妻の愛を勝ち取れ/12

 夫の大きな手で、妻の前髪はそっと上げられ、おでこに軽くキスをされた。


「僕は君を愛してます――」


 ――十五年前に知った人が脳裏に浮かび上がるたび、夫になってゆく日々。この感覚は霊的な直感。そんな中で、自分のそばにやってきた男。役職名が本名なのだと信じていたほどで、どんな人かもわからなかった。


 話すようになって、この人は落ち着きがあって、どんなことにも驚いたりはしない男。それなのに、穏やかで優しさに満ちあふれていて、独特の価値観を持っている。


 呼ばなければこない。呼べばくる。距離があるように思うが、いつも相手を気にかけているから、くるのであって、お互いの心はすぐ近くにいるのだ。そんな男――


「はい……愛してます」


 約束は約束。気持ちがないのではなく、言う主義ではないだけだ。伏せ目がちの颯茄の前で、貴増参の手があごに再び当てられた。


「ふむ。僕の王子さまも素敵な人です」


 夫婦で王子さまと言ったら、光命だ。また出てきた。優雅な策略家。妻は夢から覚めたみたいにはっとし、今目の前に立っている落ち着きのある王子をじっと見つめた。


「え……?」


 複数で結婚しているからこそ、お互いが愛している夫を間にして、二人の幸せがさらに広がってゆく。貴増参はにっこり微笑んだ。それはまるで白馬に乗った王子さまが手を差し伸べたようだった。


「二人が愛の聖堂サンクチュアリーに今夜もたどり着けるように、僕が魔法をかけよう!」

「ん?」


 ベッドに行くの隠語として使ってきていると、妻が気づかないうちに、時々策略的な貴増参からこんな言葉が出てきた。


「あ、そうでした。うっかり忘れてました。僕も、いや、みんなも一緒にです」


 いつぞやの11Pになってしまった。だが、もう慣れたのである、妻は。夫たちときたら、仲がいい限りでほぼ毎晩なのだ。


「ふふふっ」


 颯茄がまた微笑むと、貴増参の大きな両手が彼女の頬を優しく包み込み、キスをするために、妻の顔をすうっと上げた。


 閉じたまぶたの裏が視覚を封印して、他の感覚を鋭くする。そして、触れた唇から魔法をかけられた。


 ――甘い呪文のキス。


 くるくると踊ったこともないワルツを、相手のリードだけで、どこまでも軽やかに楽しめる。


 いつまでも続く舞踏会だったが、凛とした澄んだ女性的でありながら男性の声が、語尾をゆるゆる〜と伸ばして響いた。


「よろしいですか〜? 玄関は空けておいていただかないと、僕が困るんです〜」


 何かあるみたいな言い方。颯茄はキスをしていたことなどすっかり忘れて、ステンドグラスのはめ込まれた豪華な扉をじっと見つめた。


「外に誰かいるってこと?」


 今日は日曜日――を気づいていない妻の前で、貴増参の革靴は軽くクロスされ、あごに人差し指と親指が当てられた。


「ふむ。そういうことですか。僕はわかっちゃいました」

「え……?」


 颯茄が聞いているそばから、カーキ色のくせ毛とブラウンの瞳はすうっと退散した。


 二つの形の違うスカートだけが、居残った階段の下。ニコニコのまぶたから、邪悪なヴァイオレットの瞳が姿を現した。


「颯、すぐに違う場所に隠れてください。それとも、僕の短剣ダガーでズタズタに切り裂きましょうか〜?」


 平和な我が家に。小学校教諭の手に。鋭いシルバー色を放つ武器があった。しかも、妻を脅迫する夫。もちろん、それは嘘なのだが。


「どこから持ってきたんですか?」

「うふふふっ」


 いや違った。突きつけられた刃先。そのすぐ近くの月命の腕時計は、


 十五時二十二分三十五秒――。


 そんなことを見ている余裕などなく、妻は息を飲んだ。


「ほっ、本気で切り裂く気だ。とにかく、今度は外に行こう!」


 深緑のベルベットブーツは市松模様の床をさっと走ってゆき、玄関の扉から外へ急いで出ていった。


    *


 範囲が広すぎる隠れんぼ。とうとう家の外へと出て、門までの道を歩こうとすると、右手に竹やぶが見えた。舗装された道から、冬に向かうというのに、なぜか青々としている芝生の上からそれて、竹のつるっと固い感触を手で味わった。


「すごいね。ここ」


 一歩足を中に踏み入れると、パンダになりたいほど奥深い竹やぶだった。


「これだけ茂ってたら見つからないかも……」


 土の上をブーツは進んでゆく。まわりを観察するたび、ピンクのカーディガンの背中で、ブラウンの髪が右に左に揺れ動く。


 道に迷わないように一旦後ろに振り返り、よそ見をしたまま歩いていこうとした時、ドンと何かにぶつかった。


 素っ頓狂な鼻声が竹やぶに飛び出し、


「うわっ!?」


 そのあとすぐに、安堵のため息に変わった。


「あぁ〜。颯か。びっくりした。るっ、月かと思った……」


 ミリタリーズボンの膝の上に両手を置いて、ドキマギしている夫の前で、妻はいぶかしげな顔をする。


「またまた〜! 独健さん、わざと驚いたふりして〜」


 少しの間があったが、照れたようにひまわり色の髪をかき上げて、独健はさわやかに微笑んだ。


「まっ、そうだな。お前には通用しないよな」


 本当は違うのだ、この夫は。フードつきのジャケットを、颯茄は手で軽くトントンと叩く。


「そうですよ。何で、罠にはまったふりするんですか?」

「その方が罠を仕掛けたやつが喜ぶだろう?」


 こんな人なのだ、この夫ときたら。はつらつとした若草色の瞳を、妻はまっすぐ見上げ、腰に両手を当てて叱ってみた。


「独健さんは優しすぎです」

「あぁ、どの口がそんなことを言うんだ?」


 少し怒った感じで鼻声が響き、颯茄の小さな肩をガバッとつかみ、妻は逃げようとするが、


「あ〜あ〜っ!」


 あごを無理やり引っ張られて、唇をすぼめられた。颯茄の口からは意味不明な言葉が出てくる。


「フォナシュチェキュジャシャイ〜〜!(離してください〜〜!)」


 いくらもがいても逃げられなくて、妻の顔がしばらく変な感じで歪んでいた。

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