終わる世界、と終わらない冬

安路 海途

(倒れていた男)

 雪が降っていた。特別な白さをもった雪だった。長い時間のすえに、すっかり色が抜け切ってしまった、というような。その小さな白い切片は、音もなく空から落ちてきた。大地は一面が同じ色で覆われていた。

 この世界はもう、何年も春を迎えていない。季節はずっと冬のままだった。太陽は消えかけのストーブのように弱々しく、風は咬みつくほどの冷たさだった。けれど、春が来ることはない。冬は続く。世界が終わる、その時までは――



 その平原は、森のすぐそばに広がっていた。立ち枯れた木が何本か、焼き殺された魔女の指のように突き出ていた。なだらかな起伏が、世界の果てまで続いている。遮るものもない中を、風は我がもの顔に吹き荒れていた。何かを諦めたような、薄い昼の光がそれらを照らしている。

 男が一人、その平原に倒れていた。まだ若い、二十歳そこらという年恰好だった。短く刈った髪に、まだ髭も生えそろわない幼さ。蛹にさえならない、柔らかな幼虫を思わせる顔立ち。彼は茶色の軍服に、肩から提げた銃を背中に負っていた。

 もっとも、今は全身にうっすらと白い雪をかぶり、そのような詳しいことまではわからない。彼は傷つき、疲れはて、やっとのことでここまでたどりつき、そして倒れたのだった。長い足跡だけが、虫の這ったあとのようにそこまで続いている。

 雪たちは言葉もなく、遠慮がちにその上へと積もっていた。このままなら、彼の体はいずれ白い土の下へと埋もれることになるだろう。そうすれば、もはや永遠にその存在が知られることはないはずだった。

 ――そこに、二人の人影が現れた。

 二人は雪の中に消えようとする彼を、無言で見下ろしていた。厚いコートを着て、風を避けるためにフードを目深にかぶっている。同じ色の手袋と長靴。小さな、子供くらいの背丈の二人だった。いや、実際に二人は子供なのだ。それも、相当な幼さの――

 雪の下の彼は目をつむったままで、意識を取りもどす様子はなかった。今のところ、その体に生命の兆しはうかがえなかった。だが、死んでいるわけではない。そこにはわずかにくすぶる燠火のような、かすかな光があった。

「…………」

 子供たちはただじっと、彼を見つめていた。一人が、もう一人を見た。もう一人も、元の一人を見た。そこに言葉はなかった。まるで、虫たちが無言の意思疎通をするかのように。

 やがて最初の一人が、彼に積もった雪を払った。全身の一部とはいえ、その体が雪の下から現れる。それでも、彼はやはり意識を失ったままだった。獣たちが、春が来るまで眠り続けるのと同じで。

 雪をどけると、その子供はうつぶせになっていた彼の体をひっくり返した。彼の体は庭の石ころのように、地面にその跡を残して仰向けになった。子供は背中から腕をまわして抱えあげ、何とか彼をひきずって行こうとした。彼の体は、子供の二倍以上もあった。もちろん、それだけの体格差でまともに担いでいけるはずなどない。

 その様子を見ていたもう一人は、小さく首を振ってため息をついた。着古した服に、あまり目立たない破れ目を見つけたかのように。最初の一人はそれを気にしたふうもなく、うんうんと唸りながら大きな彼の体をひきずっていく。

 もう一人は何か言おうとして、結局は諦めた。ずっと昔から、そのことを知っていたように。そうして何か怒ったような顔つきで、雪の上に跡をつけていた彼の足のほうを持った。



 木の扉が開くと、まず雪が入ってきた。それが、当然の権利だとでもいうように。それから、人間が入ってくる。もっとも、こちらは雪のように簡単にはいかない。まず、子供が後ろ向きに入ってきた。框に足をかけないよう、用心して。抱えられた男の体が、それに続く。戸口にぶつからないよう、これも用心する。何とか無事に通過して、最後に足を持ったもう一人の子供が家の中へと入る。

 扉のそばにいったん男を下ろすと、二人は扉を閉め、雪を払った。乾いた絵の具の欠片のようにして、木の床に白が散らばる。二人は男の上からも雪を払い落とした。男の目は、それでもやはり開かなかった。だが、死んではいない。

 一人が男の世話をする一方で、もう一人は暖炉の火に取りかかった。小さな薪を置き、おがくずを使って火を熾しにかかる。赤ん坊のように、薪にはなかなか火がつかなかった。が、最後には赤々と勢いよく燃えはじめる。

 その頃には、濡れた男の服は脱がされ、きれいな毛布に包まれていた。男の体は冷えきっていた。だがそれよりも、もっと重要な点がある――

 火が順調に燃えはじめたので、もう一人のほうがそちらへ戻ってきた。男のそばにいたほうの子供は、何か言いたげにもう一人を見た。もう一人はその無言を聞きとって、腰に手をあてて口を開く。

「何なの、ユニ。どうかしたっていうの?」

 フードをとったもう一人の子供、いや、少女は、じれったそうに問いただした。

 彼女は癇の強そうな、金属的な光を持った目をしている。あまり手入れのされていない、植物めいたぼさぼさの黒髪をしていた。その黒色は、強い炎のあとに残った木炭を連想する。粗野で、乱暴で、強情なたたずまい。だがよく見ると、整ったその顔立ちには、一種の野性的な美しさがあった。

「……この人、怪我をしてるんだよ、アセリ」

 男のそばにいた子供が、不安そうな声で返事をする。

 少女と比べると、こちらは対照的な顔立ちをしていた。柔和で、繊細、明朗な、小鳥のような優しさ感じさせる。霞がかった太陽の光に似た、くすんだ色あいのブロンドの髪。その下には、小鹿のように澄んだ瞳があった。頼りない体つきや、あどけないその顔つきからは、しかとはわかりにくかったが、少年である。

 アセリと呼ばれたほうの少女は、不審そうな顔で近づいてきた。男の体は全身が毛布に覆われていて、その顔くらいしかうかがうことはできない。その顔は、どこか険のある、暗いものだった。浅黒く、年齢のわりには精悍そうに見える。眠っているときでさえ、意識の一部には緊張が残っているかのようだった。

 それはともかくとして、傷のようなものには気づかなかった。雪の中を運んでいるときも、そうである。血の跡も、手足のもなかった。毛布の下に、少年の言うどんな怪我があるのか、少女には想像もつかない。

「どこが悪いっていうの? 病気とか熱があるとかならわかるけど」

 と彼女はまるで、それが不服でもあるかのように言った。

「――ここだよ、左腕のところ」

 少年はそう言って、毛布を軽くめくってみせた。そんな些細な動作でさえ、この少年の手つきは丁寧だった。

「…………」

 現れた左腕を見て、少女の顔は歪んだ。いや、それは歪んだというにはあたらない。かすかに眉をよせ、唇の形を変えただけのことだった。蜜蜂の羽音が、ほんの少し変化するように。とはいえ、それが歪んだことには変わりがない。

 剥きだしになった男の左腕には、奇妙な黒い痣が刻まれていた。痣というには、それはいかにも奇妙だった。紋様、といったほうが近い。蛇がのたうつような、うねうねとした線が、皮膚の上をいくつも這いずっている。もし、そういうことがあるのなら、何かの幾何学的な図形がかのようだった。そこには、非常な禍々しさがあった。

「〝裁きニエバ〟を受けたのね、きっと」

 少女は必要以上の無関心を装うかのように言った。「――無事に生きているだけでも、驚きだわ」

 うつむいたまま、少年はそっと毛布を戻した。そこには、遠慮がちな慈しみがあった。ちょうど、心の優しい人が、苦しむ病人を前にしてどうしていいかわからずにいるのと同じような。

「……その人、どうするつもりなの?」

 と、少女は訊いた。その口調は、詰問といっていいくらいのものだった。

 少年は、心配そうな顔で男をのぞきこんでいた。少女のほうを振り向こうともしない。その瞳はまっすぐに、男のほうへと向けられている。

「できれば、助けてあげたい」

 その返答は、少女には十分に予測できたものだったらしい。彼女は軽く肩をすくめるだけで、首を振ったり、ため息をついたりはしなかった。それだけの動作を、惜しんだかのようでもある。

「よくなるまで、ここに置いておいてあげようよ。ねえ、アセリ、そうしよう?」

 少年は哀願でもするかのように、必死だった。

 それでも少女は、軽く肩をすくめるだけだった。「たぶん、面倒なことになるわよ」

「でも、このまま放ってはおけないよ――」

 少し、時間があった。何かの重さを秤で慎重に量っているよな、そんな間だった。やがて、それは終わった。皿がどちらに傾いたかはわからない。

「まあ、いいわ」と、少女はそっとため息をついた。「どうせこのまま、死ぬかもしれないし」

 二人は火が音をたてる暖炉の前にベッドをこしらえると、そこに男を寝かせた。

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