境目

犬歯

第1話 魂の悪戯

拝啓 名探偵様


白く染まった空、いや積乱雲に毒されたといった方が正しいだろうか。

今にも雨が降り出しそうかといえば、そうゆうわけではなさそうなので、外に出るということだけを見れば非常に外出日和という言葉を使いたいのだが、そんなことを気軽に言えるような情勢でもなさそうなので、やはり積乱雲に毒されているという使い方は正しいだろう。家に籠るというのはなぜか自分の世界というものに浸かってしまい、テレビの情報、SNS、そして窓から見える世界すらこの世のものではないかのように感じる。だからだろうこんな空も悪くない。別段、空に興味があるわけではないが。


最近はやはりこんな生活ではいけないと思い立ち、異世界への散歩を試みているのだが、もともと出不精で面倒を嫌い、現状維持を好む僕はなかなかその一歩が踏み出せない。(まあ、いつも言い訳ばかりの人間だからだろうか)こうして僕は幽栖を送っている(僕としてはそうしているつもりは一切ない)。ここで言っておきたいのが確かに僕は誰ともかかわらないが、特に俗世から離れているわけではない。家に家族がいるわけだから、唯一彼らとのかかわりが僕を人間足らしめてくれる。となると幽栖というよりも静謐な生活と言った方が正しいだろうか。


とここまでは長い前置きになる。これは僕の近況報告ということで通覧してほしいのだが、ここからは僕が最近目にした、ある信じ難い出来事の謎を解いてほしいのだ。いやいやいきなりそんな事を言われてもと思うのは御もっともだが、まずはこの摩訶不思議な体験をあなたにも実感してほしい。話はそれからでも遅くないだろう?


あれはいつのことだろうか。といっても数日前のことなのだが、自分の生を真っ当するために必要な買い物をするため異世界への旅行へ旅立ったのだが(これは決して現実からの逃避行ということではない)その日は気持ちが良いほどの晴天で当にお出かけ日和というものであり、僕にとっては暗雲をが心中を覆い一抹の不安だけが払拭しきれなかった。


そして僕は蝉の叫びの中に聞こえる一縷の悲痛の囁きを感じながら、最寄りのスーパーへ向かう人工の道を辿っていた。


僕はいつもこの道を歩きながら思うことがある。アスファルトというのは地球との分裂を意味するのではないだろうかということを。土の上を歩くとき僕たちはその生命力に晒される。真下では分解者達の営みが僕たちの生命の息吹を与え、また僕たちの命と地球との中継を果たす。そして土の中にも確かに存在する食物連鎖が生命体を維持している。一方で土の上では私たちのエネルギーの源である生産者達が互いに輪舞を踊っている。しかしどうだろうアスファルトと呼ばれるコンクリートの塊は僕たちとこの世界の分断を容赦なく行ってくる。まるで自粛によって外景が異世界に見えるように彼らもアスファルトによって僕たちの世界から完全に断絶されているのだ。


そんな思案に耽っていたがふと意識を逸らした刹那、先ほどまで気持ちいいほど晴れていた蒼穹はあたかもふとした何気ない失言によってとても気持ち良い笑顔だったものが(阿修羅像を左側から右側へと見回した時のように)紅に染まる憤怒、もしくは皴を増やし、瞬きを不自然に増加させていく悲愴な表情に変わってしまったかのように空は曇天に包まれ風神雷神がこの世に降臨したのかと見紛うほどの鬼雨が僕に向かってその牙を向けた。


僕は傘も合羽も持っていなかったためこの白雨に対しては為す術もなく丁度そこにあった民家の軒先を雨宿りに使わせてもらった。正面にはガラパゴス化され、廃屋と化している一軒の 陋屋が閑散とそこに聳えていた。この場所で、僕は幾分かとどまっていた。


ふとその 陋屋のヴェランダに女物とも男物とも判然としない澣濯された衣服が首吊り屍体のようにそこに虚脱感を携えてちょこんと宙を舞っていた。

思い出してほしいのは今は雨なのである。当然雨の日に外に洗濯物を干すなんてことはない。それに加え屋内もがらんどうとしており、他の生物達の安寧の地のようにしか見えない。


ただこの辺には浮浪者やホームレスとなった瘋癲者が少なくなく、彼らがこのあばら家を独占又は寡占している可能性はある。そこで彼らが洗濯物を取り込み忘れてのだろうと一旦は納得し、もうこの事実は忘却の爐の中に放り込まれた。


数十分が経ち、どうやら驟雨だったらしく、雨が上がり、虹色の光彩が天との懸け橋を築いていた。僕はいつも虹の端はどこにあるのだろうと子どもじみた空想を広げるのだが、虹の端というのはないからこそ想像力を駆り立て、人々の原動力に変わるのだろうと自らを納得させている。結局のところ僕たちは答えのない問題に際しては自らが妥協とも思える正解を絶対解とし、あたかも自分が神羅万象の知識を語るかのように自分を納得させる。そうすることでこの社会に順応し賢く生きるのだ。僕は数分ほど一歩を踏み出すことの躊躇を鬱蒼とした森に隠すようにこのような考え事をしていた。


しかし買い物をしなければ生きていけないと腹を括りスーパーへの一歩を踏み出した途端、奇妙な現実感が僕を襲った。不意に好奇心に誘われて目線を上にあげるとそこにあったはずの首吊り屍体のような澣濯された衣服が姿を消していた。普通であれば雨が上がりここからが洗濯物を干すべきではないだろうか、この奇妙な事実を前にした僕はまるで自らがしがない探偵になったようにこの謎を解き明かしたい感情に縛り付けられた。


これは余談なのだが僕は探偵も英雄と呼ばれる存在もあまり好きではない。

彼らはいつも問題が起きてから解決に努める。そして往々にして悪役が目的を達成した後にもしくは大きな被害を出した後に解決をし、まるで人の役に立ったかのようにしたり顔をしている自己満役者なのだ。そして彼らは自分が正義であり、主人公であるかのように振舞い(実際そうだろうなのだが)その剣を簡単に他者に振り下ろすのだ。僕はこれが我慢ならない。正義なんというのは人の思想であり、自由である。ましてや本当に役に立っているのはその企みが行われる前に説得させるべきなのではないか?その企みが行われた時点で彼らは負けているはずなのに、平気でしたり顔をする。そして人の死すらも自分の快楽へと変えるスペシャリストなのだ。つまり彼らは犯罪者と背中合わせであり、それをすべての正義と見せるこの世界にも嫌気がする。


しかし人の好奇心というのは恐ろしく想像力というのは現実すらも喰らう怪物である。こんな探偵嫌いの僕にも興味が向いたら、まるで自身を探偵に投影して本能の赴くままに行動する。


そうして鬱蒼とした廃屋の中には寂として、まるでここだけ本当の異界であり、目の前に獄門が現れるのかと錯覚してしまうかのような雰囲気であった。


浮浪者がいるという仮説を数刻前に立てていたが、想定に反し屋内には誰もおらず、しとどとなった衣が横たわっていただけであった。当然誰かいるはずで辺りを隈なく捜索したが人どころではなく生命の香りすら感じることができず、目には見えない亡霊が漂っているのかと思うほどであった。勿論自分は酩酊状態でもなく冴えており、僕はこんな廃墟から出てくる人間を見逃すわけはないというのは君の御周知の所だろう。如何せんその理由は判然とはしていないのだが、僕は視野が広いのだ。加えてこんな廃墟から出てくる人間が目立たないわけはない。天に誓って僕はこの廃屋から出てきた人はいなかったといえる。


となると裏口から出入りするだろうと考えられるのだがこの家の裏口は残念ながら建付けが悪いのか、歪んでしまっているのか裏口が開くことはなかった。


これはおかしなことだ。つまりこれは衣が自ら雨に打たれ、晴れたら自分から屋内に戻ったということになる。こんなおかしなことがあるのだろうか。僕の浅ましい知恵では答えにたどり着くことができなかった。そこで相談だ。名探偵の君ならこの答えを導き出せるはずだろう。


返信を楽しみにしているよ。


敬具 あなたの友人

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