第11話 緑なす 梢のむこうに・3
なんなんだ、いったい。
そら魔物があっちへ行った、やれ誰かが殴られたと騎士見習いたちが慌ただしく駆け回る中、レオは深く青い双眸に疑問の色を浮かべる。
視線の先で、剣を手に魔物と対峙しているのはエクセターのギルバート、温暖なデュフレーヌからははるか遠い北の地から来た男だ。
さほど気負ったふうもないというのに、実際向き合えば彼のわざがいかに苛烈であることか。修練のたびに砂埃を噛みしめるレオにしてみれば、仲間の少年たちが騎士の戦いぶりに見入るさまに、間抜け面を並べている場合かと言いたくなってくる。
ただ、いつもと違うのは、堅物男の機嫌がさながら雷鳴を轟かせる雲ということか。
どうも姿を見かけないと思っていたら、黒髪の騎士は低木をかき分け見習いたちが愉快な騒ぎを繰り広げる場に戻ってきた。鎖かたびらやサーコートのあちこちを枝に引っかけて、何やら散々といったあるじの様子にまずヴァルターが首をかしげた。
「うっかり柊の茂みに突っ込んだ、狼みたいな顔をされているけれど」
「いつものことだろ」
にこにこしている方が世の終わりだと言わんばかりのわがまま侯子を、あるじ思いの少年は煙水晶を思わせる褐色のまなざしで睨みつけた。
「空っぽ瓜が、絹の服を着て歩いているようなおまえが言うことか」
後先考えずに、魔物たちの住処に煙玉をばらまいたことをあてこすられて、レオは形のよい眉をつり上げる。
「ふん。狐に追われる鵞鳥みたいにわめいていたくせに」
飛び出してきた魔物の多さに、悲鳴を上げて槍を振り回していたことをからかわれたヴァルターがうなる。周りの制止をよそに、ふたりが今日で三度目のつかみ合いを始めようとしたとき、
「たとえはうまいが、少し違っているな。ヴァルター」
聞き慣れた声に少年たちが振り返れば、これまたどこに行っていたのか、琥珀の騎士が涼やかな笑みを浮かべている。彼の後ろを、いや惜しかったなと至極残念そうに歩いてくるのは砦の騎士たちだ。
「どういう意味ですか、リシャールさま」
「あれはさしずめ、情知らずの娘によろめいた男とでも言っておくべきだな」
少しばかり気の毒そうに、けれどもどこか面白そうな口調で答えたリシャールに、大きくうなずいてみせたのはサイモンだ。
「涙に潤む瞳にふらりと来て、思わず抱きしめてみれば固い樹の幹ときたもんだ」
あの様子だと、どうやら妖精ちゃんにも逃げられたらしいなと笑った西の騎士に、何を言ってやがると<狼>たちから呆れた声が飛ぶ。
「おぬしが枝なんぞ踏まなければ、やさしき乙女のままだったろうさ」
「甘い口づけの夢も露と消え、哀れな男がひとり森にありというわけだ」
こりゃ恨まれるぞと笑い崩れる男たちに、痛み分けだろうがとサイモンはふてくされる。
「俺があの薬湯なんぞあおるはめになったのは、ギルバートが余計なことを言ったせいだからな」
若く美しい王妃と騎士との悲恋にも登場する、由緒正しき惚れ薬―その実は、誰がどう見ても生命の危険を感じるような代物―を長老たちに飲まされたお調子者は苦い顔をする。
気っ風の良い小町娘と誓い合っておきながら、他の娘にも気軽に声をかけまくっては思い人の怒りを買ってばかりいる、ウォリック卿の行いこそが問題だろうにとレオとしては突っ込みたい。だが、花畑の向こうで親父とお袋が仲良く手を振っていやがったとぼやくサイモンの表情に、あれを口にしなくて正解だったらしいとひそかに安堵する。
「だいいちディブラン、おぬしも俺の背を押しただろうが。もっとよく見せろとか何とか」
「あれはクロードだ、俺じゃない」
「いや、おぬしは俺の足を踏んだだろう。サイモンを押したのはケネスだ」
珍妙なやりとりを始めた大人たちと、ぽかんとする仲間たちをよそに、レオはくだらないとばかりに肩をすくめた。
人目につかぬのをいいことに、なけなしの勇気を奮い起こそうとしたものの。思わぬ伏兵というか野次馬に感づいてしまったのが運のつき。エクセター卿の不機嫌はそれが原因かと察したものの、あのまま消えていてもよかったのになという誰かの言葉にレオはぎょっとする。
砦で暮らすようになって、もうすぐ一年が経つ。詰所や修練場で、男たちが飛ばす率直かつ遠慮のない冗談―とねりこ舘の祖母ならば、決して耳にさせはしなかったであろう類のもの―にもずいぶん慣れたつもりだったのに。
考えすぎだと自らに言い聞かせながらも、甘い緑をまなざしにたたえた娘が誰かの腕にあるさまを思い浮かべただけで、苛立ちにも似たものが胸の裡にわき起こる。ましてやその誰かとやらが、どこぞの無愛想だと思えばなおさらに。
「ダウフトはどうしたんだ」
辺りを見回しても、かわいらしい籠を手にした娘の姿は見あたらない。側づきのくせに何をしているんだと呟いたわがまま侯子に、案ずるなとリシャールが笑う。
「ダウフト殿なら、レネ殿と一緒だ」
剣と爪、槍と牙の応酬がつづく場から離れたところで、ふたり一緒にジェムベリーを摘みながら、楽しそうに笑いさざめいているのだとか。
「志が高いのは結構だが、その前に小さな戦乙女のお許しを得るほうが先じゃないのか?」
「どうしてそれを」
驚くレオに、いや偶然聞こえてしまってなとリシャールは涼しい顔をする。
<帰らずの森>へ騎士たちが赴くことを知ったアネットが、連れて行ってとレオにせがんだのは昨日のこと。遊びに行くわけじゃないぞと諭そうとしたものの、だだをこねる幼子が聞き入れるはずもなく――つい、きつい言葉で叱ってしまったのだ。
気づいたときには後の祭り。大きな水色の瞳に涙を浮かべたアネットが、兄ちゃんのばかと叫んで駆け出していくところだった。
「足手まといだなどと申されたとは。それではあの子が臍を曲げるのも道理というもの」
ダウフトさまに初めてお目もじつかまつった時といい、若さまはご婦人への気遣いという、黄金のとねりこを継ぐ身にふさわしきおふるまいを学ばれる必要がございますなと爺やにはこってり叱られた。アネットの遊び友達であるハリーまでもが、すれ違いざまに思いきり舌を出して逃げていった時には、どうして自分ばかりがこんな目に遭うのかと理不尽な思いになったものだ。
出立の際、婦人たちに促され見送りに出てきたものの、自分を見るなりそっぽを向いた幼子の顔を思い出し、エクセター卿の言うことは素直に聞くくせにと少しばかり腹立たしくなる。
とはいえ、黒髪の騎士がアネットのお願いに付き合わされるとき、子供の戯言と話半分に切り捨てたり、聞き分けのなさに声を荒げるところなど見たことがない。そうしたところを省みても、聖剣の力を解き放ったダウフトを支えることはおろか、幼子の手すらまともに引いてやれぬ自分の及ばなさが情けなくなってくる。
「まあ、言ってしまったことは仕方がなかろう」
おぬしらしくもない顔をするなと、リシャールはレオの肩を軽く叩く。
「心から詫びたいと思っているならば、何か贈り物でも見つけたらどうだ?」
どうするかは任せるぞと笑うと、リシャールは持ち場へ戻る<狼>たちとは違う方向へと歩みを進めていく。どちらへとたずねたヴァルターに、乙女たちの御許だとわかりやすい答えが返ってきた。
「どこぞのかぼちゃが、頭を冷やすまでの間だ。お二人を放っておくわけにはいかんだろう」
「ダウフトはともかく、じゃじゃ馬の心配なんか」
ちゃちな小鬼ていど、勇ましい娘の鼻息に吹き飛ばされそうなものだ。あんな奴に守りなんているもんかと応じたレオに、
「そう言っているうちはまだまだだぞ、坊や」
さらりと禁句を口にして、琥珀の騎士は半刻ほどこの場へ待機しているようにとヴァルターや他の少年たちに命じていく。だから坊やじゃないと憤慨するレオを、俺も十四の時はそう思っていたさと手を振って受け流す。
「言っておくが、当分ギルバートには近づくなよ。うっかり情知らずの娘がどうとか口にしようものなら、答える代わりに魔物の群れに蹴りこんでくれるだろうからな」
腕を上げるにはちょうどいいだろうがと、飄々とした態度で去っていくリシャールを見送って、さすがだなあと騎士見習いたちはうなずきあう。
「あの中庭で、堂々とご婦人を口説くだけのことはあるや」
「誰かなんて、まるで相手になっちゃいないというか」
冷めた視線を向けてくる仲間たちに、やかましいと言い返す。そうやってむきになるところが子供だろというヴァルターの呟きを聞かなかったことにして、とねりこの侯子はおまえたち悔しくないのかと訴えかけた。
「黙って聞いていれば、坊やだの子犬だのひよこだのと言いたい放題」
これを屈辱と言わずして何と言おうとばかりに拳を握りしめるレオだったが、
「いや、だって事実だし」
「そりゃ腹も立つけど、騎士団長とか副団長に言われたらうなずくしかないよな」
「俺たちがおむつをしていた頃には、アーケヴにその人ありと言われていたくらいだし」
どこまでものんびりとした仲間たちに、おまえたちには誇りというものがないのかとレオは煮えくりかえるような顔をする。埃だらけの誰かさんなら知ってるけどな、というヴァルターの突っ込みはこの際無視することにした。
「決めた」
鋼玉の双眸に決意をみなぎらせ、レオは森の木々へと向き直った。また何かろくでもないことを思いついたらしいぞ、と囁きあう仲間たちをひと睨みで黙らせると、さながら攻城戦に臨む将のごとき態度で宣言する。
「アネットへのみやげを、ここで探すッ」
子供だなんて言わせるものかと息巻く若君に、まあがんばれよと気のない一言を残してそれぞれ持ち場へ戻ろうとした少年たちだったが、ちょっと待てと呼び止められて振り返る。
「女の子への贈り物って、何がいいんだ?」
尊大さのなかに、ちょっぴり当惑した表情をのぞかせたわがまま侯子に、騎士見習いたちはそろって唖然とすることになる。
◆ ◆ ◆
梢から梢を飛び回り、小鳥たちが愛らしい歌をさえずる昼下がり。低木の茂みを揺らしながら、まばゆい黄金と落ち着いた褐色と、ふたつの頭が滴る緑のなかを進んでいく。
「やっぱり、おまえといると、ろくなことがないや」
大樹の根に足を取られ転びかけたうえ、自慢の鼻をしたたかに幹にぶつけたせいもあったのか。不平たらたらのヴァルターに、いちいちうるさい奴だなとレオは振り返る。
「理屈を垂れる前に足を動かせ。エクセター卿にいつも言われているだろう」
「見境なく走り出す前に、頭を使えって言われているのは誰だよ」
だいたい、アネットを怒らせたのはおまえだろというヴァルターのぼやきをよそに、レオは顔にかかる小枝を手で払いのける。
未来のうるわしい戦乙女、その機嫌をいたく損ねた若君は、何とか彼女に謝ろうと<帰らずの森>でみやげを探すことにしたのだが。
ひとりじゃ大変だから誰か探すのを手伝えと、彼らしい助力を請うてきたレオに、騎士見習いたちが全員一致で推したのがリンゼイのヴァルターだった。
なんで俺がと猛烈に抗議した少年に、いやいつも一緒だから何となく、レオにずけずけとものを言うのはおまえくらいだしなと、仲間たちの返答たるやじつに思いやりにあふれたものばかり。
こんな奴、いやいや組まされているだけだと反論しようとしたヴァルターを、誰もいないよりはましだと判断したレオがついてこいと促した。
奇妙なもので、普段は思いつきだけで行動を起こす考えなしが、こういう時にはデュフレーヌに坐す老侯の跡継ぎとしての片鱗をのぞかせる。
ひとりでいい、おまえたちは戻れと命じたレオに、新参者の分際でたちまち頭角を表わしてきたわがまま侯子を快く思っていなかった一部の少年たちでさえ、つい従ってしまったほどだ。
俺は承知していないからなと、あくまでも抵抗を試みようとしたヴァルターだったが、有無を言わさず引きずられていき――こうして、そろって森をほっつき歩くはめになったというわけだ。
「だいいちおまえ、とねりこ舘に祖母上や叔母君がおられるじゃないか」
だったらご婦人が喜びそうなものなんて分かりそうなものなのにとごちるヴァルターに、レオは分かっていないなとばかりに呆れた目を向ける。
「アネットに、ごてごてしたものを贈ったって仕方ないだろう」
相棒の言わんとするところを察したか、そういえばそうかとヴァルターは恥ずかしそうに頭をかく。
美しい刺繍を施した豪華な衣装に、金銀や輝石をつらねた首飾りや指輪。薔薇やすみれのリキュールに、繊細かつ瀟洒な細工物の数々――貴婦人たちが当たり前のように手に取るものを、六つの幼子が喜ぶとは限らない。現に、ふわふわと風まかせなアネットの髪を梳いてやれるものをとレオが手紙に綴ったところ、孫君にたいそう甘いと評判の侯妃がさっそく送り届けてくれたものときたら、真珠や珊瑚をちりばめた黄金の櫛だったのだから。
そんなものよりも、森がもたらす豊かな恵みのほうがアネットには嬉しいはずだ。
木漏れ日の下、緑の草地に咲く色とりどりの花に、ままごとやおはじきに使えそうなめずらしい木の実、すばしっこく枝を走り抜けていく
小さな女の子が喜びそうなものとして、仲間たちがうちの妹あたりならと挙げてみせたものはあったけれど――こうなったらアネットばかりではなく、砦じゅうをびっくりさせるようなものを見つけてやるという意気込みとともに行く手を遮る枝をかき分て、正面に現れたものにレオは歓声を上げる。
「見ろ、まだ誰も来ていないらしいぞ」
もとは城の跡であったのか、苔や蔦に覆われ静かに朽ち果てようとしている石の壁を彩るように、緑のなかに輝くジェムベリーのつややかな紅がふたりの目を奪う。
「ジェムベリーのパイなんていいかもしれないな。ダウフトに頼んで作ってもらおうか」
レオの言葉に、バターの香りも豊かに焼き上がったこがね色の菓子を思い浮かべたらしく、しばし口元を緩めたヴァルターだったが、何かを思いだしたのか、甘い誘惑を振り切るように慌てて首を横に振った。
「おまえのしでかした失敗に、ダウフトさまを巻き込むなよ」
己のあるじが守りを務める娘は、月が巡れば<狼>たちと北東の魔物討伐に向かうことになっている。それを知るためか、生真面目な少年の言葉はやや辛辣だ。
「出撃に備えて、できる限りお身体を休めていただきたいところなんだ。おまえのわがままに付き合っている暇なんてあるもんか」
パイだったら料理長が作るさという相棒の指摘に、分かっていると少しふてくされながらレオは応じる。
砦の大食漢どもの胃袋をまかなう男の腕前は、洗練された品々を饗する舘の料理人たちに勝るとも劣らないのだが、のんきな村娘の手になる素朴な味わいも、若君が大いに気に入っているもののひとつだった。幼いころ、亡き母が作ってくれた料理にどこか似ているからかもしれない。
若奥さまともあろうお方がと周りに止められても、せめてひと皿だけでも召し上がっていただきたいのと、多忙をきわめていた父のために厨房に立ち続けた母の姿を、ダウフトが手にした鍋からふわりとたちのぼる匂いが思い出させる。
勧められるままに食したのち、見た目はじつに個性的だけれど、あなたの味だとすぐに分かるねと鋼玉の双眸を穏やかな幸福に満たしていた父と、それはどういう意味ですのとすねてみせながらも、側であたたかな料理を頬張っていたレオを見るや、まあ何て勇ましい食べ方かしらと微笑んで、頬や口元をナプキンでやさしくぬぐってくれた母。
ふたりがいなくなったのは、それからほどなくしてのことだったけれど。
「おい、レオ」
肩をつついてくるヴァルターの声に我に返る。
「何か、声がしないか」
あたりを見まわすヴァルターの表情は、早くも不安に彩られている。また臆病風を吹かせているのかと返そうとしたレオの耳にも、何やら動物のものらしい鳴き声が飛び込んできた。
「ま、魔物かな」
それもすごくでかいやつと、褐色の双眸で落ち着かなげにあたりを見まわす少年に、シェバの象じゃあるまいしとレオは呆れかえる。
剣も乗馬もそつなくこなすと評判の、騎士見習いいちの優等生。自分とともに、この春から<狼>たちの行軍に加わることを許されたくらいだ、相応の実力は持ち合わせているはずなのに。肝心かなめのところで度胸が足りないヴァルターに、少しはあるじの図太さを見習ったらどうだと返したくなってくる。
「どうせ兎か子鹿だろう、けものだったらすぐ分かるさ」
忌まわしき魔狼の赤くぎらつく双眸を思い出すまいとして、レオがあえて憎まれ口を叩こうとしたとき、すぐそばにある低木の茂みが揺れた。次いで聞こえた甲高い鳴き声は、助けを求めているような悲痛な響きさえ帯びている。
出た、と情けない声をあげかけたヴァルターを小突いて黙らせると、レオは万が一に備えておけと促しながら、足音をしのばせて茂みに近づいた。
「三つ数えたら、踏み込むぞ」
有無を言わさぬレオの口調に、さすがに怖がってばかりはいられないと察したヴァルターが、いやいや鞘から剣を引き抜いた。
「本当に、おまえが一緒だとろくなことにならないや」
「つべこべ言っている場合か」
一、と口にしたレオに、二、と消え入りそうなヴァルターの声が続く。
「三っ」
重なった声とともに、低木の枝を払いのけ――
◆ ◆ ◆
「まあ、かわいい」
「ぬいぐるみみたい」
たちまち上がった乙女たちの歓声に、やっぱり連れてきてよかったとレオは満足げに胸を張った。
「どうしたんですか、この子」
ダウフトの腕に抱かれて、嬉しそうに尻尾を振るのは一匹の子犬だった。
ふかふかと白くやわらかな毛並みは、ぴんと立った耳先や額や頬、背筋から尻尾にかけて所々にうっすらと銀鼠色を掃き、黄金をとろかしたような色合いの瞳がまるく無垢な輝きをたたえている。ほどよく肥った身体としっかりとした手足は、いずれりっぱな成犬になるであろうことを伺わせるが、まだ乳離れして間もないらしく、しきりにダウフトの匂いを嗅いだり、革手袋をかるく噛んだりしてはしゃいでいる。
「どこのお姫さまをさらってきたのよ、レオ」
わたくしにも抱かせてくださいと、ダウフトから子犬を受け取って、人なつっこく頬を舐めてくる様子に目を細めながら問うレネに、さらったなんて人聞きの悪いことを言うなとレオはふくれる。
「ベリーの茂みで、いじめられていたのを助けたんだぞ」
ヴァルターとともに茂みの向こうに踏み込んでみれば、怖ろしい魔物などどこへやら。小鬼たちに尻尾や耳を引っ張られ、鋭い爪や牙でいたぶられている子犬に出くわした。
ふたりの奇襲に不意をつかれ、驚いた小鬼のほとんどが逃げていったのだが、一匹だけが獲物を横取りされてなるものかとばかりに少年たちに飛びかかってきた。
まあ、いくら砂地に叩きのめされてばかりいようとも、普段から黒髪の騎士に鍛えられていたことがいちおう役には立ったのか。
惚れ惚れするような蹴りを顔面に受けた魔物が、覚えていろとばかりに恨みがましい声を上げて茂みの向こうに逃げていき、そら見たかと高笑いをしていたレオがふと足元にすり寄った感触に下を見れば、魔物のおやつになりかけていた子犬が、尻尾を振りながらまん丸い目をきらきらと輝かせているところだった。
どうやら礼を言いたいらしいと察して子犬を抱き上げてみれば、右の後ろ脚に爪でひっ掻かれたらしい怪我をしていた。そのうえお腹もすかせていることが分かったので、そのまま連れ帰ってきたというわけだ。
「傷は大したこともなかったし、食べ物をやったら元気になったしな」
「へえ、あんたにしてはよくやったじゃない」
勝手気ままな若君を、下僕として従え顎でこき使っていると評判の金髪娘。その彼女が、めずらしく感嘆とともにレオに微笑みを向けるさまに、さっきから一言も喋ることもなくふてくされていたヴァルターがますます面白くなさそうな顔をする。
「どうしたんですか、ヴァルター」
堅物騎士の真面目な従者が、機会を見つけてはレネに声をかけるべくあれこれ奮闘していることは、砦に住まう娘たちの間でひそかな話題になっている。それを思い出したらしいダウフトが、ちょっぴりからかうように問いかけると、
「どうしたもこうしたもありません、ダウフトさま」
褐色の双眸でわがまま侯子を睨みつけて、ヴァルターは砦の聖女に訴えかけた。
「レオの奴、俺――じゃなくて、わたしの弁当を全部ちびすけにやってしまったんですから」
しかも自分の分はそのままですとヴァルターがぼやくと、娘たちからは呆れた声が上がる。
「やっぱり、レオがやることだけはあるわ」
そんな気はしていたのよねと、やたらと納得のいった顔でうなずくレネと、わたしの堅焼きパンで良かったらと包みを取り出そうとするダウフトに、細かいことは気にするなってと陽気なレオの声が飛んだ。
「たかが弁当ひとつぐらい。本陣につけば、たらふく食べられるだろう」
よくない、と断固主張するヴァルターの肩を、すっかり上機嫌のレオはぽんと叩く。
「アネットが喜ぶいいみやげができたじゃないか」
こいつを連れて帰ればばっちりだと、金髪娘からひょいと子犬を取り上げて腕に抱えたレオに、馬鹿を言うなよと、食い物の恨みを一時だけ忘れてヴァルターは呆れかえる。
「魔物だったらどうするんだ。砦をウォリックの二の舞にする気か」
南東のオードと同様に、魔族によって焦土と化した西の土地。かの忌まわしきものたちは、捕らえた人や動物の身体に、時が至れば魔物と化す呪詛を埋め込んでは送り返し、攻め落とさんとする町が阿鼻叫喚のただなかに崩れ落ちてゆくさまを、愉悦とともに眺めやっていたのだとか。
「こいつが魔物?」
しきりに甘えてくる白い子犬を、レオはじっと見つめる。
確かに、乳離れしたばかりにしては少し牙が鋭いような気もする。身体に比べて尻尾も太いし、やわらかい肉球も砦にいる犬たちとは少しかたちが違っているような――
そう思ったとき、子犬がきゃんと鳴いた。前脚を持ち上げたとき、少し乱暴に引っ張ってしまったらしい。
「悪い」
慌てて、小さな身体を抱え直す。魔物たちにいじめられていた時を思い出したのか、金色の瞳に怯えを見せながら鼻を鳴らすいとけない仔は、過ぎし夏の明け方に見た、この世のありとあらゆるうらみとにくしみを凝らせたような魔狼とは、似ても似つかぬもののように思えてならない。
「さっさと元の場所に置いてこいよ。小鬼くらい振り払えない奴が、森で生きてなんか」
突き放すような言葉を口にしかけて、ヴァルターが何ともいえない顔になる。
レオに抱えられた子犬の、見捨てられるなどとは微塵も思ってもいないらしい無邪気さを見て、胸がちくりと痛んだらしい。それでも、あえて厳しいことを言わずにはいられないのがヴァルターなのだろう。
「ここは<帰らずの森>なんだぞ。いくら子犬だって、正体なんて分かるもんか」
「でもこの子からは、魔物のようにいやな感じが全然しません」
なだめるように手を伸ばし、子犬の小さな頭を撫でてやりながら、ヴァルターに微笑んでみせたのはダウフトだ。
「ダウフトさま?」
「森に生きる――というより、森そのものがここにある、そんな感じがします」
のんびり屋の村娘が見せる、不可思議のまなざし。深くとらえどころのない双の緑に何を映しているのか、レオに知る術はない。エクセターのギルバートにさえも。
「ダウフトがそう言うんだ、間違いないって」
「レオ」
気楽な奴めと非難するような目を向けてきたヴァルターに、
「もしこいつが魔物だったら、<ヒルデブランド>が放っておくはずがないだろう」
まるで我がことのように胸を張ってみせたレオをすっぱりと無視して、ダウフトさまがそうおっしゃるならとヴァルターはしぶしぶうなずいてみせた。
「ですが油断は禁物です。もしダウフトさまがお怪我でもなさっては、ギルバートさまに申し訳が立ちませんから」
どこまでも真面目な少年に、彼のあるじに似たところを見たのだろうか。気をつけますと笑いながらダウフトが応じる。
「あら、わたしの心配をしてくれる騎士さまはおられないのね」
溜息をついてみせたレネに、ヴァルターがぎょっとする。いやそんなことはないよと慌てふためくばかりに、そっぽを向いてみせた金髪娘が今にも笑い出しそうになっていることにも気がついていないらしい。
「ヴァルターも大変ですね」
そっと耳打ちしてくるダウフトの笑みに、エクセター卿が聞いたらさぞ泣きたいだろうなと、何とも星回りの悪い騎士が少しばかり哀れに思えてきたときだ。
「角笛だ」
警戒を呼びかける合図――ただし、吹き手が何やら動揺しているらしく、ずいぶんと調子っぱずれな音色が遠くの方からこだまする。
「本陣ですね」
戻った方がいいでしょうかとレネやヴァルターを促すダウフトに、何だこのくらいと自信たっぷりに告げる。
「どうせ臆病者の偵察隊だろ、気にするなって」
何しろ、仔兎が目の前をよぎっただけでもすわ一大事と大騒ぎをする連中なのだから。
「心配なら、僕が様子を見に行ってやるぞ」
子犬をダウフトの腕に預け、三人にここで待っているようにと言い残す。
「本当に大丈夫なの」
怪訝そうな顔をするレネに、少しは信用しろと告げて本陣へと歩みを進めていく。
今のところ、辺りには魔物の気配ひとつ感じることなどできない。それに自分たちがいるジェムベリーの茂みは、他に比べれば魔物たちの数がとても少ないのだ。
ヴァルターひとりではいささか心許なかったが、<ヒルデブランド>の加護とともにあるダウフトならば案ずるには及ばないだろう。ついでに、鼻息の荒いじゃじゃ馬娘もいることだし!
「ひとりで大丈夫でしょうか、レオは」
肩によじ登ろうとする子犬を抱えなおして心配そうな顔をするダウフトに、あいつなら放っておいても大丈夫ですとレネがきっぱりと言い切る。
「ギルバートさまに叩きのめされたって、ちゃんと次の日には修練場へ這い出て来るんですから。それよりも、ダウフトさまはご自分の身を案じてくださいませ」
そんな怖い顔をしなくてもと、子犬とともにたじろぐダウフト。油断禁物ですわよと言い含めるレネに、大いに賛同してみせたのはヴァルターだった。
「レオが自信満々の時には、たいていろくなことになりませんから。あいつが砦に来てひき起こした騒ぎだけでも、本が一冊書けるほどです」
何ともうるわしい友情ゆえの本心を、余すところなく垣間見せてくれる金髪娘と生真面目従者の声をきれいさっぱり聞き流すことにして。
すぐに戻るからな、と声を大にしてダウフトに告げると、とねりこ舘のわがまま侯子は緑の向こうにある本陣を目指して駆け出していった。
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