第3話
本日の舞踏会の会場は皇族の住居としても使われているアドルファス宮殿である。皇都の中心地に位置するその荘厳で美麗な姿は、フランネア帝国のシンボルにもなっている。
私はアドルファス宮殿の中に入るのは初めてなので、とても楽しみにしていた。綺麗なものは何でも好きなのだ。
ルスネリア公爵家の家紋が入った馬車からまずロバート、次いでティアナ、アマンダの順に降りる。人の目がある所では私の存在はその身分の通り尊重される。だから、家の中でのこの二人の横暴さは外には露見していないようだ。
私が長年暮らしていた隣国では、舞踏会のような催しがある時には女性はエスコート役の男性を伴うのが普通で、その役目をする男性はパートナーの女性の家まで迎えに行くのがマナーだった。しかし、この国ではエスコート役の男性とは会場で待ち合わせるのが普通なのだそうだ。国が違えばマナーも全然違うのだなと驚いたものだ。
今は義父に連れられている私たち姉妹であるが、今日は私の婚約者と顔合わせがあると言っていたから、その方が私のエスコートをしてくれるのだろうと予想がついた。そしてアマンダは義父がエスコートするのだろう。
そんなことを考えながら慣れないハイヒールでしずしずと歩き、宮殿の入り口をくぐると大きな階段が目の前に現れた。階段を上っていくと小さな広間にたどり着き、上を見ると素敵な天井画が描かれていた。
その美しさにうっとりしていると、しかめっ面をした義父に手を引かれ、両サイドにある階段のうち、左手の階段を上らされる。反省した私はその後はうつむきがちにさっさと歩いた。
どこをどう歩いたのか(一人だと確実に迷子になる自信がある)わからないうちに舞踏会会場にたどり着いたらしい。ひときわ豪奢な扉を前に、私は再び瞳を輝かせた。
扉を開けると、まず天井から吊り下げられた大きなシャンデリアが目に入った。壁に描かれた絵も、床の模様も、全てが余すところなく美しい部屋だった。この部屋を見られただけでも満足で、私は顔が綻んでいくのを感じていた。
その美しくも可愛らしい笑顔に、近くにいた男性たちがノックアウトされていたことにも全く気が付かず。
うっとりしながらその場に佇んでいた私の前に、深い金色の髪を後ろに撫でつけ、ヘーゼルの瞳を興味深そうに瞬かせる男性を義父が連れてきた。アマンダは既に別の男性へとエスコートを任せてきたらしい。
「こちらがお前の婚約者となる予定のトーマス・バッカス殿だ」
ティアナを視界に入れたトーマスは目を見開き、その顔に甘い笑みを浮かばせた。
「はじめまして。バッカス侯爵家の次男、トーマス・バッカスです。お名前をお伺いしても?」
「ルスネリア公爵家の長女、ティアナ・ルスネリアと申します。以後お見知りおきくださいませ」
ティアナはその場で以前習った通りの淑女の礼を披露した。ロバートは無表情で満足そうにひとつ頷いた。
「では、娘のエスコートをよろしくお願いいたします」
「喜んで」
そんなやりとりをしつつ、ロバートは去り際にティアナだけに聞こえるよう囁いた。
「義務を果たせ。意味はわかるな」
私はロバートの鋭い視線を受け、頷くしかなかった。義務を果たさなければ。拾ってもらって、育ててもらった恩は返さなければ。私の居場所はもうここにしかないのだから。ここで生きていくしかないのだから。
「さあ、行きましょう。ティアナ嬢……とお呼びしてもいいですか?私のことはトーマスとお呼びください」
「はい。よろしくお願いします。トーマス様」
差し出された腕に手を添えると、トーマス様は一人で長々と演説を始めた。聴衆は、隣にいる私しかいないのだけれど……
「私はティアナ嬢のように素晴らしく可憐な女性と婚約できることを心底幸せに思います。この婚約は政略ですが、私たちはこれから愛を育み、愛で結ばれた夫婦になりましょう。きっとそうなれるはずです。私はティアナ嬢を誰よりも愛すると誓います。政略結婚なんて……と思っていましたが、この縁を結んでくれた父上には心から感謝したい。ああ。あなたと暮らせる日々を思うと今から胸が高鳴ります……」
まだ彼の演説は続いていたけれど、同じような話の繰り返しだったので、「はい」「そうですね」などの相槌は打ちつつ聞き流していた。笑顔が引き攣っていないかどうかだけが心配だ。
どうして今日初めて会った人間にここまで愛を囁けるのか不思議だったが、これが建前の世界で生きる貴族の普通なのかもしれないと思うとうんざりした。
私の笑顔も作り笑顔に違いないが、今日初めて会った女性に当然のように愛を囁くトーマス様の笑顔も胡散臭く思えた。
キラキラとした豪華なシャンデリアが照らす人工的な光の下、笑顔の仮面を被ったような私と未来の夫。全く正反対の状況なのに、眩しい太陽の下で輝くような笑顔を見せてくれた、澄んだ空色の瞳を持つ彼のことが頭をよぎった。
それは、ただの町娘だった私や、恋人だった彼に対する断ち切れない未練のせいなのかもしれなかった。
◆◆◆
……疲れた。
トーマス様は将来の妻となる私に心から尽くそうと努力しているのだろうから、悪い人ではないのだと思う。政略結婚の相手としては理想的と言ってもいいかもしれない。
でも、女性の褒め方が大袈裟で、仕草もいちいち気障っぽいのだ。完全に私の苦手なタイプだった。きっと貴族の男性は多かれ少なかれみんなこんなものなのだろうが、笑ってしまいそうになる。
こんな場面ではかつての恋人だったら……とその度に比べてしまう私の残念な思考回路も疲労が増す要因となった。
極めつけはトーマス様がご友人達に私を婚約者として紹介し、「妖精のように可憐で美しい」「跪きたくなる神々しいまでの美しさ」などと友人の前でも私を褒め称え始め、あろうことにご友人達も同調し始めたので、私は怖くなって逃げることにした。ドン引きである。いくら女性を褒めるのがマナーとはいえ、あれはやりすぎである。貴族的には普通なのかもしれないが、私には耐えられなかった。羞恥が過ぎて心が疲弊していた。
トーマス様の意識が私から離れた一瞬の隙に「ちょっとお化粧を直しにいってきます」と言って抜けてきた私は悪くない。作り笑顔ももう限界だった。心身共に疲労が溜まった今こそリフレッシュが必要と判断した。
帰り道がわかるように覚えていられる程度の単純な道を選び、進んだ先に素敵なバルコニーを見つけた。お庭の景色も素敵である。王宮はどこもかしこも素敵で語彙力のなさを反省中である。
「はぁ~。どうしてこんなに素敵なのかしら。住みたい。ここに住めるならこのバルコニーでも構わないわ。素敵すぎる……」
「じゃあ、住む?このバルコニーよりもっと素敵な部屋を用意するよ」
ティアナは独り言に答えが返ってきたことに驚いて、ビクッと身体を震わせながら声の主を探す。
ティアナが歩いてきたのとは別の方向からクツクツと忍び笑いが聞こえてきた。
「やっと会えた。僕のティア」
そこには、4年ぶりに見る懐かしい笑みを浮かべた私の愛しい人がいた。今日、何度も思い出してしまった空色の瞳が私を捉えている。
「ウィル……?」
目の前の現実が信じられなくて、夢なんじゃないかと思った。でも確かに声も記憶のままだし、歩き方も……背はちょっと伸びていて、顔つきもややシャープになってるけれど……私の大好きだったいたずらっぽい可愛い笑顔はそのまま。
「もうこんなにデカくなっちゃったから天使様とは呼んでくれないのかな……?」
そう困ったように眉をハの字にして笑うから、私も破顔してしまった。
「ウィル…!本当にウィルなのね…!!」
思わず側まで駆け寄って顔に手を伸ばす。
ーー背が伸びて、顔が遠くなっちゃったみたい。でも、澄んだ空色の瞳も可愛い笑顔もそのまま。……私の大好きなウィルだわ。
たまらずといった様子でぎゅうっと抱きしめられると、懐かしいウィルの匂いがした。
胸の奥のぽっかりと空いた部分が暖かいもので急速に満たされる心地がした。
ウィルじゃないとだめだったのだ。私が私でいるためには、この人がいないとだめなのだと悟った。
「泣かないで。僕の可愛いティア。ティアナ」
ウィルの言葉を聞いて初めて頬を伝う涙に気が付いた。
「これ、持っていてくれたんだね」
ウィルが私の髪飾りに触れながら呟いた。
嬉しそうな響きを秘めた優しい声が心に染み渡る。
「ええ。だって大切なものだもの。これを眺めて、身につけて、いつも思い出していたの。忘れなきゃって思ったけど、やっぱりだめだった。ウィルが大好き。私、ウィルと結婚したい……!」
今日、ここに来るまでに葬ったはずの想いが溢れてきた。トーマス様に会って、この人と結婚するのかって覚悟しようとして、でも、失敗してしまったのだ。
私はどうしてもこの人の側にいたいのだと気付いてしまった。
なんというタイミングで姿を現すのだ。この人は。
「うん。そうだね」
心身共に疲労困憊だった私は、なぜウィルがここにいるのかとか、なぜ彼がとても煌びやかな衣装に身を包んでいるのかとか、なぜさらっと王宮に住めばいいとか言えるのかとか、天使様なんて出会ったあの日にしか口にしたことないじゃないとか……
聞かなければならないことや突っ込みたいことをすべて頭の隅に追いやり、もう会えないと覚悟していた愛しい人の胸にすがりついて子供のように大号泣したのであった。
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