09.汚染地帯(3)

「――こういう事ね」


 歩を進める事が物理的に可能な場所まで進んだ。それは然したる距離では無く、時間にして10分弱くらい真っ直ぐ進んだ程度の距離である。

 ただ、その光景を前にして花実は絶句した。

 それまでほぼ平坦だった道が、途中から落ち沈んでいる。つまり、道が途中から消え失せているという事だ。近付けば危険なのは明白だったので、遠目に様子を伺っているが、濁っている汚泥の底は全く見えない。当然である。

 こんな場所に足を踏み入れれば底無し沼のように沈んで行くのは想像に難くない。


「どうですか、召喚士殿。なかなかに乙な光景だとは思いませんか?」


 不意に烏羽が囁くように話し掛けてきた。碌な事を考えていないように見える振舞いだし、実際の所そうなのだろう。黙っている花実に対し、気にした素振りもなく彼は恍惚と言葉を続けた。


「ここには木々しかありませんので、見応えはあまりありませんが……。ふふ、沈んでしまった幾つかの都市。それらは圧巻の光景でしたよ、ええ。本来そうであってはならないものが、水底に沈んでいる――胸を擽られるような、そんな風景でしたとも。ええ」


 ――嘘は吐いていない。少なくとも烏羽はその景色を好意的に受け止めているようだ。

 自分はどうだろう? 現実世界で起こった事ならば現地に住んでいる人の事を思って胸を痛めるだろうが、これはゲームだ。果たして、この現実と相違ないグラフィックでその光景が映し出された時、痛む心を持つのだろうか。

 それとも現実では決して見られない光景に、烏羽と同様、好奇心のような感情を覚えるのだろうか。


 そんな花実の心を知ってか知らずか、烏羽はなおも言葉を続ける。彼にとって、相手がウンともスンとも言わない事など気にならないらしい。


「――召喚士など、正直興味もありませんでしたし、適当な所で飽きると思っていたのですがね、ええ」

「なに、急に」

「いえ、なかなかどうして、『最初の神使』になれば違う展開になってくるものだと。ええ、そのように痛感しております」

「烏羽……?」


 それは感慨深さだとか、好意的な気持ちの発露ではなさそうだった。もっと棘のある、原因不明の悪意が滲んだニュアンスだったと言える。尤も、自分は嘘こそ見抜けるが他者の気持ちを一から十まで正しく理解できる訳ではない。

 今も、彼が口にしたのは決して嘘では無い事だけしか分からなかった。得体の知れない感情を向けられている事実に、薄ら寒ささえ覚える。絞り出した声は平坦だったが、ある種の恐怖は本人に伝わってしまったかもしれない。


 呼ばれた神使が唇の端を釣り上げる。唇は弧を描いていたがしかし、その目はちっとも笑っていなかった。心底恐ろしいモノを前にしているような緊張感に、口内が乾いていくような心地がする。


「そういう訳なので、ええ。まだもう少し遊べそうですし……。今回は貸し一つ、それでどうでしょう? 召喚士殿」

「え?」

「私、人の邪魔をするのは大好きなのですが――邪魔をされるのは大層不愉快に感じるのですよ。ええ」


 瞬間、結構な勢いで烏羽から肩を押された。突き飛ばされる形で花実の身体が地面に投げ出される。ただでさえ体格差がある上に、まさか急にそんな事をされるなどと露にも思っていなかったせいで、踏ん張りも利かない。

 尻餅をつくように倒れ込む瞬間、先程まで自分が立っていた所を、汚泥から飛び出した何かが信じられない速度で通り過ぎる。あまりにも速すぎてほぼ残像だった上、曇天の少ない日光で鈍色に輝く何かであった事しか分からなかった。


「えっ、あ……!」


 一拍遅れて尻餅をつく。ゲームの中だと言うのに、まるで本当に尻餅をついたかのような痛みで涙目になる。

 しかしそれより、あのまま突っ立っていたら高速で動く『何か』と衝突していたかもしれない。考えるまでも無く、倒れるより強い衝撃を受ける事になっていたはずだ。

 通り過ぎて行った『何か』は立ち並ぶ木、枝の中にその身を潜ませてしまったらしい。烏羽はしっかりと正体を目で追えていたのか、それが潜む木を見上げてニヤニヤと笑みを浮かべている。


「ふむ、どうやら先程から言っていた視線の正体は彼奴だったようですね。ええ。獣型をした汚泥を差し向けてきたのも奴かもしれませんよ」

「え? なに……? やつ……?」

「おやおや、大変察しが悪いようで。しかし、召喚士殿は平和な世界からわざわざこんな危険地帯にまでやって来られた方。ええ、懇切丁寧に貴方を襲ったのが何なのかを教えて差し上げなければなりませんねぇ」


 何が可笑しいのか意地の悪い笑みを浮かべた烏羽が、左腕を凪ぐ。途端、『何か』が潜んでいる木があっさり切り倒された。

 それは花実を襲ったそれも分かっていたのか、枝の一つから猫のようなしなやかさを以て、『何か』が退去する。そのまま、その人は一切の音を立てる事無く切り株に変わってしまった木の隣に降り立った。


「これは、人……いや、え、まさか……神使?」


 それは歳の頃なら中学生くらいの少年。すらりとした無駄の無い細身の身体に薄い藍色の短髪は、右目を完全に覆い隠している。隠れていない左目は切れ長、暗く濁っていていまいち生気が感じられない。

 烏羽とは違い、かなりの軽装だ。動きやすさ重視の格好をしており、その手には触れれば血が噴き出しそうな程に鋭利な短刀が握られていた。

 ――まさか、今、持っているこれで私を襲おうとしていた?

 いくらゲームの中とはいえ、かなりリアルに近いグラフィックだ。流石に少し恐ろしい物を感じて身震いする。


「ふふふ! 流石は召喚士殿、よくよく学習しておいでのようですねえ、はい。そう! 彼こそは神使にして、名を薄藍と付けられた我等が同胞! ええ、素晴らしい!」

「素晴らしい? 同僚が闇墜ちしてるように見えるけど……」

「それは何です、召喚士殿? ……私が言っているのはこの場に薄藍がいるという、圧倒的な喜劇に関してです! ふふ、何者なのでしょうかね、ここに奴を配置したのは。ははは、演出というものを分かっているようで! 何より! いやあ、賞賛のほら、拍手を。ははははは!」


 言った通り手を打ち、孤独な拍手を繰り返す烏羽は高笑いを続けている。付いて行けない花実と、汚泥から這い出してきた薄藍なる神使だけが沈黙を貫いていた。過去最高に上機嫌な初期神使は気にする様子も無いが。

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