第85話

「せっかくのお話なのに申し訳ありませんが……私の母が、この木曜日に手術を控えています。今は傍に居たいので、その事以外考えられないのです」


花音は丁寧に頭を下げた。


「吉原君は、お母さんのことも心配していたけど……。そんなにお悪いのか?」


「生まれつき、体が弱いので……」


「木曜日に手術されるとなれば……あ、それで、木曜に有給取りたいって言ってたのか……」


「はい」


「そうか、じゃあ、落ち着いてからの方がいいな。じゃあ、いったん保留という事で」


「保留だなんて、そんな図々しいこと出来ません。……あの、このお話は無かったことに」


花音は必死で断った。


「え~。こんな良い話を? なかなかないと思うよ? 吉原君も言ってたけど、結婚して安心させてあげた方が良いんじゃないかねぇ……吉原君なら伊藤さんの事情を理解して待ってくれると思うがね」


課長は「もったいないよ」といった様子で、さらに勧めてくる。


「申し訳有りませんが、お願いします」


花音は、もう一度深く頭を下げた。


「そうか、それほど言うなら、分かった。吉原君には、わしの方から伝えとくよ。お母さんを大事にね」


「はい。有り難うございます」


花音は、課長にもう一度、頭を下げると、自分の席に戻った。


(ビックリした。課長を通してくるなんて……)


花音は胸に手を当てて小さくため息をつくと、仕事を続けた。

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