【第一話】記憶喪失 ③

「これから…………どうしようかね、ホントに」



一人になった部屋の中で、男はそう言ってゴロンとベッドに寝転がる。


会話一つでずいぶんエネルギーを消費したらしい。


脱力感が大いに体を蝕んでいる。


それに、今の状況を鑑みて、問題点の多さに辟易する気持ちもあった。


これだけ多いと、逆にどうでもよくなってくる。


特に記憶喪失だ。


一番問題のはずなのに、一番どうでもよく感じていた。


何故だかは分からないが、そんなに悲観した気持ちにはどうしてもなれない。


自分の名前も生まれた場所も知り合いも何もかも思い出せなくなっているというのに、どこか他人事のように感じてしまう。


もしかしたら、記憶の中に思い出したくないことでもあるのかもしれなかった。


この危機感の無さは、まるで心が無意識のうちに思い出すことを拒否しているかのようだ。


自分のことなのに、自分で何も分からない。



「…………何なんだろうな…………ホントに」



つい、言葉が出る。


そして、


その過程の中で、男はこの世界のことすらも何も知らないことに気付いた。


自分の思い出だけじゃない。


首脳の名前や文化遺産、制度や仕組みなど、思い出さなくても誰でも知っているような、いわゆる"常識"と呼ばれる知識すら存在していなかった。


掻い摘むと、この世界そのものに関する記憶が全くと言って良いほど存在しない。


ほぼ白紙に近い状態だ。


残っているのは言葉の概念くらいーー。


他にも、有名な事柄や歴史、作法なんかも、綺麗さっぱり何も頭に残っていない。


記憶喪失とはもしかしたら元々そういうものなのかもしれないが、そこに対しては、やけに気持ちの悪い感じがした。



「ねぇ、そういえばさ…………。君の名前、どうしようか」



と、その時……


ドアの向こう側から声だけが聞こえてきた。


誰かなんて考えなくても分かるが、あの少女の声だ。


トレイと皿を片付け終えたのだろう。


少女はドアを開けると、部屋に入ってくる。



「言われてもな…………さっきも言ったが、思い出せない」


「私もさっき聞いたけど、とりあえずの名称って欲しいじゃない?いつまでも『君』じゃ呼びにくいよ」


「と…………言われてもなぁ…………」



男はそう言って腕を組んだ。


分からないものは、分からない。


知りたいのはむしろ、男の方なのだ。



「何にも思いつかないの?ほら、何かキーワードとか。その服とかには何か書いてないの?」



そう言われて、男はハッとなった。


確かに、この服自体は盲点だった。


襟の内側ーー。


パッと広げると、そこには文字が書いてあった。


刺繍で描かれた漢字。


それを、男と少女の二人で覗き込む。



「見たことない字だね…………。他の国の言葉かな…………?」



少女の感想はそれだった。


どうやら、この『漢字』自体、この国にはそれほど広まっていないらしい。


だが、


男には不思議と分かった。


この『漢字』が何なのか、読み方が。


男はそれを、ポツリと口から出してみる。



「『三谷』…………」


「読めるのッ!?」



少女の声が最後に響いた。


自分でも何故読めたのかは分からない。


特に意識することもなく、自然と読めた。


これがいわゆる『知っている』…………ということなのだろう。


よく分からないが、久しぶりの感触に、男は頬をゆるめた。



「三谷…………か。…………どっかで聞いたような気がするんだけど…………。名前…………かな?」


「あぁ。名字だ」


「名字?…………なんかよく分かんないけど、とりあえず名前なんだね?じゃあ、ひとまずの君の名前は決まったわけだ。『三谷』ね。他には何も思い出せないの?」



そう言われて、男はまたしても低く唸った。


服にはこれ以上のことは書いていない。


三谷の二文字だけだ。


しかし、


少女がその名を呼んだ時、男の頭の中で何か再生される声があった。


遠い昔、この声に、この声音で、こう呼ばれていた気がする。



ーー恭司。


ーーーー恭司。



優しい声。


親しみと、愛情のこもった、女性の声。


覚えがある。


覚えがーー。



「…………『恭司』」


「『恭司』…………?それも名前なの?」



問いかける少女ーー。


男は自然と、その少女の顔を見やった。


ーーーー呼ばれていた。


間違いなく、呼ばれていた気がする。


記憶はない。


何も思い出してなどいない。


でも声が、声が再生される。


少女の顔を見た時、さっき再生された声が男の脳内で何度も優しく囁きかけたのだ。


何度も、何度もーー。


愛情のこもった、親しみを感じさせる女性の声で、男の心に何度も響いた。


男は目を瞑り、静かに頷く。



「あぁ…………。間違いない。俺の名前は、『三谷恭司』だ」



男は、恭司は、何故だかとても柔らかい表情で、自信を持ってそう言った。


何も知らない。


何も分かってなどいない。


でも確信できた。


記憶もないし何も分からないのに、恭司は『三谷恭司』であると、そう確信できたのだ。



「ふぅん、三谷恭司君か…………。なんかこれも…………どっかで聞いたような…………」



少女は少しだけ顔を曇らせた。


何か思い当たる節があったらしい。


だが、


少女はすぐにパッと明るくなり、



「まぁ、いいや。とりあえず良かったね。思い出せて。てか、名前の響き的に『三谷』より『恭司』の方がいいね。やっぱり『恭司』って呼ぶよ」



と言った。


男…………恭司の感慨深さに対し、少女の方にそこまでの何かは無かったらしい。


何も知らない他人なのだから当たり前だが、恭司は何とも言えない寂しさも感じた。


しかしそれは気取らせず、再び頷く。



「まぁ…………そこについてはどっちでもいいさ。些細な話だ。ちなみに、そっちの名前は何ていうんだ?」



恭司は意識して落ち着いた声音で問い返した。


自分の名前も重要だが、少女の名前も勿論重要だ。


これまでもお世話になっており、これからもお世話になる身としては、その情報は知らずにはおけない。


だが、


恭司から尋ねられたそれに対し、少女は明らかに、問答無用に嫌そうな顔をした。


そもそも会話の流れとしても自然だったように思うが、恭司にとってはそうでも、少女にとっては予想外で、聞かれたくない質問だったらしい。


その表情は、非常に分かりやすく気まずそうにしていた。

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