第一章 脅迫状 8

 荷物を受け取りながら、遠藤美紀はいつもより緊張していた。当然、脅迫状のことは知っていたし、今日がその脅迫状に書いてあるイベントの最終日なので、当然肩に力が入っている。


 一回目のハイタッチ会もそろそろ終わろうとしているその列の一番後ろに、見慣れた及川守の姿が見えた。大阪よりも前に行われた六カ所では姿が見えなかったことを櫻子も心配していたので、及川の姿が見えた時、美紀自身も何かホッとした。


 最後の及川に順番が回って着た時、声を掛けようと美紀はチラッと及川の顔を見た。その瞬間、美紀の背筋に冷たい物が流れた。何故なら、美紀が見た及川の顔はいつもの柔和なえびす顔では無く、憤怒が色濃く浮き出た表情で、その視線は正に獲物を狙うかのような殺気を帯びていたからだ。


「危ない!」


 美紀が叫ぶよりも早く、及川は美紀を撥ね除け、手提げ袋から先の鋭く尖った物を取り出して手に取り、元平の脇をすり抜けて壇上にいる櫻子に掴みかかった。


「まて!」元平はその長い腕を伸ばして及川の襟元を掴もうとしたが、僅かの距離で届かず、身体を捻った拍子に後ろに反っくり返った。


 その隙をみて、及川は櫻子の首元に尖った凶器を突きつけながら、空いている反対の手でステージ横にある控え室の扉を開けて、櫻子を中に引きずり込もうとした。


 及川と櫻子が控え室に入り、及川が扉を閉めようとした時、倒れていた元平が体制を立て直して、素早く片足を扉に滑り込ませて閉まるのを防いだ。


「お前っ!ふざけたことしやがって。近づくな!」及川は大量の汗をかきながら叫んだ。


 その様子に何が起こったのかと周りにいた人間がざわつき出したのを見て、美紀はパニックになっては大変と思い、ステージ上の衝立を動かし、控え室の入り口を見えなくしてからハンドマイクを手にした。


「一回目のイベントは以上で終了です。二回目は十三時からになっておりますので、参加の方はそれまで解散して頂きますようお願いいたします」内心の動揺を表に出さないように、できるだけ冷静な口調で説明した。


 ざわついていた人間も、このアナウンスで落ち着きを取り戻したのか散会したようだった。

 

 控え室の入り口では、及川と元平の睨み合いが続いていた。


「まあまあ、とりあえず落ち着こうや。そんなに興奮せんと」見た目通りの優しい口調で元平が言った。


「お前、誰だ。僕の邪魔をするな」及川が元平を睨む。


「どうなっている」衝立の向こう側から男の声がした。


「水尾さん。そこにおって下さい。俺が何とかしますんで」


「だれも近付くな!お前もその足どけろ」


「なんで、こんなこと……。マモさん……」櫻子が涙声で尋ねた。


「ありがとう、美紀ちゃん。パニックにならずに済んだわ」ステージに息を切らして駆けてきた祥子が美紀に声を掛けた。


「でも櫻子さんが……」先程会場を落ち着かせた声色とは明らかに違う頼りない震えた声で美紀が言った。


「大丈夫だから」祥子は美紀に言い聞かせるのと同時に自分にも言い聞かせるかのように強く言葉をはいた。


「何が目的なん?僕で聞けることやったら聞くで。あんまり思い詰めたらあかんよ」元平はゆっくりと扉を押し開けるように身体を起こした。


 身体の大きな元平が近付いてきたので、警戒するような表情で及川は一メートルほど部屋の奥に後ずさった。


「お前ら邪魔すんな。僕はさくちゃんに聞きたいことがあるんだ。出て行け」


「話しをするならそんな物いらんやろ?さあ、落ち着いて倉ノ下さんを離し」元平は宥めるように穏やかな口調で話しながら、更に半歩、近付いた。


「私と話したいならいくらでも話すよ。私がマモさんに何かしたの?私とマモさんの仲じゃない。なんでも聞いてよ」


「みんな口ばっかりだ。さくちゃんだけは信じていたのに。僕のことなんて何とも思っていないんだ。僕はさくちゃんのことをこんなに思っているのに」少し涙声になりながら及川は櫻子の手首を強く掴み自分の方へ引き寄せた。


「なんや、一方的な被害妄想か?」水尾が聞こえるか聞こえないかの声で言った。


「そんなこと無いわ。櫻子はあなたのことをとても大事に思っている。姿の見えないあなたを誰よりも心配していたのは彼女だし、今日だって会場にいたあなたに誰よりも早く気付いたのも櫻子よ」祥子が彼女にしては珍しく少し興奮気味に話した。


「それは今日の僕がいつもの格好しているからだ。そんなの誰だって気付く。でも普段着の僕だったら街で会ったって気が付きもしない。実際そうだったんだから」及川は何かを思い出すような眼差しで語った。


「そんなことあり得ないわ。櫻子がマモさんに気が付かないなんて。たとえマモさんがどんな格好をしていたって関係無い」祥子は強く言い切った。


「私が何処かでマモさんに会って、その時私が気が付かなかったことがあったの?」


「そうさ。二メートル位の距離だったのに、さくちゃんは僕に気が付かなかった。二週間前、僕は面接を受けに行ったんだ。そこで偶然さくちゃんを見かけて声を掛けたんだ。その時僕は面接用のリクルートスーツだったけど、そんな姿をした僕を見たことが無いさくちゃんはきっと驚くだろうと思っていたら、さくちゃんは誰だか分からないみたいだった。いつもはファンは家族だとか言っているのに、家族の服装が違うくらいで気が付かないなんてことあるか?僕はずっと応援してきたんだ……。さくちゃんをいつでも応援に行けるように仕事だって夜間のガードマンにしたし。所詮誰もが口だけなんだ。どいつもこいつもおちょくりやがって」自分の言動で怒りに更に拍車がかかったかのように、顔を真っ赤にして及川は一度地面を大きく踏みならした。


「正に完全な逆恨みやな……」水尾は呆れたという表情で元平に目配せした。


「その二週間前って、ペリペティアの自社ビルじゃない?もしかして櫻子、あなた、見えてなかったんじゃないの?あなた眼鏡を掛けないでおトイレに行った時無かった?」祥子が櫻子に聞いた。


 花粉症のこの時期、櫻子はできる限りコンタクトレンズをする時間を短くしている。花粉症の病状が目に一番強く出るためだが、メイクが終わった後など、眼鏡をしないで行動することが度々あった。


「見えていなかったとしても。マモさんの声を聞き間違えるなんてこと絶対に無い」櫻子は強く言い切った。


 その時、明らかに及川の表情が変わり、櫻子の首に凶器を当てていた手が僅かに下がった。


 その瞬間、元平を掠めるように凄まじい速さで祥子が及川との距離を詰めて、低い姿勢をとり、一旦、元平の方を向き直す動きと同時にスラリと長い足が跳ね上げられ、及川の手元の凶器を弾き飛ばした。

遅れて、元平が及川の手を捻りあげてその身体を床に押さえつけた。


 正に、一瞬の出来事だった。


「お見事……」元平は及川を押さえつけながら祥子に声を掛けた。

 水尾は弾き飛ばされた凶器を拾い上げた。


「なんやこれ?アイスピックやと思ったら、たこ焼き返すやつやんけ。まあ、こんなんでも殺そうと思ったら殺せるけどな」


 押さえつけられていた及川が絞り出すような声で呟いた。


「僕の一方的な思い込みか……。さくちゃんには僕の顔が見えていなかったんだね。バカみたいだ……。何もかも僕自身のせいなのに……。風邪で喉をやられたのも、それが理由で面接を落とされたのも、全部自分自身の問題なのに。最初は脅迫状だけのつもりだったんだ。でも、今日みんなと仲良くしているさくちゃんをみて、なんだか悔しくなって……」


「そんなつまらない理由でこんな騒ぎ起こしやがって。お前の大好きな倉ノ下さんにどれ程の迷惑がかかったと思っているんや」水尾は先程までとは違う、子供を叱るような抑えた口調で言いながら、及川に手錠をかけた。


「マモさんはどの位の罪になるんでしょうか?」櫻子は真剣な眼差しで水尾を見つめた。


「そりゃあ、悪いことをしたのは事実ですから、それなりに償ってもらわんと。でも、本人も反省しとるみたいやし、怪我人もおらんので、そんなに思い罰は無いんと、違いますか」水尾は頭を掻きながら答えた。


「罪の重さを決めるんは僕らと違いますけど、水尾さんの言っているとおりだと思いますよ」元平が優しい表情で付け加えた。




 手錠は目立つのでという松本祥子の願いを聞き入れて、水尾と元平が両脇を抱えるような体制で及川は連行されようとしていた。


 及川は何かに気が付いた様に振り向いた。


 そこにはチーム櫻子のメンバーが並んで立っていて、全員が複雑な表情で及川を見つめていた。


 真ん中に立っていた櫻子が悲しそうな表情を一旦見せてから目を瞑り、微笑みながら目を開くと静かに呟いた。


「待ってますよ、マモさん」


「許してくれるの?」消え入りそうな声で及川が聞いた。

 

 いつものよく通る声で櫻子が答えた。


「マモさんは家族だから」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る