【第一章】三谷恭司
【第一話】記憶喪失 ①
「うっ…………」
朝、目を覚ますと、男はベッドの上だった。
仰向けで寝ている状態で、その上には丁寧に布団がかけられている。
どれだけの時間かは分からないが、どうやら男はこのベッドで寝かされていたらしかった。
体に目を向けてみると、汗が全身の至る所にこびり付き、服にベッタリと張り付いている。
考えてみれば息も熱いし、悪寒も感じる。
体調の方は、残念なことに、お世辞にも良いとは言えなさそうだ。
おそらくは38か39ほどの熱を出している。
少しでも動こうとすれば凄まじい倦怠感がのしかかり、手足に力はまるで入らない。
無理をすれば多少は動かせるだろうが、それにはとても大きな体力を必要としそうだった。
男は熱い吐息をフゥと吐き出す。
「何が…………どうなってんだ」
見た所、特に拘束などは受けていないようだが、しばらくの間は激しい運動はできそうにはなかった。
外傷は見当たらないからしんどくても一応歩き回るくらいのことは出来るだろうが、不自由な感覚は避けられないだろう。
まるで緩めの金縛にあったかのようだ。
意識だけは不思議と鮮明としているが、体は脳の言うことをまるで聞きやしない。
それだけ、今は回復が追い付いていない状態ということだろう。
もしかしたら、自分はこの状態になるまでに何かとてもエネルギーを損傷させるような事態に陥り、その状態から寝て起きたから、こうなっているのかもしれない。
男はそう思った。
「大体…………どこなんだ、ここは」
男は呟くと、無理をして首を左右に振ってみた。
自分の体の状態の次は、自分の置かれた状況だ。
ひとまず部屋を見渡し、観察してここがどこなのかを考えてみる。
しかし、
そこは男にとって明らかに見覚えのなさ過ぎる部屋だった。
一切の何の覚えもなかった。
ここに至るまでの記憶もない。
おそらくは他人の部屋なのであろうことは察しがつくが、肝心の誰の部屋なのかは全く分からずにいた。
その部屋の中には特に何も特筆すべきものがなく、無個性に尽きるものだったのだ。
隅っこに男のいるベッドが設置されている以外は、机と椅子と少しの本棚くらいしかなく、生活感は皆無だと言っていい。
本棚の中には何の本も入っていないし、その上や机や椅子にはホコリが溜まっている。
おそらくはずいぶん長い間使われていなかったのだろうと、そんな推測が立った。
知ってる人間が運んでくれた…………というわけでもなさそうだ。
「…………というか、そもそも俺の知り合いって誰がいたっけ?」
と、そこで、
男は自分の知り合いを一人も思い出せないことに気が付いた。
記憶をいくら掘り起こそうとしても、親も友達も彼女も知り合いも他人も敵も味方も誰も思い出せない。
自分の本来の家すら…………記憶の中に存在していない。
とても奇妙だった。
なら自分は誰なのか…………?と、そんな疑問すら出てきた。
もはや何も知らないのだから、現状を把握しようもない。
男は途方に暮れる。
体も動かせない上に思考まで定まらないとなれば、もう打つ手が無かった。
どうしようもないと、何の考えも無しにしばらくボーッとする。
もうどうとでもなれという感じがしていた。
体調不良の中で未知の場所に放り込まれ、その上記憶まであやふやなのだ。
これだけ悪条件が揃ってしまえば、頭を抱えたくなるのも無理はない。
今は、どうしても思考が全く捗りそうになかった。
もうしばらくの間は、何もせず何も考えずこうしていたいーー。
そう思っていた。
しかし、
男がそんなことを思っていた矢先ーー。
そんな男の耳に、トントントントンと軽快な足音が聞こえてきた。
おそらくは、階段を駆け上がってくる音だ。
男は思わず緊張に表情を強張らせ、警戒心が目を覚ます。
だが、
その足音の主は男の思いなど素知らぬ歩みで、この部屋の前まで近づいてきた。
男は生唾を飲み込む。
すると、
この部屋唯一の扉が、ノックも声かけも無しに、いきなり開かれた。
「あっ、起きたんだ」
部屋に入ってきたのは一人の女の子だった。
大きな目をした可愛い子だ。
男は初対面のその少女に誰だ…………?という視線をぶつけたが、少女はそれに何も応えることなく、椅子の上に積もったホコリをパッパッと払いのける。
男は訝しんだ目でその光景を見つめていたが、少女は一切気にかけることなく、結局そのままホコリを払い終えた椅子に颯爽と腰掛けた。
「で、君さ。一体何なのよ。あの時、気が付いたと思ったらまた気を失っちゃうんだもん。ビックリしたよ。とりあえず名前とか教えてよ。このままじゃ呼びにくくて仕方ないからさ」
椅子に座って早々、言ってきた言葉がそれだった。
少女は緊張感も警戒心も無さそうに言葉を紡ぎ、男はいきなりのことに反応が遅れる。
訳のわからないことばかりで頭は混乱する一方だったが、とにかく、自分を助けてくれたと思しき人間が話しかけてくれているのだ。
答えなければならない。
男は申し訳なさそうに言葉を返した。
「…………ゴメン。覚えてない」
「ふーん、そっか」
少女の反応は薄かった。
男は首を傾げるが、それに触れることなく女の子は先に進める。
「じゃあ、どこから来たとか、自分のことを知っている人のこととか覚えてる?」
「…………ゴメン。そっちの方も……あんまり…………」
「ふーん、やっぱりこれってそうなんだろうね。実際に見るのは初めてだけど」
少女はそう言って、顎に手を当ててフムフムと一人で頷いた。
男の頭の中はクエスチョンマークだらけだ。
いきなりの登場でいきなりの質問責めで、さらに高熱をおびるほど体調も悪い中で、思考が追い付くわけがない。
男は尋ねる。
「…………どういうことなんだ?俺に一体何が起こっている?」
男の声には焦りが含まれていた。
何か、自分の体にとんでもないことが起こっている。
そう思わざるを得ないほど、今の状況には不可解な点が多すぎていた。
「んー、多分だけど、記憶喪失…………って奴かな?なんか自分のこと全然覚えてなさそうな感じだし」
少女は男の様子を知ってか知らずか、相変わらずのあっけらかんとした態度でそう話した。
ずいぶん軽い態度だったが、男にとっては軽く流せる話でもない。
男の目は驚きのあまり大きく見開き、言葉がすぐには出てこない様子だった。
自分の身に何か起こっているとは感じていたものの、他人の口から聞いたそれは、間違いなく緊急事態に相違なかった。
どうりで何も思い出せないわけだ。
少女の言葉の根拠は聞いていないものの、自分に体感する手ごたえがある以上、否定しようもない。
だが、
男がそれに何か思う暇もなく、少女は再び口を開いた。
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