私が御化粧係になるまで【天正13年11月〜天正16年8月】
目覚めたら瓦礫の下【令和年間・夏→天正13年11月29日】
私が与祢になる前の話をしよう。
私は二十一世紀の日本に暮らす、化粧品メーカー勤務の開発部員だった。
お肌のコーナーをキメたばかりのアラサーで、容姿は可もなく不可もなく。
恋人はいないけれど、結婚願望は特になし。
だから適度にバリバリ働いて、がっつり趣味を楽しみ、時々思いっきり友達と遊び倒す日々を送っていた。
私はそんな、ありふれた現代の独身女。
それ以上でも、それ以下でもない人間だった。
平々凡々な私が、与祢に宿った理由はわからない。
けれども、与祢になった日のことは、今もはっきりと覚えている。
ある年の夏の、日曜日の夜だった。
◇◇◇◇◇◇
「ふ~ん♪ ふふ~ん♪」
テレビのBGMに合わせて鼻歌を歌いつつ、風呂上がりのふくらはぎにボディクリームを擦り込む。
本日のクリームは、大学以来の親友であるアマンダからもらったお土産だ。
先週やっと実家のスペインに帰れた時に、ついででフランスへショッピングもしに行ってきたらしい。
さすが大陸だよ。ちょっと遠出感覚で他国にショッピングへ出掛けられるなんてスケールが大きい。
しっかし良い伸びだ。肌触りが柔らかくて、指に一すくいでするする伸びてくれる。
香りはフランキンセンスとネロリかな?
チョイスは定番でも、配合が絶妙なのだろう。ほどよい芳香が優しく嗅覚を包んで、とても心地良い。
日本未上陸のイチオシなオーガニックブランドだと、自慢げにアマンダが言っていただけはある。
親友に心の中で感謝しながら、私はるんるん気分でクリームを塗り広げて足や腕にマッサージを施していった。
それにしても、今回は楽しい週末だったなあ。
金曜の夜から今日の夕方まで、上京してきたアマンダと久々にたっぷり遊べたんだから。
ちょっと贅沢なホテルに泊まって、ホテルサロンでエステとネイルをして。
美味しいランチやディナーを楽しんで、それから気になっていたお店にもたくさん行った。
アマンダとたっぷり飲みつつじっくりお喋りもできたし、魂ごとリフレッシュできた気がする。
うーん、超幸せ。年末にはアマンダの住む関西で遊ぶ約束もしたし、それを目標に明日からの仕事もがんばれそう。
『与祢! 与祢姫ー!!』
ふいに聴こえたテレビの音声で、幸せボケした思考が現実に返ってくる。
見れば画面の中で、くっきり二重の綺麗な美人が、瓦礫の中で小さな女の子を抱き締めて泣いていた。
なにごとと思いかけたが、彼女の着ている和服を見て納得する。
これは一〇年以上前の大型時代劇のワンシーンだ。
確か、戦国時代の武将の山内一豊? とその妻の千代さん? というご夫婦が主人公のやつだったはず。
そうや今年の時代劇、上半期にあった伝染病流行のせいで撮影が遅れていて、一旦放映が中止になってたっけ。
今日のこれは穴埋めに放送している過去の人気作の総集編かな。
『──こうして、長浜の大地震は一豊と千代の大切な与祢姫の命を奪っていったのだった……』
重々しいナレーションが、シーンの解説を入れてくれる。
え、待って待って、重くない? 一人っきりの娘ちゃんが死んじゃったの? あんな小さくって可愛いお姫様が?
うっわー……山内さん夫婦も娘ちゃんも、かわいそすぎ。うっわー……。
あんまりなシーンのせいで、一気に私は意識をテレビ画面に持っていかれた。
ドラマの時間軸は、どんどん進んでいく。
豊臣秀吉が天下を物にして、幼い息子のために甥っ子を殺して。
その秀吉もぽっくり死んで、石田三成が徳川家康とすったもんだして。
とうとう関ヶ原の合戦が勃発して……etc、etc。
山内さん夫婦って苦労してるんだな。娘の死以降も山あり谷あり別れありな人生を送っている。
有名じゃなくても戦乱の時代を生き抜いたんだからそんなもんか。
それにしても、一豊さんも千代さんもかっこいいな。夢中で人生を生きて、大きな夢をふたりで達成した。
娘ちゃんが生き残っていたら、もっと幸せだったろうに。そこだけが残念だね。
そんな感慨に耽ってエンドロールをため息で見送っていたら、眠気が突然やってきていた。
なにこれ。すっごく眠い。今にも寝落ちそう。
かくっとなりつつ、慌ててボディクリームの蓋を閉めて、私は這いずるようにベッドへ上がった。
充電器に繋いだスマホを確認する。時刻は午後九時の少し前だ。
ちょっと今日は早すぎない? 昼間にはしゃぎすぎた疲れが回ってきたのかな。
まあ、いいか。早寝は健康にも美容にも良いことだ。もう全身のナイトケアは済んでいるし、マグカップとかの洗い物は明日起きたらやればいい。
たぶん、早く寝た分だけ早く目が覚めるはずだ。何の問題もない。
そう思った途端、眠気が更に強くなった。私は押し寄せる睡魔に逆らわず、重いまぶたをゆっくり下ろす。
体がふわふわする……よく眠れそう……。
……あ、しくじった。睡眠計測アプリ、オンにしそこねたけど……一日くらい、いっか……。
そんなくだらない思考を最後に、私の、私としての意識は途切れたのだった。
◇◇◇◇◇◇
寒い。骨まで凍りそうなほど寒く、土埃の嫌な臭いが漂っている。
一体何が起きたのか、目覚めたばかりの私はわからなかった。
体はなんとなく痛むし、やけに息苦しくもある。手足を動かしてみたが、天地が狭くてあまり自由にならなかった。
どうもずいぶんと窮屈な場所へ、無理矢理押し込まれているらしい。
地震、という単語が脳裏をよぎった。
もしかして私は、眠っている間に大地震に見舞われたんじゃないだろうか。
大きな揺れで住まいのマンションが倒壊。運良く圧死はしなかったけれど、瓦礫の間に閉じ込められてしまった。
そう考えれば、かなりしっくりくる。
最近日本各地では、大きな地震が頻発していた。テレビで地震を研究する学者が、日本全国どこにいても防災の意識をと警告していた覚えがある。
私が住む場所が深夜に被災したとしても、有り得ない話ではない。
「どうなるんだろ……」
圧迫されているせいか、呟いた自分の声がか細い。不安がじわじわと胸に忍び寄ってくる。
目を凝らしても、まだ夜中なのかあたりは真っ暗。現状の把握もままならない。
お腹の奥がじりじり焼かれる焦燥を覚え、私は苦しい息をできるかぎり大きく吐いた。
ちっとも不安は紛れない。いつもなら、深呼吸である程度落ち着くのに。久々に涙が出そうだ。
「たす、けて」
いけない、と思う前に叫んでいた。
「いやぁぁぁっ! だれか! だれかぁっ、たすけてーっ!!」
地震で瓦礫の下に閉じ込められた時、無暗に叫んではいけない。
救助を待つ間に体力やその場の酸素を消耗すると、生還率が下がってしまうからだ。
私はそれを、知らないわけではなかった。でも、声が枯れそうなほど泣き叫ぶことを止められなかった。
パニックは恐ろしい。
感情が思考を振り切って、直面した恐怖から逃れようと無我夢中になってしまう。身動きがままならないからなおのことだ。
「ごほっ、誰か……いないの!? ねえ! ねえってばぁぁ……ッ!!」
吸い込んだ埃が喉を痛め付け、瓦礫に擦れた手足が擦りむける。
息苦しさと痛みがますます私を追い詰める。
何も見えず、何も聞こえない。絶望が涙に声を溺れさせて、小さく掠れさせていく。
もう、助からないかもしれない。
諦めともつかない予想が頭の中に満ちる。
否定したくて無視していたけれど、もう無理だった。
きっと瓦礫の合間が、私の最後の場所だ。
誰にも知られず、苦しいまま、独り寂しく命を終えていく。
どうして、私がこんな目に遭わなければならないんだろう。
三十目前だが、世間的にはまだまだ若い。これから先もたっぷり人生を満喫できるはずだったのに。
ちょっと退屈だったけど、今の生活に不満はなかった。
もっと自分を自分なりに磨いて、お洒落をしたかった。
「なんでっ……こんな、ところでっ……」
死にたくない。もっと生きていたい。
ぽろりと涙が眼の端を伝って、こめかみを冷やした。
そんな、時だった。
「……、い、……、お……」
上の方から、誰かの声が聞こえた。喉に張り付いていた嗚咽が止まる。
気のせいや幻聴かもしれない。それでも縋りつくように、私は息を詰めて耳を澄ました。
「おーい! おぉーい!!」
どくどくと煩い鼓動を聴きながら、じっと耳に意識を預ける。
さらに声が近く、はっきりと聞こえた。
「誰かいるのっ!?」
反射的に呼びかける。砂を踏むような音や木を蹴るような音が、幾つも聞こえてきた。
「聴こえた! 下じゃ!」
「童の声……まさか、姫様か!?」
「姫様! 姫様でございますか!」
頭上がざわざわとし始める。遠いけれど呼び掛けてくる声がして、重い物を引きずる音が響く。
瓦礫の上に人がいる。私は無我夢中で叫び返した。
「ここです! ここ! ここにいますっ!」
手近の小石をなんとか掴んで瓦礫を叩く。
手を怪我してもいいとばかり滅多打ちしたことがよかったらしい。瓦礫の上の人々は私の場所を正確に把握できたようだ。
慌ただしく、そして乱雑に瓦礫を撤去する音と振動が伝わってくる。ぱらぱらと砂や埃が降ってきた。
助かるかもしれない。
細く差し込んだ希望にしがみつくように、私は場所を知らせるため声を張り上げ続けた。
ごしゃん、とひときわ大きな音を立てて、頭上の瓦礫が動いた。真っ暗な世界が、突然薄明るさで満たされる。
眩しい。急な明るさにすがめた視界の先に、ぽっかりと大きな穴が開く。
穴の縁には、月明かりを背にこちらを覗きこむ人影が幾つも連なっていた。
「姫様だ……!」
震える声で、誰かが呟いた。
「ひめ?」
鸚鵡返しで呟くと、頭上の人たちからわっと歓声が上がった。
「ご無事だ! 生きておられる!」
「早うお方様へお伝えせよ! 与祢姫様をお見つけしたと!」
「姫様ぁー! 今お救いいたしますぞー!」
「もっと人を呼んでこいっ! この材木、重すぎる!」
頭上の穴がみるみる大きくなっていく。辺りの人が総出で瓦礫の撤去に取りかかってくれているのだろう。
男、女。若い人、老いた人。次第に掛けられる声が増え、見える人影も増えていく。
集まった人たちは皆口々に助けると叫び、怖くないと励ましてくれた。
だから心配するな、ひめさま、と。
私は”ひめ”という人ではないのに、どうしてずっとそう呼ぶのだろう。
血を吐きそうなほど必死に呼ばれては、否定しづらい。
困り果てているうちに瓦礫がすっかり取り除かれた。ざざ、と滑るようにして私の側へ人が降りてくる。
「お待たせしました、姫様」
顔を寄せて笑いかけてくれる。だが、私は目を見開くばかりで、返事ができなかった。
彼らの格好はどう見ても和装なのだ。
それもただの和装ではない。某大型時代劇か歴史物の映画でしかお目にかからないような、やたらと古風なやつだ。
しかも全員やけに大きい。私の倍以上は身長があるのではないだろうか。囲まれると圧がすごい。
あり得ない現状に黙りこんでしまう。私の様子を怯えと解釈したのか、男の一人が巨大な手で私の頭を撫でた。
「ご安心召されよ。すぐ出して差し上げますからな」
よくわからないが、救助してもらえるのはありがたい。
戸惑いから抜けきれない私がぎこちなく頷くと、すぐさま男たちは最後の瓦礫に手を掛けた。
威勢のいい掛け声と共に、私の下半身を挟んでいた材木が持ち上げられる。タイミングを逃さず、私は手を突いて隙間から抜け出した。
解放感が全身を満たす。目を閉じて、深い息を肺の底から吐いた。
助かった。実感がじわじわと溢れてくる。
「あれ?」
なんとなく視線を落とした手元に、違和感を覚えた。
昨日ネイルサロンで塗ってもらったばかりのコーラルピンクが、爪の上から消えている。
指も手のひらも妙に小ぶりな気がした。恐る恐る手を握って開いてみた。
やっぱり、全体的に細くて少し丸みを帯びている。小さい子供みたいな手だ。
「与祢ーッ!」
きょとんと自分の手を眺めていると、高い女性の悲鳴が響き渡った。
驚いて顔を上げると、若い女性がこちらへ近づいてくる。
白い着物姿の、煤けても品がある私と同年代くらいの和風美人だ。
そんな人が髪を振り乱し、青い顔で私の側へ降りてきた。
「ここにいたのね! 生きていてくれたのね!」
「ぐふっ!?」
体当たり同然の勢いで抱きつかれた。私が衝撃に呻いても気づく様子はなく、ぐいぐい抱き締めてくる。
「痛いところはない? 苦しいところは?」
「な、ない、です、けど」
「ほんとに? ほんとね? ああ、無事でよかったぁぁぁっ」
ダメだ。このお姉さん、パニックを起こして力加減を忘れている。
身動きひとつ取れやしない。地震で死ななかったのに、こっちで死にそうだ。
「義姉上、義姉上」
救出してくれた男性の一人が、お姉さんの肩を叩く。
「落ち着いてくだされ。与祢姫も驚いております」
「あ、あら。わたくしとしたことが」
細い腕の中でもがく私を苦笑交じりに見、彼はお姉さんに優しく諭した。
ハッとしたお姉さんが腕の力が抜ける。締め付けが緩んで、新しい空気が肺に入ってきた。
「ごめんなさいね、与祢。あなたが無事で嬉しくって……」
「母上はそなたを案じておられたのだ。堪忍して差し上げてくれよ」
お姉さんがすまなそうに大きく息を吐く私の背をさすってくれる。
男の人の言うとおり、悪意はまったく感じられない。わかっていると頷いてみせる。
ほっとお姉さんが顔を緩ませた。その憎めない表情に、私は少し好感を覚えた。
「さ、義姉上。与祢姫を連れて、ひとまず安全な場所へ。また地面が揺れるやもしれません」
男の人がお姉さんを促す。おっしゃる通りだ。崩れた建物の側で余震に遭えば、せっかく助かった命がまた危険になるもんね。
お姉さんも、そのあたりは理解しているらしい。彼の差し出す着物を受け取ると、私を包んで立ち上がった。
視界が急に高くなる。大人に抱っこされた子供の頃を思い出す感覚だ。ちょっと恥ずかしい思いをしながら、男の人の手を借りて瓦礫の外へ出た。
外には和装の人が何人も集まり、いくつもの松明の火が揺れている。おかげで思ったよりも明るかった。吐き出した息の白さがよく見えるほどだ。
雲のように夜空へ昇る吐息を、つい目が追う。仰いだ視線の先の薄闇に、大きな影が現れた。
「え?」
それは、小ぶりなお城だった。
松明の火に照らし出された崩れかけの天守閣に、私は言葉を失った。
屋根瓦が落ち、壁の漆喰が剥がれ、半ば湖に身を沈める無残な姿になってはいる。しかし、かろうじて保たれた屋根の形や大きく崩れた石垣には、日本のお城らしさが漂っていた。
「与祢? どうかした?」
呆然と口を開けた私の顔を、お姉さんが心配そうに覗き込んでくる。
「あれ……なに?」
震える私の質問に、お姉さんと男の人が顔を見合わせる。
視線の先でそびえる天守閣を指し示すと、男の人は苦笑いを浮かべた。
「あれは長浜城の天守だ」
変わり果ててしまってわからんだろうが、と彼は遠い目をする。
「ながはま、じょう?」
「そうよ。父様が──我が山内家が関白殿下から賜った、近江の長浜城。与祢やわたくしたちのお家よ」
山内家、関白殿下、長浜城。
お姉さんの返事には、耳に覚えがある単語が並ぶ。どこで聞いたかあやふやだけれど、一つだけははっきりしている。
ここは、間違いなく私の家ではない。
それどころか────現代ですら、ない。
「嘘でしょ……?」
掠れた私の呟きは、冷たい夜の空気に溶けて消えた。
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