07.汚染地帯(1)

「それでは、早速噂の真偽を確かめに行きましょう!」


 上機嫌にそう言う烏羽を、花実は胡乱げな目で見上げた。この男は言う事がコロコロ、ころころと変わって本当に落ち着きがない。そんな視線に気付いたのか、彼は意地の悪い笑みを浮かべてみせた。


「おや、不満ですか? ふふ、ですが召喚士殿。如何に貴方様と言えど、人の子と言えば人の子。私抜きでは結界の外に出る事、叶いませんよ。ええ、そう、私を連れて行く必要があるのです。ならば、私の機嫌が良いうちに向かうのが吉では?」

「……はぁ」

「ええ、お返事をしては下さらないのでしょうか? 寂しいものですね」


 神経を逆撫でしてくる烏羽は無視し、一先ず村の外を目指す。愉しげな笑い声を漏らした彼が嬉々として態とらしい足音を立てながら着いてくる。コイツは本当に性格が悪い。


 ***


 村の外に出る。入って来た場所とは違う地点から結界の外へ。

 そこで花実ははた、と足を止めた。


「――……?」


 空気がおかしい。まるで時が止まったかのように重苦しく、全身が気怠くなってくるような心持ちだ。未知の感覚に首を傾げていると、烏羽が面白おかしそうに言葉を紡ぐ。


「召喚士殿。ええ、ここは既に汚泥がいつ出て来てもおかしくはない、沈んだ土地の一歩手前。ゆめゆめ気を抜かれぬよう。いつ頭からパクリと喰われてもおかしくはありませんよ」

「汚泥が?」

「ええ、ええ。汚泥の侵略を受けて輪力が枯渇している様子。息苦しく感じるのはそのせいです。ふふ、平和ボケした貴方には少しばかり苦しいかもしれませんね、ええ」


 輪力とやらが減るとこうなるのか。先程、薄桜が村内の輪力を減らしたくないと言っていたのがよく理解できる。数分程度ならどうという事もないが、この息苦しい空気がずっと続けば気が変になってしまいそうだ。

 時折ふと忘れてしまう事があるのだが、これはゲーム。演出だとしたらとても凝っているが――


「召喚士殿? ああ、恐がらせてしまいましたか。ええ、そうですとも! 恐れる必要などありませんよ、何せこれはげぇむ。フフ、気を張る必要など端から無いでしょう? ねえ?」


 ――このタイミングで、何故嘘を?

 驚きの虚言だった。本当は何を伝えたかったのか、自分を恐がらせる為の出任せなのかまでは分からないけれど。


「ああそれと――」


 考え込んでいると、ぐっと距離を詰めてきた烏羽が軽く屈み、囁く。内緒話でもするような距離感に、背筋に嫌な汗が伝った。主に気味の悪さとかで。


「先程から、熱烈な視線も感じます。ええ、何者かが我々の事を見ているのかもしれませんねえ。誰なのかは全く分かりませんが」

「近い」

「おっと、これは失礼」


 肌に感じた生温い吐息、両手で押し返した人体の温かさ――それら全てがあまりにもリアルで戦慄する。あれ、いつからホラーゲームが始まったんだっけ? そう現実逃避する他無かった。

 困惑が表情に表れていたのだろう。烏羽はニマニマと性格の悪そうな笑みを浮かべている。


「私に憤るのは一向に構いませんが、ええ、それどころではないようで。ほら、あそこ」


 せめて一言文句でも言ってやろうと口を開きかけた所で、烏羽が花実の背後を指さす。彼の視線もまた、自分を飛び越えて遠くに向けられているようだった。

 挙動不審のような動きで振り返る。


「あっ!」


 コールタール状、濃紺色の物質。社での戦闘チュートリアルで見たそれは、どこからかずるりずるりと這い出てきている。生き物のように動いているが、まるで生き物には見えないという矛盾。この物体よりまだミミズなどの方が生き物らしいと言えるくらいだ。

 ぞわぞわと、烏羽の時とは比べものにならない悪寒がこみ上げてくる。これは恐らく、生理的嫌悪であり生物的な防衛本能に他ならない。

 非常に動物的な本能が告げている。この物体に触れてはならない、近付いてはならない、出来るだけ忌避すべきだと。


「汚泥ですね。ええ、もう珍しくもない物体ですが、召喚士殿が実物を見るのは初めてですねぇ。ええ。社でのあれはちゅーとりあるしすてむが造り出した幻術。本物とは比べるべくもありませんでしょうね」


 クツクツと烏羽が嗤う内に、汚泥はウネウネとその姿形を変える。それは、四つ足の獣の姿を形取った。

 見た目は大型犬。しかしゴールデンレトリバーのような愛らしいものではない。もっと野性的で、そして攻撃的だ。唸り声は低く、獣の影でありながら覗く牙は非常に鋭い。人間の肉など簡単に引き裂き、食い千切る事が出来るだろう。


 ――さて、プレイヤーは特に何もする事がない戦闘のお時間だ。

 本当にやる事が無いので烏羽が奴等を一掃するまで待とうと、その場で静止する。


「……」


 グルルルル、と唸る獣の影達。それを烏羽が――


「……ちょっと? 何で突っ立ってるの?」


 一向に動こうとしない神使に対し、思わず口に出してそう尋ねる。見上げる程、高い位置にある顔は何故か真っ直ぐに自分を見ていた。一体何だと言うのか。

 問いに対し、彼は悪気など微塵も無いんですよとでもアピールするかのように、胡散臭く爽やかな表情を作った。


「いえ、いつ戦えと指示が出るものかと待っておりました」

「は? 昨日のチュートリアルは自動で戦闘してたじゃん」

「今日はよくお喋り頂けるので、指示待ちをする方が正解かと。ええ」

「いいから早く! 戦闘です!!」

「承知」


 からかって遊んでいただけなのだろう。望み通り指示とやらを出したと言うのに、彼は真面目な面など見せなかった。ただただ嗤っているだけだ。


「ふふ、主人であるはずの貴方様が私の要求に応じる――これでは、どちらが主だか分かったものではありませんねぇ、ええ。ああ、失礼。皮肉ではありませんとも!」


 ――やっぱりちょいちょい恐いんだよなぁ……。

 品定め、どころか玩具扱いされているように感じる。相手はデータなのでそんな馬鹿な事が起こるはずないのに。声優やモデルの演技力の賜物と言うべきなのだろうか。複雑な心境だ。

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