第6話 先生の経歴は秘密!
「……不整脈があるかもしれないので、いったん寝室に下がりましょう」
草野はマーサにそう告げると、自ら車いすを押してリビングを出た。三人の姿が消えた後、最初に沈黙を破ったのは弓彦だった。
「大事に至らないといいが……皆さん、窓の外を見ましたか?」
「何か影のような物が動くのを見たけど……そのことを言ってらっしゃるの?」
泉が押し殺した声で言うと、弓彦は「やはり見たんですね」と頷いた。
「見たっていうか、黒いものが一瞬、横切った気がしただけよ。家主さんがあれを見て具合が悪くなったとは思ってないわ」
「そうですね。ここは冷静になるべきところでしょう。もしかしたらすべてが予定通りの展開なのかもしれないし」
「それって、窓の外に影が見えたのも、家主さんの具合が悪くなったのも、みんなお芝居だってこと?」
みづきが語気を強めると、嫌なことを聞いたとでも言いたげに眉を寄せた。
「そのくらいの予想はして然るべきだ、ということですよ。我々は皆、プロの作家です。想像力を試されているのかもしれませんよ。こちらの用意したアクシデントを超える作品でなければ採用しません、というね」
弓彦のうがった見立ては悪趣味とも言えたが、同時に妙に説得力がある推理でもあった。
「まあ、初日からなんでもかんでも疑ってたら身が持たないよ。せっかく夕食まで自由時間をいただいたんだ。ここはいったん解散して、それぞれ部屋を確かめてみてはどうかな」
西方がとりなすと、微妙な緊張をはらんだ空気が一気にほぐれていった。
「そうですね、草野さんが戻ってきたら、各自、部屋に引き上げましょう」
僕がそう言った直後、申し合わせたようにドアが開いて草野が姿を現した。
「やあ皆さん、お騒がせしました。どうやら軽い不整脈と過呼吸だったようで、今はもう落ち着いておられます」
草野が医師らしく所見を述べると、続いてマーサが姿を現した。
「すみません、とんだところをお見せしてしまいました。……ではこれからお部屋にご案内いたします。男性の方は一階、女性は二階にお部屋を用意してございます。……どうぞ」
マーサはそう言うと、僕らに開け放った扉の向こう側を指し示した。
※
「秋津先生はこちらのお部屋になります。何か御用がありましたら、備え付けの電話をとってゼロ番を回してください。それでは、ごゆっくり」
マーサの姿がドアの向こうに消えると、僕は上着を脱いで簡素だが清潔そうなベッドに寝転がった。虹神村についてから三時間、すでに色々な出来事がこの屋敷を中心に起きており、ある程度頭の中を整理しなければ執筆などできそうになかった。
部屋は六畳ほどの広さで小さな作り付けのクローゼットがあり、合宿の性質上、当然というか室内にはものを書くための机と椅子がしつらえてあった。僕はベッドから身を起こすと、リュックからノートパソコンを取りだした。
立ち上げて試しにブラウザを開いてみると、ホームに設定しているページが映し出された。どうやら調べ物をするための環境は整っているらしい。
僕はいったんパソコンを閉じると、唯一の窓から外の様子を眺めた。目の前の畑には畝に添って丈の高い植物が生え、風にそよいでいた。
――さて、夕食まで何をして過ごそうか。神楽先生に倣って探索でもしてみるか。
ぼんやりそんなことを思っていると、いきなり部屋のドアがノックされた。
「はい、どうぞ。鍵なら開いてますよ」
声をかけるとドアがそっと開けられ、みづきが顔を出した。
「秋津先生、お疲れでなければ外の景色を見に行ってみません?」
僕は面喰いながらも「いいですよ」と応じた。やれやれ同世代とはいえ、やはり好奇心は女性の方が旺盛なようだ。
「よかった。一人じゃ何だか味気なくて。建物の中を探検してもよかったんだけど、明るいうちに外を歩いてみたくて。……じゃあ玄関のところで待ってますね」
みづきが姿を消すと、僕はクローゼットにしまったばかりの上着を再び引っ張りだした。
「この場合、どこへ行くと申告すればいいのかな。庭を見るだけってのも物足りないし」
僕はパーカーに袖を通すと、ドアに施錠して玄関へと向かった。玄関ロビーに着くとすでに靴を履き終え、キャップを被ったみづきが待ち構えていた。
「お待たせ。マーサさんに行き先を言わなくていいのかな」
「あ、それならもう言ってあります。秋津先生と近場にピクニックに行くって」
「ピクニックって……そんなあいまいな言い方でいいのかな」
「いいんじゃない?マーサさん「くれぐれも気をつけて、間違いのないようお過ごしください」って言ってたから、デートだと思われたのかも。……じゃあ、外で待ってますね」
どこまでもお気楽なみづきに僕は一瞬、まずいぞと思った。ピクニックに異論はないが、できるだけ早いうちに言っておくべきことがある。とある理由で大っぴらにはしていないが、僕は既婚者なのだ。
一部の限られた人たち以外にはできるだけ同業者にも秘密にしておきたいのだが、仮に打ち明けたとして果たして彼女は黙っていてくれるだろうか?
靴を履き終えた僕は、みづきの開放的なキャラクターを思い描きながら大きなため息をついた。
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