンカチ、返せなくてごめんなさい。……ごめんなさい」
――なぜだろう。
今はもう、自分に出来ることがわからない。
だってもう、沙十美は私の手の届く場所に居ない。
だからもう、何も思い浮かばない。
私は、……このまま。
頭の中で巡る諦めの思いと共に、つぐみはただ涙を流し続けた。
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