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「ち、父の書斎に哲学の本がたくさんあって、その、昔から読んでたんです。も、もちろん意味なんて全然理解できていないんですけど、でも、私昔から友達が少なくて……こういう難しい本が読めたら、クラスで人気者になれるかもって……。で、でも、私が哲学の話をしても、みんなはつまんなそうな顔をするばかりで、それは私の話し方が悪いからって思って、だから理解できるようにしないとって……。そうやって読んでいく内にのめり込んじゃって……。みんなが哲学の話を好まないって理解してからは、内緒の趣味になっちゃいましたけど……」

「……」

「だ、だから、このクラブを知ったとき……っ! わ、私と同じ人たちがいるんだって、う、嬉しくて……っ」


 後輩ちゃんは涙ぐみ始めてしまった。

 感動した。友達作りのための努力が長い時を経て実ろうとしているという話はとても感動的だ。

 しかし、この状況はとてもまずい。


 話を聞く限り後輩ちゃんは筋金入りの哲学好きだ。対してこの哲学部はどうだろうか。はっきり言って、張りぼてもいいとこだ。


 先輩は哲学好きではあるが、入門書しか読んでいない。およそ哲学においては後輩ちゃんの方が数段上だろう。

 先輩も後輩ちゃんの言葉によってそれを自覚したのか表情が硬い。


 私に関しては言うまでもなく哲学に対する興味はゼロだ。エロいことしか考えていない。

 この世の真理よりも、他人の性欲に興味がある人間だ。


「あ……えとっ……ひっ」


 先輩の口調が素に戻っている。自信ありげだった姿勢もすっかり縮こまってしまって、なんとも哀愁漂う姿だ。


 ここはお引き取り願うべきだろうか。

 彼女にはここ以外の居場所があり、友達がいる。哲学部に入れなかったとしても彼女の周りには友がいて、後は私が個人的に関係を持てばいい。


 でも先輩は違う。先輩にはこの哲学部しか居場所がない。成績が悪く、まともな話し相手も私しかいない。万が一後輩ちゃんによって哲学部の存在が壊されたとしたら、不登校になるんじゃないかとさえ思えてしまうほどに先輩は危うい存在だ。


 もしも先輩が不登校になってしまったら……それはそれでありなように思えてきた。

 どちらにせよ先輩は私が養う予定なのだ。性的に私に依存させるのは前提として、社会的にも依存してもらった方が強固な関係を築けそうだ。

 先輩も日頃から学校には不満を持っているようだし、ただ私に溺れるだけの生活を送る方が幸せではなかろうか。


「……あ、あの、先輩の好きな哲学者を窺ってもいいですか?」


 後輩ちゃんがついに切り込んだ。共通の趣味を持った相手との初めてのやりとり。相手と自分の好きのレベルを計る挨拶。

 後輩ちゃんは重度の哲学好きだ。それに対して先輩はなんと答えるのか。敬愛する先生を挙げるのだろうか。確かに先生も哲学の入門者を増やした功績を持つが、それは後輩ちゃんに通用するのだろうか。


「……に、にーちぇ」


 それはとても弱々しい返答だった。しかし回答としては間違っていないのではなかろうか。

 ニーチェは哲学に興味がない私でも知っているほど有名であり、有名な人間を好きとして挙げるのはとても無難な選択だ。


「ニーチェ……、そ、その、良ければ理由もよろしいですか?」


 後輩ちゃんの発言は怪訝そうだ。回答が無難すぎたのかもしれない。後輩ちゃん的にはもっと隠れた天才のような哲学者を期待していたのだろうか。それとも、実は哲学者の間ではニーチェ好きというのはにわかの代名詞だったりするのだろうか。


 おそらくここが先輩の人生における最大の山場だろう。

 頑張ってほしい。もしも玉砕したとしてもその時は首輪つけて飼ってあげるので。


「に、ニーチェの哲学は、私を否定してくれたから……っ!」

「……先輩?」


 声が震えている。目の端に雫が溜まって潤んで、その肩は小さく震えていて、それでも先輩は俯いてはいなかった。


「成績が悪い。運動ができない。上手く話せない。私は、私のことをダメな子だって、ずっと思ってた。他の人が普通にやっていることが、私には普通にできないから。ずっとみんなに、私自身に罵られている気分だった。蔑みも、慰めも、私にとっては同じ言葉に感じてた」


 出来ないものは出来ない。仕方ないものは仕方ない。不出来なところには目を瞑って諦観する。

 そんな生き方を、幼少の頃の先輩は知らなかっただろう。


 友達が作れず。誇れるものもなく。そんな自分に自己嫌悪して、目を逸らすこともしないで見つめ続けて。

 そうやって先輩は一人で生きてきたのかもしれない。


「でも、それは違うって。普通なんてものはどこにも存在しないって……。運動能力が高い人は凄いって決めたのは人間。勉強ができる人が偉いって決めたのは人間。上手く話せる人が優れているって決めたのも人間。この世の価値観は全部嘘っぱちだって……、ニーチェが教えてくれたから。大衆にとって都合の良いルールを、大衆のために定めただけなんだって、教えてくれたから。私がダメなのは、人間が、私が勝手に決めつけているだけだって……っだから、私はニーチェの哲学が一番大切なの」


 社会で生きる以上、社会に適した能力が高いのは悪いことではない。その方が生きやすいし、楽しめるし、きっと充実する。


 でもそれは人間が定めた社会の上での話だ。人間の本質ではない。先輩のような人間はただ大勢が決めたルールに馴染めなかったというだけ。ただそれだけの話なのだろう。きっと先輩は、ニーチェからそんなことを教えてもらったんだと思う。


 目の奥がきゅっと熱くなるのを感じる。正直言うと、私は先輩を下に見ていた。コミュケーションがまともに取れない人で、哲学にわかで、哲学を自身の言い訳の道具にしているだけの人なんだと思ってた。


 でもそうじゃない。入門書しか読まない人でも、好きだという気持ちに貴賤はない。先輩には先輩の思いがあって、今ここで哲学を語っている。


 改めなければいけない。先輩の本質を、私も見なければいけない。そう心に強く感じた。


 今までは先輩には主従逆転プレイ一択だと思っていたが、きっと甘々プレイも合うだろう。前戯にたっぷり時間を取った後に、一時間の寸止めとかとかとか。


「っ……っ!」


 肝心の後輩ちゃんのリアクションはと言うと、なんだかわなわなと震えていた。

 まさか今の先輩の発言が地雷だったりしたのだろうか。解釈違いで仲違いというのは哲学に限らずありふれた話ではあるが……。


「な、な、な――なるほどっ!!」

「っ!」


 うるさい。とてもうるさい。


 さっきまでのおどおどとした態度はどこへやら、後輩ちゃんはむんずと先輩の両手を掴み、きらきらと目を輝かせている。


「さすがは先輩です! ニーチェの哲学からそのような解釈をなさるなんて、とても興味深いです! 私も幼少の折にツァラトゥストラは読んだのですが、先輩のような解釈は思いつきもしませんでした。しかも先輩は解釈だけでなく、知恵として自己の中に吸収していらっしゃるなんて! とても感激です! まさかこんな人に出会えるなんて思ってもいませんでした!」


 おそらくだが、先輩はそのツァラなんとかとやらは読んでいないだろう。多分さっきの解釈も先生の受け売りだろうし。


「人間は自身の思考を完璧に相手に伝えることはできない。自身の赤と相手の赤が同一だと証明できないように、齟齬のない以心伝心は不可能です。だからこそ解釈が重要であり、体験して理解することこそが知識の最奥。東洋哲学でいう悟り、仏陀の境地、はたまたアートマンの教え。言葉を言葉としてではなく、体験として悟る。これはやればできるというものではありません。先輩とニーチェの哲学の相性の良さあってこそのことだと思います。私感激です!」


 何を言っているのかわからない。日本語を話しているのはわかるが、意味がわからない。先輩もそうなのだろう。目を白黒させて、後輩ちゃんの勢いに押されているのがわかる。


 ただ、はっきり言えることが一つだけある。これから、私のバラ色のハーレム生活が始まるということだ。


「私、この部活に入部します! ぜひ私も先輩方の仲間に入れてください!」

「え、えっと、あ、あなたはま、まだ中等部だから高等部の部活には――」

「そんなの関係ありません!」

「ぴっ……」


 後輩ちゃんの言う通り学年は特に関係ないだろう。なぜなら哲学部は正式な部活じゃないからだ。

 ただ放課後に高等部の空き部屋でたむろする人間が一人増えるだけである。


「えーと……じゃあ、これからよろしくね。ほら、先輩も挨拶しましょう」

「よ、よろしく……」

「はいっ!」


 後輩ちゃんの手が私と先輩の手を握る。つられて私と先輩も手を握る。小さくて汗ばんだ手と、大きくて柔らかい手。

 小さな円が私たちの間に形成された。


 思いがけず、今日は良い日になった。


 今までに稼いだ先輩の好感度は申し分ない。あと一押しでベットにも連れ込めるだろう。


 後輩ちゃんからの好感度も悪くない。哲学には付いていけないが、編入性という点で大きく稼げている。


 何より、二人とも押しに弱そうな性格というのがいい。無理やり押し倒しても流れで最後までいけてしまうビジョンがありありと見える。


 ただ、この性格には悪い思い出もある。

 嫉妬深い可能性が高いのだ。中学時代も似たような子を勢いに任せて抱いたのだが、酷い目にあった。


 私が二人と関係を持った後に、険悪な関係にならないといいのだが……。

 いや待てよ。後輩ちゃんと先輩も関係を持てばいいのではないだろうか。後輩ちゃんは先輩に尊敬の目を向けているし、先輩が自身を慕う人間に対して懐くことはわかっている。

 叶うのならばそれも選択肢としてはありだろう。むしろそっちの方がいい。だって三人でできるし。


 二人の手を握る指を互い互いに折り重ね、恋人握りをしてみる。二人は少し驚いたが、先輩は少し照れ臭そうにしながら、後輩ちゃんははにかみながらも拒絶はしなかった。


 私は、この二人と共にベッドインします。

 二人の笑顔に誓って、必ず成し遂げてみせます。


 だから見守っていてくださいね、ニーチェ。

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