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渡貫とゐち
第1話
「――ヨウコ、足下に気を付けな」
深い深い穴へ足を踏み入れた小柄な日本人女性に声をかけたのは、細いながらも筋肉質な体を持つ黒人女性だった。
彼女の名はマーシャ。
冒険家である。
猛毒を持っていそうな生物に似たドレッドヘアのマーシャが心配する日本人女性は、実は年上で――
一児の母だった。
とてもそうには思えないほど若く見えるのは、日本人だからだろう……彼女が童顔という要素も多分に含まれてはいるだろうけど。
「もー、マーシャは心配性ねえ……これでもあなたくらいには経験豊富な冒険家であり研究者なのだから、問題ないわよー。一体どれだけ各地で遺跡を調べてきたと思ってるのかしらねえ」
「そうかよ。そう言って前回、足を滑らせて滝つぼに沈んだのは誰だったか……はて、教えてくれるか、ヨウコ?」
「陰湿ねえ、マーシャ?」
作業着の上に白衣という独特なファッションセンスを見せる母親だ。黒髪は手入れをする暇もなく、砂埃や汗でボサボサだ。息子には見せられない母親のだらしない姿である。
さすがに授業参観や面談などではお手入れするが、近所のスーパーに買い物へいくならこんな感じでボサボサである。……息子に見せられない? 今更の話である。
「陰湿なのはどっちだ、ヨウコ」
「じゃあ性格が悪いわねえ、マーシャ?」
「同じことだろ。陰湿なのはアンタじゃないか……アタシの荷物に毎日毎日イタズラするしさ……アンタ、人の親だろ、んなことばっかりしてると息子に嫌われるぞ?」
「きらわれる……はんこーき……いやん、でもそれもまたいいわねー」
想像してゾクゾクし、全身を震わせるヨウコ。
そんな一児の母を見てマーシャが呆れる。彼女らしい、大きく肩をすくめたリアクションだった。……ヨウコを前にして、なんど肩をすくめたか覚えていなかった。
「本当に嫌われてしまえばいいんだ、このガキおとなめ」
…
…
「マーシャ、薄暗い。ライト付きヘルメットちょーだい」
「へいへい」
深い深い穴へさらに足を踏み入れる。先行するのはヨウコだ。
後ろから、ライト付きヘルメットが投げられた――
「あっ、とっ、とっ……投げないでよもう!」
「落とすなバカ」
「バカってだってマーシャが! ……え、マーシャ、光が…………下、かなり深いわね」
しばらくして、かーん、という落下音も聞こえてくる。
かなり深くへ落下したが、光は僅かに届いている。これはライトの光量が多いことを踏まえ、遺跡の地下が相当に深いのだということが分かる。
「深そうだな……ひとりだと危険じゃないか?」
「大丈夫よ。それに幸いにも光は届いているもの、安全とは言えないけど危険もないんじゃないかしら」
「…………命綱を付けよう。なにかあってからだと遅いんだからな。アンタになにかあったら息子のヨートに顔向けできないんだよ」
「心配性なマーシャね。ええ、分かったわ。私も命綱くらいは――きゃっ!?」
「ヨウコ!?」
重心を乗せていた足場が崩れた。
たったひとつの小さな崩壊だけで、ヨウコの全身が持っていかれる。
咄嗟に手を伸ばすも、同じく手を伸ばしていたマーシャの指先に触れても、そこから握ることはできず、重力に引っ張られたヨウコは深い深い、穴の底へ――――
落ちていく。
…
…
「いっ、たたた……腰を強く打ったわね……、立てないほどじゃない……うん、だいじょぶ……」
腰を押さえながら立ち上がる。
周囲を見回す必要もなく、光源はすぐ近くにあった。ヘルメットのライトだ。
ヨウコはヘルメットを被り、目線の先を照らす。上を向き、穴の出口へ向かって、
「マーシャーーーー!! 聞こえるーーーー!?」
叫んだ後、ぜえはあと息が切れる。
落下したことの疲労か、それとも老いか……前者であってほしいと願うヨウコだ。
「返事は…………ないか。ダメね、届かないみたい。それだけ深いか……うーん、さすがに手でよじ登るのは無理そうね……とすると、迂回するしかないか――」
上へ向かえば最短でマーシャの元へ辿り着けるが、それが不可能となると別案を用意するしかない。
迂回……と言っても真っ直ぐの道を大回りするのとは訳が違う。上へいけばいいところを迂回するとなると、螺旋か、もしくはなだらかな坂を見つけて長い距離を歩くしかない。
上がるよりも倍以上の時間がかかるだろう。
危険も増えていく。できればしたくない手段だが……他に方法もなかった。
「猛毒を持った生物と出会わないといいけれどね」
光を頼りに前進する。
壁に手をつくと、「え?」と指先が違和感を取った。
「ん……ぬるぬる……ふむ、皮膚がただれたわ。なにかしらこれ……毒……? ともかく、小瓶に入れてあとで検査してみましょうか――……それと、これは……?」
数歩引いて、光源を全体に当たるように調整する。
壁、だが、掘られているのか?
これは――
「壁画、ね」
…
…
女王らしき人物が大仰な椅子に座っていた。
彼女の足下で頭を下げているのは国民だろうか。
「……ふふ、これよこれ――これが冒険家のロマンじゃないの……っ! 研究者として研究室に引きこもらず現場に出て冒険をするのはこういうワクワク感をいつまでも体感したいからなのよ……っ。私は老いても足は止めないわよー!!」
夢がある。
大人だって、女性だって、夢を目指してもいいではないか。
もちろん、母親であろうとも。……ただし、その裏で家族が泣いている可能性があることを想像しなければいけないが。
ヨウコが壁画を端から端まで観察する。
「さてさて、思う存分に検分をしましょうかね――」
「おい、そこの。なにをしておる」
暗闇の中に潜む薄い人影。
ライトで照らすと、見えたのは小さな少女……?
少なくとも、声は少女のものだった。
「……怪しい者ではございませんよー、ただの冒険家……かつ、研究者です」
「それは怪しい者だろ。余の目は誤魔化せん……研究だろうと余からすれば貴様は盗人と同じことだ。よその国の文明を見て情報を持ち帰る、これが窃盗でなければなんと言う?」
「人類の進化のため、必要なことではないですか? 窃盗ではありません、必要経費でしょう」
「よくわからんが、しかしその言い方は適切ではなさそうだが?」
ヨウコが敬語なのは、相手が少女ではないと感じたから――ではない。
目の前の少女と、壁画で描かれていた女王の姿が、そっくりだったからだ。……古代の絵、らしき絵柄なので身の丈は分からないが、服装は同じに見える。
肩までの黒髪、そして褐色の肌。
服は着ておらず、ルビーやらサファイアやらの宝石類で大事なところを隠している危なっかしい格好だ。そして全身には艶がある……まるでオイルでも塗りたくっているように、だ。
少女がコスプレをしている、とは言いづらい。
壁画の中の世界観から彼女が出てきた、と解釈した方が真実に近いだろう……それに、ロマンがある。そっちの方が面白いじゃん、とヨウコは考えたのだ。
そのため、相手が女王ならば敬語であるべきだと判断した。
……女王だとすれば、さすが女王と言うべき容姿だった。
同じ女性から見ても、年下に見えても綺麗だと感じられる。彼女の見た目の年齢を推測すれば、十五、六にしか見えなかったが……、ヨウコの息子と同じくらいである。
「本当に怪しい者ではないのよ、信じてほしいわ」
「なら、その身ぐるみを剥いで証明するしかないだろうな……」
「それは嫌ね。こんな場所で素肌を見せるなんて……自殺行為だわ」
「余の格好を見た上でそれを言えるか? ……好きでしている格好ではあるが……」
じゃらじゃらと宝石同士がぶつかり合って音を鳴らす。
歩けば主張する、一切のプライバシーのない服だ。服なのか? 大事なところこそ隠せているが、大半は隠せていない欠陥衣類にしか見えなかったが。
「似合ってるわよ? ぴっちぴちのお肌ね!」
「ガキ扱いをするでないぞ。余はこの大国の、王なのだぞ!!」
「王? やっぱり……じゃあ、ここはなんと呼ばれた国なのかしら」
「知らんのか? なら教えてやろう――」
教えたそうにそわそわしている女王を、微笑ましく見るヨウコだった。
「知らないので教えてくれるとうれしーでーすっ」
「そうかそうか……なら教えてやろうかのう。余が治める国はムー。ムーの大国だ。そして余こそが、そのムーの大国の王である、ムーである!!」
むんっ、と胸を張った女王……あらため、ムーだった。
「…………ムー……大国? 大陸ではなくて?」
…つづく
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