第1話

 彼女は、人前ではとても物静かな女の子だった。



 小さな村とはいえ、その村長さんの初孫であるということを考えても、もう少し胸を張っていればいいのに、と感じていた。もちろん、いつも村人に威張り散らして、領主様にはヘこへこしているようなおじいさんの権力を笠に威張られてもつまらないだけなのだけど、村で唯一の同い年生まれの私から見ても、とりわけ物静かで主張のしない女の子だった。私やお母さんが、彼女が村長さんと歩いているところに挨拶をしても、小さく会釈するだけで口を開くこともなかった。そういう子供というのは、とっつきづらいものだった。年の離れた下の子どもたちだけではなく、大人たちもまた、彼女が放つ、か細く、触れがたく、どこか不思議に満ちている雰囲気に加えて、早くに死んでしまったらしい母親の美しさを素敵なまでに受け継いだのその顔立ちと合わせて、どういったわけか腫れ物に触るような感覚を覚えていた。

 私もお母さんから、彼女が村長さんの一人孫ということもあって、

「あんまりお話しちゃだめよ。ご気分を損ねてはいけないからね」

 と教えられていた。だからその気はなかったけれど、自然と距離を取ってしまう自分がいた。それでも、その端正な佇まいと、笑顔を見せることもなければ、怒ったりすねたりもしない淡白な表情だけでなく、私が着ている麻の洋服とは違って丁寧にしつらえた綿の洋服を着ている様は、まるで等身大のお人形のようで、初めて出会ったときから私はどこか魅了されていたんだと思う。



 今でもよく覚えている。



 村長さんが、

 「今年の麦の実入りが悪い。神にお祈りするのじゃ」

 といって、農作業中の村人全員を祭壇に集めていた時だった。

 急なものだったから、私もみんなも畑作業のまま土埃だらけの格好で村の広場でお祈りの時間を待っていると、偶然にもファビオラが私の隣にやってきて、そこでお祈りをすることになったのだ。

 たまらず胸がどきどきしてしまった。好奇心が旺盛だった私の胸の中は、ファビオラの隣にいるだけで、ほんの少しの罪悪感とたくさんの緊張に包まれていた。子供の私が立ち入ってはならない、大人の世界に触れるような気持ちだった。



 今でもよく覚えている。



 お祈りをしているとき、本当はいけないのだけれど、目を開けて、ちらっとファビオラの横顔を覗き見た。

 お金持ちの人たちだけが持っている絹のように、滑らかで透き通るような白い頬。私のそばかすだらけの肌と比べると、見惚れるほどだった。まっすぐで柔らかな細く長いブロンドの髪が、初夏のほんのわずかな風にもたなびいて、ビロードのように輝いていた。私の髪なんて、毎朝お母さんが櫛でとかすのに一苦労しているのに。だけれど、それに嫉妬するどころか、触れてみたい、撫でてみたいと思うほどに美しかった。

 ひとつ強めに風が吹いた。ファビオラの髪が大きくそよいで、私の頬に触れるんじゃないかと思えるほどに揺れ動いた。華やかで優しい、花のような香りがした。女の私ですら、どきどきした。

 彼女の長い長いまつげが、小さく震えていた。思えば、この時まで彼女がどのような瞳をしていて、なにを見ているのか、私は全く知らなかった。だって、彼女の目を見てお話をしたことなんて、一度だってなかったのだから。きっと綺麗な瞳をしているに違いない、見てみたい。私の欲望は膨れ上がって、留まることを知らなかった。



 その時、ファビオラがゆっくり目を開いた。



 私は慌てて目をそらし、閉じてお祈りを続けるふりをした。驚きと感動で、思わず声が出そうになった。

 彼女の瞳は、深い深い森のように鮮やかな翆眼をしていた。だけれど、瞳を見ることができたから驚いたのではない。彼女が、お祈り中だというのに目を開けるようなことをしたからだ。大人の言いつけは絶対に守るような、ちょっぴりつまらない子供だと思っていた。だけれどそうではなかったのだ。彼女はもしかすると、私も、私以外の子どもも、大人たちも知らないような一面がある女の子なのかもしれない。

 私は、ファビオラの秘密を手に入れられた気がして、胸のどきどきが止まらなかった。


 そのころから、ただ遠目から彼女を見るだけではなく、何を見て、何を考えるのか、深く知ってみたいと思うようになっていた。






 その年の夏の終わり。



 結局、麦の実入りはよくならず、収穫もやりがいのないものになってしまった。だけれど、子供の私にはそんなのどうでもいいことで、むしろ収穫の時間が短くなったおかげて遊ぶ時間が増えたものだから、とてもうれしかった。


 その日は、私のお気に入りの場所である、森の中の陽だまりで遊ぼうとしていた。大人たちが、「森には悪い魔女がいるから近づいちゃいけないよ」と古い言い伝えを繰り返し話すものだから、私よりも小さい子供たちは森を怖がって近づかないし、大人たちは薪を取る以外では森に入ってこなかった。だから森の中ではいつも一人になれた。私はいつもそこで虫を捕まえてみたりしていた。あんまり村のそばで虫遊びをしていると「女の子らしくない」と咎められるので、森の中の陽だまりは、一人で気ままに遊ぶにもってこいだった。


 陽だまりの中で、半ば這いつくばるように蟻の行列を観察したり、土だらけになりながら植物を根っこから掘り起こしてそこにいる芋虫を観察してみたりして、散々遊び倒したあと、疲れたから草の上で寝っ転がっていた。

 そのときだった。


 陽だまりからさらに森の奥の方に、人の姿が見えた。


 息を殺してその先を見た。肌の真っ白な、小さな女の子がちらっと見えた。あまりにも場違いな雰囲気に、はじめは魔女かと驚いていた。だけれど、その正体がファビオラだと気付いたとき、私はもっともっと驚いた。羽虫の一匹にすら悲鳴を上げそうな雰囲気の彼女が、まさか、こんな鬱蒼とした森の奥にいるなんて!

 思いもしない場所でファビオラを見かけたうえに、ここには誰もいない……。その日の私は、いつもよりも多く貰えた遊び時間のおかげで、すっかり気分が高揚していた。私は彼女の秘密を暴いてやろうと、そのあとを追いかけることにした。


 彼女は、生い茂る枝葉が髪に触れても、そこにある蜘蛛の巣が頬にかかっても、戸惑うことなく森を奥へ歩いて行った。今まで見たことがない、力強ささえ感じるその雰囲気に、はじめはファビオラそっくりの別人ではないかとさえ疑った。だけれど、風下に流れてくる胸をどきどきさせるあの香りが、間違いなく本人であると私を信じさせた。

 そして、彼女は森の中を流れる小川にやってきて足を止めた。

 森の中に、こんなきれいな小川が流れているなんて、何度も森の中で遊んでいた私ですら知らなかった。

 ファビオラは小川のふちにかがむと、どうやら小川の中を覗き込んでいるらしく、そこからしばらく動かなくなってしまった。

 何をしているのだろう。私もしばらくその様子をじっと我慢して見ていた。

 だけれど、とうとう我慢できなくなり、いっそのこと驚かしてやろうと思い至った。私はそっと藪から抜け出すと、忍び足でファビオラのそばまでやってきて、ひとつ大声でも上げて驚かそうとして身構えたときだった。

 ファビオラが、私に気づいてしまい振り向いてきた。


「きゃあ!」


 ファビオラは悲鳴を上げると、そのまま足を滑らして、おしりから小川に落ちてしまった。小川は浅かったので、ファビオラは座り込むような形で全身ずぶぬれになってしまった。

 呆気に取られたファビオラと、目が合った。

 しまった。私は内心戸惑った。ここまでやるつもりはなかった。村長さんやお母さんに知られたら大変なことになってしまう。叱られてしまうかもしれない。

 するとファビオラは、


「――ああ、びっくりした! もう、こんなところで人に会うなんて思わなかったわ」


 おでこにひっついた濡れた前髪を鬱陶しそうに払いのけた。

 私は罪悪感からファビオラに手を差し伸べた。

 ファビオラは私の手を取ろうとした。


「あら、手伝ってくれるのね。ありがとう」


 そのとき、ファビオラはにやっと笑うと、


「えいっ」


 私の手を思いっきり引っ張った。私は情けない声を上げながら前のめりで小川の中に落ちてしまった。激しく水しぶきを上げて、口やら鼻やらに水が入って、息も絶え絶えになりながら私が顔を上げると、しぶきを受けてさっきよりもびしょぬれになったファビオラとすぐそばで目が合った。その顔がなんだかおかしくて、きっと私の顔のほうがもっとおかしなことになっていたのだろうけれども、私とファビオラはこらえきれず大笑いをした。



 笑っている彼女を、初めて見た。



 このあと、ふたりでびしょぬれになった上着を日向で干しているあいだ、河原に座ってお話をした。夏の日差しは、びしょぬれになった体にはとても暖かで心地よかった。まさかこんな場所でファビオラと、ましてや肌着姿で並んで座ることになるなんて思いもしなかった。


「それを言うなら私もよ。こんな場所に私以外の誰かがいるなんて思いもしなかったわ。水面にあなたの影が映ったとき、熊が出たと思って心臓が止まるかと思ったのよ。あーあ、怖かった」


 ファビオラは驚いたり、むくれたり、笑ったりしながらたくさん話した。ファビオラがこんなにおしゃべりだなんて思いもしなかった。それどころか、彼女の声を聞いたのもこれが初めてだったかもしれない。そう思うと途端に胸がどきどきしてきた。

 そういえば、私のことは知っているのだろうか。私は突然不安になって、改めて自己紹介しようとした。そうしたら、


「もちろん知っているわよ。村でたった一人の同い年じゃない」


 ファビオラはそういった。私は無性にうれしくなった。


「それともナニ? あなたってば、私がそんなことも知らないような冷たい人間だと思った? ひどいことを思うのね。私、なんだか悲しくなっちゃったわ」


 ファビオラが続けてそういうものだから、私はどう言い訳しようかと慌てふためいていると、彼女はぺろっと舌を出してみせて、悪戯っぽく笑った。


「ふふ、冗談。わかってるわ。仕方ないものね。だって、村だとおじいさまが口うるさいんだもの」


 そういうと、ファビオラは膝を抱え、どこか寂しそうな顔をした。悲しげな目が、また彼女がどこか遠くに行ってしまう気がして、私は胸が締め付けられるようだった。

 すると彼女はふっとこちらを見ると、先ほどまでの満面の笑みで、こう聞いてきた。


「ねえ、あなたはここで何をしていたの? ただ通りかかっただけじゃないんでしょ? ねえねえ、何をしていたの?」


 私は内心うろたえてしまった。虫を捕まえて遊んでいたなどと言って、ファビオラに気持ち悪がられやしないだろうか。せっかく仲良くなるきっかけができそうだったのに、また遠くになってしまうのは嫌だった。それでも、先ほどの悲しそうなファビオラの顔は見たくなかったので、私は思い切って遊んでいた内容を正直に話してみた。

 すると、


「まあすごい! あなたも生き物が好きなのね!」


 ファビオラはぱぁっと笑顔になり、私の手を取って喜び出した。腕が取れてしまうのではないかと思うくらいに振り回すものだから、呆気に取られてしまった。それに、私の手は日々の農作業やさっきまでの土遊びで、爪の中まで土だらけなのだ。ファビオラのお人形のような綺麗な手に握られている……それだけで、なんだか恥ずかしさやらこそばゆさを感じてしまった。


「ねえ、こっちにきて。これを見て」


ファビオラは立ち上がると、小川沿いに歩き出し、少し行った先でかがむと小川の中を指さした。私も習ってのぞき込むと、そこには小魚の群れがいた。私は驚いた。近くの大きな川に魚がいるのは知っていたが、まさかこんな小さな小川にも魚がいるなんて知りもしなかった。


「このお魚はね、夏が終わる前に海へ行くのよ。あの本流の川に行って、そこから海へ行くの。そして何年かして、大人になって、またこの川へ戻ってくるの」


 ファビオラはまるで自慢話をするかのように話し始めた。私は、誰か大人の人から聞いたのかと尋ねた。


「いいえ。去年の夏に、海の入口へ行ったらこの子たちがいたのよ。その年の春には、ここからもう少し下流の方でこの子たちの親を見たわ」


 私はまたもや驚いた。海へは子供の足でもどうにか行ける距離ではあるが、子供だけでは絶対に行ってはいけないと大人たちから教えられていたからだ。


「そんなの、大人が勝手に決めたことだわ。決まりは守らなきゃいけないけれど、知られなきゃいいのよ。だって、迷惑をかけたわけでもないんだから。迷惑をかけてしまうのなら、素直に謝っていうことを聞くわ」


 そういい、ファビオラはいたずらっぽく笑った。確かに、この森だって、子供だけで入ってはいけないと教えられているが、現に私も彼女もここにいる。私とファビオラの共通点がここにあった。


「ねえ、見てて」


 ファビオラは、近くに生えている、穂先がぷっくりと膨れ上がった植物を掴むと、その細い腕でめいっぱい引っ張って、どうにか引き抜いた。その穂先を、まるで釣りをするかのように川の中に浸けた。小魚たちが、物珍しそうに穂先に近づいて、つついたり、食んだりしてみて、そして散っていった。


「この子たちは厳しい自然の中でも、自由なんだわ。素敵ね」


 ファビオラは懐かしそうな、羨ましそうな目で小川を見ていた。それがなんだか私の胸を締め付けるものだから見ていられなくなって、話題を変えようと思い、私は他にも面白いことを教えてほしい、とお願いしてみた。


「ホントに? 私のお話を聞いてくれるの? つまらなくない?」


 つまらないなんてことはない、むしろ大好きだと言った。思い切った言葉選びをしたと、言った後で思ったけれども、


「やったぁ! うれしい!」


 ファビオラは飛び跳ねたりくるりと回ったり、それから私に抱きついてきた。


「私たち、これでお友達ね! お友達よ! うれしいわ!」


 いつかの日と変わらないファビオラの香りに包まれながら、私も胸の中で彼女の言葉を何度も何度も繰り返した。

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