第176話 揺れる心・4
太腿に伝わる冷たさに混じった温かみに言及する事無く穏やかな静寂が続く中、ずっと考えていた思考が、ポツリと漏れる。
「……ダグラスさん、もし私が子どもを産む前に帰りたいと言ったらどうしますか?」
「それは……どういう意味です?」
急に真顔でこちらを向かれたので、咄嗟に手元にあったペイシュヴァルツのクッションでダグラスさんの顔を遮る。
「その……もしなかなか子どもが出来なかったりとか、病気で子ども産めない体になったら……私、いらなくなるなぁって……」
「ああ、そういう意味ですか……」
思っていた事をそのまま言い連ねると、クッション越しにダグラスさんの心底安堵したような声が漏れる。
「確かに魔法も万能ではないので、今の時点では不妊の可能性が全く無いとは断言できませんが……それでも私が貴方をいらなくなるなんて絶対にありえません。もし貴方と子どもを宿せなかった時は、別の相手と肉体的に一切接触する事なく魔力を注いだり子どもを作れる方法を研究します。隣国もそういう研究をしていると聞いた事がありますし……子どもが産めない事で貴方の居場所がなくなるという事はありません」
子どもに言い聞かせるように紡がれるダグラスさんの声は、酷く優しい。
「……子作りがツヴェルフの役目なのに?」
「ツヴェルフとしての役目を果たせなくても、それで飛鳥さんの全ての価値が無くなる訳ではありません。妻として、貴方が望んでくれるなら私の子を共に育てる母として……私が貴方を必要とする理由は多々ある」
クッションの向こう側はきっと、声と同じ様に優しい表情をしているのだろう。それを見たいと思う気持ちはあるけれど。
「……地球に帰りたいって私の願いは?」
「その願いは叶えるのに時間がかかるので……その間……そうですね、3年位私の傍にいてください。3年後に貴方が地球に帰りたいと願うなら、その時は、協力……しますから」
こうやってこの人は自然に嘘を付く。嘘を付く点は私も同じだから責められないけど。
この人と一緒にいたら私が見える範囲で変わりはすれど、本質は変わらないのでは――と頭で警鐘が響く。
(だけど、地球に帰った所でここまで私を望んでくれる人と出会えるとは限らない……)
傷だらけの私に変わらずに愛を示してくれる人。何も出来ない私を温かく囲ってくれる人。
嘘を付いたり恐ろしい行動に出る所は大分気になるけどそこは私が止めればいい。私の言葉にちゃんと耳を傾けて反省してくれるのだから、私が声をあげればきっと聞いてくれる。
(でも、今どれだけ甘い事を言ってても後でどうなるのか分からない……)
今この感情だけで今後の人生を決めるのはあまりに不安が残る。声を上げて喧嘩になれば放り出される事だって否定できない。
ここが私一人で生きられない世界である事には変わりない。
そう考えると3年という期間は今後を見極めるのには丁度良いのかも知れない。緑の節の5日を逃しても40年後まで帰れないという訳ではないのだ。
もし3年後ダグラスさんが私に興味を無くしていたら、この世界の金銀を向こうで現金化するなどして向こうの家賃滞納、未納の年金、保険料、税金それらを解決できればまだ向こうでの生活は立て直せる。
ネーヴェはこの世界の物を持っていったら駄目とか言ってたけど私がダグラスさんの子どもを産めば皇家としては有り難いだろうし、交渉する余地はあるはず。
子どもの問題が残っているけど、仮に産んで離れ離れになったとしても子どもはこの世界で大切に育てられるだろう。
(ちゃんと黒の魔力を綺麗に引き継いだ子だったなら、ね……その辺もう少しダグラスさんに分かって欲しいんだけど……一般市民は親子の色が違ってて当然なのに何で)
「……飛鳥さん?」
「す、すみません、まだ体の関係も無いのに重い話しちゃって……おかしいですよね」
ダグラスさんの声に我に返り、クッション越しで視線をまじわせる事がないのについ目をそらしてしまう。
「いいえ、大事な事です……私も色々裏切られてますが飛鳥さんもこれまで彼氏といいクラウスといい度重なる裏切りに傷ついてる事を失念していました……そして今、貴方は私に心を寄せて私の裏切りを、心変わりを心配している……私に捨てられる事を恐れはじめている……ああ、なんて可愛らしい……」
調子に乗ったのか余計な事を言い出したのでクッションを押し付けるとむぐっ、と情けない声が聞こえた所でノック音が響く。
「私が開けましょう……そろそろ仕事にとりかからねばなりませんので」
ダグラスさんは身を起こして立ち上がり、では、と小さく頭を下げて部屋を出ようとする。
その後姿に今度は私が寂しさを感じる。感情と理性がグルグルと廻る。大事な事なのに、それを考えるのにも疲れてきた。
(……ああ、もう。どうにでもなればいい)
「ダグラスさん」
呼び止めて振り返った彼に頬に軽くキスをする。もう、悲鳴は一切聞こえない。
「あ……ありがとうございます……失礼します……」
してもらえると思っていなかったのか、顔を真っ赤にして微笑んだダグラスさんがドアの方に向き直すとセリアが口元に手を当てて『あらあら、まあまあ!』と言わんばかりに目を見開いていた。
ダグラスさんはセリアを気にした様子もなくそのまま部屋を出ていく。
「熱い……この熱さ、釣られて私も沸騰してしまいそうです」
部屋に入りながらパタパタと手で顔を仰ぐ仕草をしてみせるセリアに苦笑いする。
「主が応答する前にドアを開けるのってメイドとしてどうなの?」
「私はメイドと護衛の2つの任務がありますので……危険をはらんでいる状況で応答がない時は即座に開けますとも。大丈夫、何を目撃しても私は動じません」
にこやかな笑顔と力強い言葉。セリアは私が何言っても変わらないんだろうな。
「それにしてもダグラス様、大分変わられましたね……ここに来るまでは威厳と気高さと強さの塊みたいな方だったのに。今は恋に溺れ悩む一般的な男と変わりない。本当、アスカ様は焼け石のような人……人の心に飛び込んで、沸騰させようとする」
「良い意味で言ってるように聞こえないんだけど、それ」
焼け石を投げ込まれた鍋がボコボコと激しく音を立てる光景を想像して率直な感想を述べると今度はセリアが苦笑する。
「そうですね……良い意味でも悪い意味でも言ってますから。それで、ダグラス様とどんな感じになったのです? 見た感じはとても上手くいかれたようですが……恋バナでも愚痴でも、いくらでもお聞きします」
ああ、話を人に聞いてもらえるとスッキリするのは確かだけど、話したくない話を聞きます聞きますって催促されるのはちょっと嫌だな――と目を輝かせて催促するセリアを見て反省した。
その日は、何の夢も見なかった。それが嵐の前の静けさである事を次の日早々に思い知る事になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます