妻の愛を勝ち取れ/14

 恥ずかしがり屋の独健など本当はいないのだ。二千年以上も生きているのだから、もうずいぶんいい大人だ、この男は。


「返事がないってことは、いいって取るぞ」


 黒のフードつきジャケットの長い腕が、颯茄の背中の真ん中に回され、あっという間に洗いざらしの白いシャツに引き寄せらた。


 そして、夫の顔と同じ位置に持ち上げられた妻のそれ。


 百九十八センチの世界がこんなに高いとは思っていなかった。いつも見上げていた顔が真正面にある。


 目は心の窓。独健の人柄を表すように、どこまでも透き通る若草色の瞳がすうっと近づいてきた。そして、唇が触れた瞬間、風が吹きぬけ、サワサワと笹が鳴り出した。


 ――どこまでも温かいキス。


 しばらく二人の髪だけが、葉音の中で揺れ続けていた。


    *


 時間切れというように、夫二人のいる竹やぶから追い出された颯茄。芝生の上を歩いていた彼女は、遠くにガーデンテーブルを見つけた。降り注ぐ空の青の下でピンとひらめく。


「あっ、テーブルの下!」


 ベルベットのブーツで即行走り出そうとしたが、今までの隠れ場所を思い出して、慌てて急ブレーキをかけた。


「いやいや、それじゃ、ピアノの下と同じだな」


 外に出たのはいいものの。家が地球一個分。庭はもっと広い。物陰は少なく、見晴らしのいい風景。


 隠れる場所がなかなか見つからない。時間だけが悪戯に過ぎてゆく。それでも、どこかずれているクルミ色の瞳に、綺麗に整えられた植え込みが映った。


「よし、あっちだ!」


 自分の腰の高さまでもある植木の城壁。その向こうは、首都の街が広がる断崖絶壁。本当なら、景色を存分に楽しみたいところだ。


 しかし、今はとにかく隠れるだ。


 急がば回れ――。そんな言葉がある。だが、颯茄の辞書からは抹消されていた。


 いつもなら、しゃがんで垣根の向こうを確認するくらいのことはする。だが今は違った。


 植え込みの向こうではなく、パニクっていて、自分が歩いてきた背後に振り返っただけだった。


「ん? 誰もいない」


 よそ見したまま、一歩踏み出そうとしたところで、何かに足を引っ掛け、


「っ!」


 前へと倒れ始めた。はるか下に広がる街並みが見る見る近くなり、落ちてゆくしかない運命の中で、Gを感じる転落が幕開けだ。


 体は宙を舞い、捕まるものはどこにもなく、次に意識が戻るのは、身体中を貫く激痛の中。


 だったが、一瞬のブラックアウトが起き、体の前面に何かが突如広がった。


「いつにも増して、落ち着きねぇな」


 何がどうなっているのかわからないが、ガサツな声があきれた感じで、重力的に下から響き渡った。


「明引呼さん?」


 目を開けると、雄牛のツノと羽根型の、兄貴がこだわり抜いたペンダントヘッドがすぐ近くに見えた。


 足を引っ掛けたのは、ウェスタンブーツの側面。明引呼とは直角の位置で転んだはず。完全に体が崖の向こうへと出ていて、落ちそうになっていたはず。


 それなのに、夫の上に全身を預けるように倒れていたのだった。


「あれ? どうして……」


 慌ててやってきた妻の下で、夫は口の端をニヤリとさせる、その心の内は……。


 ――隠れんぼをしている。

 始まってから時間はだいぶ経過している。

 見つかっては隠れるを繰り返している。

 いつも一生懸命な妻。

 何度も失敗しているのなら、必死になる。

 妻が慌てている可能性は大。

 きちんと確認しない可能性が大。

 断崖絶壁にある場所。

 人が来る方向は決まっている――


 だから、ウェスタンブーツを妻がわざと引っ掛けやすいところに出しておいたのだ。


 それに見事につまずき、落ちそうになった妻。目をつぶった隙だらけの颯茄は、明引呼の上に瞬間移動をかけられてしまったのだ。


 他の配偶者から見たら、妻が夫を押し倒しているの図。庭の隅っこで。情事以外の何物でもない。


「すみません。すぐどきます」


 夫の気も知らず、礼儀正しく芝生の上に降りようとする妻。明引呼は筋肉質な両腕で颯茄をしっかり捕まえた。


「このままでいろや」

「えっ?」


 どこまでも突き抜けてゆくような高く広い空の下。夫のガタイがいい体の上で、妻の長い髪も服も何もかもが、淫らになだれ込んだままになった。拘束された体。


 急に吹いてきた風が、カウボーイハットをふわっと巻き上げ、首都の街の彼方へあっという間に消えてゆく。


「でも、帽子が――」

「飛ばせておけや」


 そんなのはどうでもいいのだ、今は。それに、瞬間移動ですぐに手元に戻ってくるのである。


 芝生の緑の匂いと空の青と、冬の風という野外。隠れんぼをしているのに、自分たちだけ、色欲漂う夜のようだった。


 鉄っぽい男の匂いが容赦なく体のうちへ入り込んでくる、ウェスタンスタイルの厚い胸板の上で、颯茄の鼓動は勝手に早くなってゆく。ドキドキが、顔の火照りが止まらない。


 今は隠れんぼをしているのであって、何とか落ち着いて考える。この状態から解放される言い訳を。そして、思いついた。


「明引呼さんが私の下敷きになってるので、重いからどきます」


 往生際のよくない妻。夫はもう一度瞬間移動というカウンターパンチをお見舞いしてやった。

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