第二章 エンターテインメントの城 2
建物の中に入って最初、ここは室内だった筈だと考えた。あまりの開放感に感覚がおかしい。外から見た建物のイメージからかけ離れた明るさが一番の原因だろう。
駐車場から見て向かって左側の一番端から建物に入り、まず右を向いたので、今、右には窓の無い壁が見えている筈なのだが、今そこに見えているものは駐車場に止めてある水尾達が乗ってきたシルバーのセダンだ。
頭上に目を向けると、遙か上まで壁らしい物は見当たらず、車どころか駐車場の更に先にある海やその上にある空まで見えている。
つまり室内に入った筈なのに、先程まで見えていた景色となんら変わらないものがそこにあるのだ。
「もしかして、これって壁が全てマジックミラーのようになっているんですか?」驚きを抑えられない口調で祥子が秘書の坂本に尋ねた。
「はい。只のマジックミラーでは無いのですが、映像処理で内側からは外の景色が全て見える様になっていって、外側にはコントロールルームから送られた映像を壁一面に映し出せる様になっております」涼しい顔で坂本は答えた。
「一面がモニターって、建物の正面全てがって事ですか?」普段はあまり感情が読み取りにくい美紀ですら驚いたというのがはっきり分かった。
更に凄いことに、ロビーの上には天井が無い。実際はあるのだろうが、一番上の本来天井がある部分までが吹き抜け状になっていて空が見えている。大体ビル十階建てくらいの高さだろうか。
「これは凄い。こんな物初めて見たな。驚いた」いつもは少しひねくれた思考回路と自負している水尾ですら正直な気持ちが口から出た。
「ここはそういった驚きを体験して頂くために作られた施設です。他にも驚いて貰う仕掛けがあちらこちらにありますので、それは後ほど社長自ら案内させていただく手筈になっております」坂本は誇らしげに胸をはった。
坂本以外のそこにいる人間全てが不思議そうにその景色を見回していた。
満足そうな微笑を浮かべてその状態を眺めていた坂本がタイミングを見計らうように一同に声を掛けた。
「では、倉ノ下様とお連れの皆様にはお部屋を用意させて頂きますので、こちらの受付カウンターにお願いいたします。大阪府警のお二人様は、久我山が参るまで、そちらのロビー横のラウンジでお待ち下さい。直ぐにお飲み物をお持ち致しますので」テキパキと坂本が段取りを説明した。
チーム櫻子の四人は、坂本の後ろに続いて無人の受付カウンターに向かった。坂本は途中、ロビーにいた男性スタッフを捕まえて一言二言指示を出していた。
「オープン前ですので、本日は限られたスタッフでの対応になります。何かとご不便をお掛けするとは思いますが、何か有りましたら私にお申し付け下さい」坂本は受付の端末を操作しながら説明した。
「それでは、そこにあるパネルに手を乗せて頂いて宜しいでしょうか。ではまず倉ノ下様から」と坂本は祥子の顔を見て微笑んだ。
「すみません。自己紹介が遅れました。私は倉ノ下のマネージャーをしております、松本祥子と申します。倉ノ下はこちらです」祥子は櫻子の方を見て、少し笑いを堪えたような表情をした。これには美紀も堪え切れず思わず吹き出してしまった。
「これは、大変失礼を致しました。私、芸能界などには大変疎いもので……。そうですよね。とても人気のある女優さんだと社長からお聞きしていただけでしたので。普段行動される時は変装されたりするのは当たり前ですよね」と感心したように真面目な視線で櫻子の頭の先から足元までを眺めた。
「櫻子さんの場合、仕事してる時の方が変装しているようなものなんですけど……」美紀は笑いを堪えながら、聞こえるか聞こえないかのボリュームで呟いた。
「ぶーっ」小夜子が堪えていた笑いに耐えきれずに吹き出した。
「この上に手を置いたらいいんですね。右でも左でもいいんですか?」櫻子は周りの嘲笑を無視するように尋ねた。
「はい、どちらでもかまいません」
櫻子が右手をパネルの上に置いたのを確認して、坂本は受付の端末を操作した。
「続けて、お連れの皆様も順番にお願いいたします」
他の三人も同じように順番にパネルに手を置いた。
「これで、皆様の手が鍵になりましたので、これからお部屋にご案内いたします」自慢げな表情で坂本が言った。
エレベーターホールに到着して、坂本は先程扉を開けた時と同じように、エレベーターの操作パネルらしき物に手を翳すとエレベーターの扉が静かに開いた。
「この建物は地上十階、地下二階で、お客様の客室は五階より上になっております。最上階は半分が我が社のオフィスになっており、残り半分は多目的なフロアーです。レストランも最上階にあります。二階から四階までと地下がこの建物のメインである最新技術の体験フロアーになっています」
エレベーターの中で坂本は馴れた口調でこの建物の概要を説明した。恐らくかなり練習したであろうことが分かる淀みの無い説明だ。
「倉ノ下様とお連れ様のお部屋は九階のスイートエリアになっております。スイートエリアは九階と八階で、その階にお泊まりのお客様専用のフロアーになっております」
説明が終わる頃、エレベーターの階表示が九階を表示して、音も無く静かに止まり、扉は音も立てず開いた。
「凄いね。こんなに動いている感覚の無いエレベーター初めて乗った」櫻子は小学生のようにはしゃいでいる。
エレベーターを降りて左右に長く一直線に廊下が伸びている。目の前には姿鏡のようなパネルがあり、ここが九階のスイートエリアであることが表示されていた。一同は右に歩いて行き、九○一号室の扉の前に着いた。
「倉ノ下さま、右手を扉に翳して見てください」坂本に言われた櫻子は右手を扉の中央辺りに翳した。
すると扉のネームプレートあたりに『いらっしゃいませ、倉ノ下櫻子様。どうぞおくつろぎ下さいませ』と表示され、静かに扉が開いた。
部屋はスイートらしいゴージャスな作りだ。何人が泊まれるのかと言うほど広い。正面の一面が大きな窓になっていて、下を見下ろすと先程までいたロビーが遙か下に見えている。穏やかな海を遠くまで見渡すことができて、目の前に先程駐車場から見上げた大きな壁があるように見えない。ただ窓の外に駐車場とその先の景色があるだけだった。
「お連れ様は、並びの部屋になっております。先程の要領で入室して頂けますので、何かご用がありましたら私にお申し付け下さい。久我山が到着しましたら、お知らせ致しますので、それまでお寛ぎ下さい」深くお辞儀をして坂本が退室した。
「とんでもない建物ですね。どれくらいのお金がかかっているんでしょう?技術的にもとんでもないですけど。流石に今乗っている企業ということでしょうか?」美紀は部屋に置いてある花瓶などを手に取って見た。
「そんな凄い企業が、今回さくちゃんにイメージキャラクターとオープニングイベントのお仕事を依頼してくれるなんて大変なことよね。張り切ってよさくちゃん」と声を掛けた祥子だったが、櫻子の現状を見て思わず大きな溜息をついた。
「残念ながら聞いて無いね。眠り姫は既にお眠りになられておりますよ」小夜子はテキパキと仕事道具を鏡の前に並べている。
櫻子は窓際のソファーの背もたれにもたれかかり、天井を見上げたような形で、口を半分開けた状態で小さないびきをかいて眠っていた。
「はあ……。これが今話題の人気女優の姿とは……。ファンに見せられないわね」祥子が言うと、小夜子がバックの中からデジカメを取りだして櫻子の寝顔を何枚か撮った。
「そんなこと無いのよ。貴重なオフショットこそファンが喜ぶの」
小夜子のその発言に対して美紀は少し窘めるような口調で「その写真でいくら稼ぐ気ですか?」と尋ねながら、少し軽蔑するような眼差しを向けた。
「冗談よ、冗談。で、事務所としてはいくらで買い取られますか?」
本気とも嘘ともとれるようなテンションで小夜子は言い、デジカメで撮った櫻子の無防備な写真を見せた。
「冗談はそれくらいにして、櫻子は三十分経ったら起こすとして、それまでに私と美紀ちゃんで久我山社長に提案するイベントの内容と、今回のファンイベントの最終打ち合わせをしておきましょう」
祥子はカバンからファイル一式を取り出しながら櫻子に優しい視線を送った。
美紀は櫻子にタオルケットを掛けながらコクリと頷いた。
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