第12話 黄木藍子の場合 <事情>
「あそこの家は色々あるらしいのよぉ。ここだけの話、官僚をやっている旦那さんと奥さんの理事長は別居中らしいのよ。二人お子さんがいるんだけど、上のお兄ちゃんがとても優秀で理事長がよく自慢してるのよ。下の子の渉くんと一緒にいるのなんて久しぶりに見たわ。でも、やっぱり渉くんも優秀なのねぇ。ゲームが作れるなんて素敵だわぁ」
うんうんと一人頷く芦花に片倉が曖昧に返事をした。
藍子はその話を聞きながら、今日話がまとまらなかったことと何か関係があるのか考えていた。
実は藍子は渉とは会ったことがない。
藍子は『ニューワールド』チームの中のポジションはメインプログラマーだったため、『ニューワールド』のオンライン化に心血を注いたからだ。
交渉事はもっぱらチーフである片倉の担当で、渉本人に質問がある場合は片倉から聞いてもらっていた。
片倉が言っていた渉の印象は大人しくて他人の意見に流されてしまう、特に母親に意見のできない少年という話だったが、そんな少年が大人と一緒にいて他の目もある状況の中で出ていく……藍子の渉に対してのイメージからはかけ離れた行動だった。だからこそ少し引っかかった。
「そうだわ、あなたたちお腹すいてない? ウチの人気商品のチーズケーキがあるんだけど食べていかない?」
なにかしら片倉との間で会話が続いていた芦花が、会話の流れで聞いてきた。
「チーズケーキ?」
「ウチの甥っ子が気まぐれに作ってくれるんだけど、美味しいって評判なのよ」
「ぜひ、いただきます!」
「ふふふ、楽しみにしてて」
甘いものに目がない藍子は芦花に頼むと、芦花が機嫌よくカウンターへ戻っていった。
芦花がカウンターへ行き準備をしているのをちらりと確認すると藍子は片倉に話を切り出した。
「まとまらなかったって話だったけど、渉くんが出て行ったって……ちょっと大事じゃないの?」
片倉は出されたコーヒーを一口飲んで溜息を吐いた。
「俺も出ていくとは思わなかったよ。とは言っても渉くんにとってはナイーブな話になりそうだったから、プログラマーとしてバリバリやってる藍子を同席させて、会話をさせる算段だったんだけど」
「おっと、そういうことだったんだ」
「え~、何で今日同席か不思議に思わなかったのかよ? 海外出張帰りで大変って分かっててスケジュールいれてんのに」
「あはは、あんまり深く考えてなかった。ごめん」
「渉くんをみていると医者よりもプログラマーの方に興味がありそうだったから、藍子と話をさせることで上手くまとまる方向に持っていきたかったんだけどなぁ」
「でもさ、会社の方針だからやってるけど、実は私今回の仕事あんまり乗り気じゃないんだよね……」
「いやまぁ、それは俺もだけど……」
「元々渉くんが作ったゲームなわけだし、著作権を完全に譲渡してもらってウチの会社のモノにしちゃうっていうのがズルいというか……」
藍子は制作する側の人間ということもあり、確かに商品化して世に出るということは実力を認められたようで嬉しいし、実績にもなりモチベーションがアップすることもわかるが、著作権を完全に渡してしまうというのは自分が生み出した思い入れのある作品を手放してしまうことと一緒で、痛みを感じてしまう行為に思う。
それを高校生に経験させるということが藍子の中では苦く感じていた。
それに藍子が『ニューワールド』を見つけて商品化しなければ、渉にこの苦しさを味合わすことはなかっただろうことを思うと、余計に気分が重くなった。
「そうは言っても、『ニューワールド』はウチの会社の久しぶりのヒットコンテンツだし、利益の柱の一つとなりつつあるからね。このタイミングでウチの会社のモノにしておくことは悪いことじゃない。IT企業も波があるから利益を確保しておかないと俺たちがメシ食えなくなるよ」
「いやまぁ、そうなんだけど……」
「それから、藍子には話しておこうと思ったんだけど……」
声のボリュームを落とした片倉に、コーヒーを飲もうとした藍子はその手を止めた。
「この間、幹部の話を聞いてしまったんだけど……ウチの会社、ちょっと危ないらしい」
「え……マジで?」
藍子は片眉をぴくんと跳ね上げた。
「収益が年々減少してるらしい。IT競争の激化で価格競争に巻き込まれたり、開発費で結構消耗するだろ、経営が圧迫されてるらしいんだ」
「もしかしてこの『ニューワールド』の件って……」
「一つでも収益を確保して経営を立て直したいっていうことだろうね。ウチはコンテンツ事業だけじゃないし、他の部門もあるからすぐに倒れることはないだろうけど」
「宏典、今日の打ち合わせに私を巻き込んだのってその意味もあったんじゃないの……?」
「そりゃ……まぁ……一人で背負うのはまぁまぁ大変だし?」
「だよね」
はぁと今度は藍子が溜息を吐いた。
「また溜息ついちゃって……幸せが逃げてしまうって言ったでしょう?」
あわわ、と藍子は手で口を押さえた。
いつの間に来ていたのか、芦花がテーブルにやってきて二つ皿を置いた。
「お待ちどうさま」
「チーズケーキ! 美味しそう!」
「美味しそうじゃなくて、美味しいわよぉ。食べてみて」
一緒に用意された銀のフォークを手に取って藍子は一口食べてみた。濃厚なチーズの味がふわりと口の中に広がる。ベースにクッキー生地がありサクサクでアクセントになっていてチーズとの相性は抜群だった。
「美味しい~! 何個でも食べたい!」
「これは美味しいですね」
藍子だけでなく片倉も頬を上げて美味しそうに食べている。そんな二人を見て芦花がにっこりと微笑んだ。
「ふふふ、良かったわぁ。難しい話をしている時はスイーツがいいわよねぇ。一息つけばまたインスピレーションが降りてきそうでしょう?」
「黒沢さん……」
「人生はね、焦らない方がいいのよ。急がば回れって諺もあるでしょう。不安になるんじゃなくて気を落ち着けるの。肚を中心に据えてね。そうすれば、神経が研ぎ澄まされてチャンスが見つかるものなのよ」
まぁ、ただのカフェ店主の戯言だけど、と芦花はおどけるように言った。
芦花の重みのある言葉に藍子に引っかかっていた何かが、すうっと溶けた気がした。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると楽になります」
「そう?」
重みのある言葉も親しみやすい優しさも、年齢を重ねた人間だけの特権だと藍子は思った。
しばらく談笑をしてふと店内にある時計を見れば、いつの間にか会社に戻らなくてはならない時刻になっていた。
「そろそろお暇しなきゃ……コーヒーもケーキも美味しかったです。また来てもいいですか?」
「いつでも。いつでもいらっしゃって」
にっこり笑った芦花に藍子も笑い返した。
藍子は「いつでも」という言葉の響きがとても気に入った。
「藍子、戻るか」
「うん」
片倉に会計を任せて藍子は荷物を片付け始めた。
渋滞に巻き込まれたり打ち合わせに遅れたり、仕事は進まなかったりと日本へ帰ってきてから散々だったが、このカフェと出会ったことは嬉しい誤算だった。
「ごちそうさまでした」
藍子はそう言うと会計を終えた片倉を連れ立って表へ出た。からんからんとドアベルの音が優しく耳に響く。芦花が外まで見送りに出てくれた。
「ありがとうございました。またいらっしゃってねぇ」
「はい。また伺います」
藍子は古民家カフェの駐車場に停まっていた片倉の車に、持っていたスーツケースを積んでから助手席に乗り込む。片倉はその間エンジンを少し温め、エンジン音が安定してきたのが分かってから車を発進させた。
ちらりと古民家カフェへ視線を戻せば芦花が手を振ってくれており、藍子は笑顔を返して会釈した。
辺りはすっかり暗くなり、相変わらず雪がちらつき空気は冷たかったが、藍子の心はほんのりと温かかった。
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