第12話
ミリアーナに部屋で休むように言われた後、ティアナは以前ウィルバートから教えてもらった宮殿の隠し通路を使って宮殿の外に出ていた。
ウィルバートから丁寧に教えてもらっていたおかげで、ティアナは自室から誰にも見つからずに宮殿を抜け出すことに成功していた。
アドルファス宮殿で暮らし始めてからランドールの手配でティアナには護衛騎士がついていたが、先程その護衛騎士から手紙を渡されたのだ。
手紙には『誰にも気付かれないように宮殿を抜け出してルスネリア公爵家まで来るように。誰かに話したり、脱出に失敗したり、この指示を無視したりすればミリアーナの命はない』とあった。差出人はロバートである。
ティアナはロバートの命令に逆らうことができない。ルスネリア公爵家に引き取られてすぐの頃、ロバートの命令に背くとどうなるのかを思い知ったのだ。
その時は、ティアナがこっそり可愛がっていた子猫が天国に召されてしまった。「お前が父親である私の言うことを聞かないせいでこの小さな命は犠牲になったのだ」「お前が可愛がっていた猫はお前のせいで死んだのだ」と何度も繰り返され、呪いの言葉のようにティアナの心を縛りつけた。
ティアナはどうしてその時ロバートの命令を聞かなかったのかと後悔した。子猫の命とは比べようもない程のささいな命令だったのに。自分が素直に従っておけばあの子はあんなに小さなまま、あんなに寂しく生涯を終えることもなかったのに。私が彼女から未来を奪ってしまったのだーーと。
それ以来ティアナがロバートの命令に従わなかったことはない。もし従わなければ今度はどんな大切なものを奪われるのかわからないのだから。
ーーロバートはやると言ったらやる人よ。ミリィがいなくなってしまうなんて、そんなの私が耐えられない。
これでウィルと結婚することは叶わなくなるのかもしれないけれど……。所詮、私には皇太子妃も皇后も務まるとは思えなかったし。ウィルにはもっと相応しいご令嬢がいるはずだから。
……大丈夫。私がいなくなったところでウィルは死なない。
でも、私が行かなければミリィは確実に死んでしまうわ……!
ティアナは震える脚を叱咤し、ルスネリア公爵家への道を急いだ。
◆◆◆
ティアナは手紙に書いてあった通り、鍵のかかっていない勝手口からルスネリア公爵家の屋敷に入り、ロバートの執務室へ直行した。ティアナが暮らしていた頃は使用人が行き交っていた廊下を歩いていても、人払いがされているのか、誰とも顔を合わせることはなかった。
ロバートの執務室には事前に知らされていた通り誰もいなかったので、ティアナはロバートの指示通り、執務机の引き出しからプロスペリアの宝玉らしきものを取り出してドレスの隠しポケットに押し込んだ。
そのまま踵を返し、執務室の扉を開けようとしたところでティアナの背後から声がかかった。
「ああ。ティアナ、帰っていたのか。ちょうど良かった。私も先程アドルファス宮殿から戻ってきてね。この書類を預かってきたのだよ。お前と皇太子殿下の婚約を解消するための書類だ」
「婚約、解消……?」
ティアナは署名をするように、と上質な紙を渡される。さっと目を通すと、書類にはウィルバート・フランネアとティアナ・ルスネリアの婚約を解消すると書かれている。
ティアナは無表情で書類を見つめていた。
「そうだ。皇帝陛下と皇太子殿下の署名は先に得てある。そもそも皇帝陛下からのご指示だからな。当然断れるものではない。」
そっと書類の上、婚約解消を承諾するとの文面の最後に綴られたウィルバートの署名に指を這わせる。
ーー間違いなくウィルの筆跡だわ。
「さあ、ここに署名するんだ。」
ずっとずっと大好きだった。
結婚するならこの人しかいないと思った。
けれど、両親が亡くなり、目の前にいるロバートにこのルスネリア家に連れてこられてから、日に日にその思いは胸の奥に閉じ込めるようになった。私には果たすべき役割があったから。
それでも、予想外にも大好きな人と婚約できてしまった。夢のように思っていたが、所詮夢でしかなかったのだ。
「承知しました」
ーーそう。大丈夫。ウィルは私がいなくなっても死なない。でも、私がこの人の命令に背けば、ミリィが……
文字まで愛しいその人と、もう道は交わらないのだと自分に言い聞かせ、ぐっと涙をこらえて彼の名の隣に署名した。
ティアナはこの光景を何度も夢に見ていた。結婚式で愛を誓い合った後、結婚証明書にお互いの名を並んで記し、2人笑顔で微笑み合う光景を。
しかし、実際に署名することになったのは結婚証明書ではなく、婚約解消の手続きのための書類だった。
潰えた夢を思い、だが、涙は流さまいと瞳を閉じるティアナを横目に、ロバートは完成された書類を満足げに手に取り確認した。今後の計画を脳裏に描きながら。
「皇太子殿下の新たな婚約者はお前の義妹のアマンダと決まった。だからそれをアマンダに渡すようにとのお言葉を皇帝陛下から賜っている」
ティアナはビクッと肩を震わせた。
ーー大丈夫。落ち着いて。この人の指示通りにすればミリィは助かる。
「これは私が継承すべきものです。どなたにもお渡しできません」
「皇帝陛下のご命令に逆らうなら、相応の処罰を受けてもらうことになる。連れて行け」
ロバートは皇帝陛下直属の近衛騎士団の騎士たちを率いていた。当然だ。この状況は彼が作り上げた舞台の上の出来事で、彼の書いたシナリオ通りのものなのだから。
「ティアナ嬢、失礼いたします。それをこちらへ」
ティアナは言われるがままに宝玉を騎士に渡し、騎士からロバートに渡る宝玉を虚な目で眺めていた。
ーーきっとロバートにとって私はこの時のためだけに必要だったのだわ。初めからウィル……いいえ、皇太子殿下はアマンダと結ばれる運命だったのよ。ふふふ。それなのに恐れ多くも皇太子殿下と結婚できるなんて大それた夢を見て、有頂天になって……現に皇太子殿下自身も婚約の解消に同意しているしね。滑稽だわ……。
ティアナはロバートからの手紙を見た瞬間に、自分の望みを叶えることをそうと意識せずすっかり諦めてしまっていた。
しかし、もし諦められずとも皇帝と皇太子の署名入りの正式な書類を覆すことなど、実質誰にも不可能であった。
だが、何よりもティアナの心を傷付けたのは、二人の婚約の解消に同意するというウィルバートの意志を書類上に形として確認できたことであった。彼の署名があったのはその意思表示に他ならないのだから。
ティアナはロバートの手紙を読み、その指示に逆らわないと決めた時からこうなることは予想していたし、覚悟もしていたが、傷付く覚悟はできていなかったのだ。
ルスネリア公爵家で虐げられることに慣らされていたティアナであったが、今の彼女はアドルファス宮殿で温かく迎え入れられ、愛する人に愛される喜びを知ってしまっていた。
ティアナはここ数年の辛い経験が原因で、なんでもすぐに諦めることが癖になっていたが、ウィルバートとの結婚だけは諦めたくないという気持ちがいつの間にか大きくなっており、頭では諦めているのだが、心では抵抗しており、二つの相反する思いの間で心をすり潰されるような痛みを感じていた。
ーーなんだか胸が、痛い……。
一方、全く抵抗せず、自分たちの拘束に素直に応じる憔悴しきった美しい令嬢に騎士たちはみな戸惑っていた。
憂いを帯びた笑みを浮かべるティアナの美貌に、ひとりの騎士、サミュエル・スペンサーは心打たれていた。
ーーああ。近くで目にすると目眩を起こしそうな程神々しい美しさだ。しかし彼女はプロスペリア王家の血を引いていると聞いた。だったら、主張の正当性は彼女の方にあるように思えるが……。彼女の憂いは払ってあげたいが、陛下のご命令に背くわけにはいかないし……。
美貌の騎士は迷いながらも縄で拘束されたティアナを宮殿へと連れ帰る馬車へと誘導した。
しかし、ティアナを馬車に乗せるその瞬間、違和感を感じて躊躇した。中を確認して驚いたが、声も発さず何もなかったようにティアナを中に誘導して扉を閉めたのだった。
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