第9話 恋愛マニュアル

 アルオニア王子の恋人役になる契約書にサインをした、その一時間後。

 わたしは王子に会うために、屋敷の長い廊下を歩いている。重くて長いため息しか出てこない。


「三人ともおもしろがっている、よね?」


 オルランジェとマッコンエルが意見を出して、ヴェサリス執事がそれに許可を出すという形で、恋愛マニュアルその一が完成した。

 オルランジェが紙に書いてくれた、イラスト付きの文章を思い出す。



【恋愛マニュアルその一。王子の部屋に入って、おしゃべりを楽しんじゃおう!🤗】



「いきなり難易度が高くない⁉︎ 楽しいおしゃべりなんて、無理だと思うんだけど……」


 トレーに乗っているのは、オルランジェが用意してくれた紅茶。

 紅茶を差し入れするだけならなんてことないのだけれど、おしゃべりをするかと思うと、気が重い。

 王子の部屋の前で足を止めると、またもやため息が出てくる。ノックする勇気がどうやってもでてこない。


「なにを話せばいいの?」


 嫌な想像がむくむくと沸いてくる。

 たとえば思いきり嫌な顔をされて、「契約上の恋人なのに、プライベートに入ってこないでくれる?」と拒絶されたり。

 はたまた侮蔑の目で、「恋人気どりをするのはやめてくれ。迷惑だ」と冷笑されたり。

 冷たく突っぱねられる想像しかできない。


「入りたくない。逃げたい。うー、胃が痛くなってきた。どうしよう……」


 ノックをしようとする手を、出したり、引っ込めたり。

 どうしても後一歩のところで勇気がでなくて、うんうん唸っていると、いきなりドアが開いた。

 

「誰かいるのか?」

「ひゃあーっ!!」


 調子の外れた悲鳴とともに、視界が流れる。天井が見えたかと思うと、次の瞬間にはお尻を床にぶつけていた。

 あまりにも突然ドアが開いたので、自制がきかなかった。

 派手に後ろに転び、その弾みで、トレーを手放してしまった。カップの割れた音が静かな廊下に響く。

 おそるおそる顔を上げてみると、アルオニア王子の服が濡れている。転んだ拍子に、紅茶をかけてしまったらしい。


「も、申し訳ございません!! 熱くはないですか⁉︎」

「…………」


 なにが起こったのか信じられないといった顔で、目を丸くしている王子。

 わたしはクビを覚悟した。

 どうしてわたしはこんなにも要領が悪くて、不器用なのだろう。真面目に頑張っているつもりなのに、空回りしてばかりいる。清掃の仕事でも、時間内に掃除が終わらなくて、上司にしょっちゅう怒られていた。

 情けなくて自己嫌悪にかられていると、クスクスという忍び笑いが聞こえてきた。


「君といると、初めてのことばかり起こる。川に落とされるし、紅茶をかけられるし。僕に恨みでもあるわけ?」

「そんなっ! 恨みなんて、あるわけないです!! むしろ、恨まれるのはわたしの方というか……。粗相ばかりして、すみません……」

「ふっ。まぁ、いい。僕の部屋で待っていて」


 アルオニア王子は、シャワーを浴びるために部屋から出ていった。

 割ってしまったカップは、音を聞きつけた使用人たちによって迅速に片付けられ、オルランジェは新しい紅茶を用意してくれた。

 平謝りするわたしに、オルランジェはお茶目顔でウインクをした。


「さすがはリルエちゃん! インパクトの強い出だしだわ。王子にとって、一生忘れられない思い出になったと思うわ!」

「今すぐに忘れてほしいです……」

「リルエちゃんって、相当におもしろいキャラだわ!」

「慰めてくださって、ありがとうございます……」


 オルランジェが部屋から出て行くと、わたしはソファに腰を下ろした。

 背中を丸めて待っていると、シャワーを浴びてきた王子が部屋に戻ってきた。

 わたしはバネのついた人形のように飛び上がると、バスローブ姿の王子を直視できず、腰を直角に折って謝罪を口にする。


「本当に、本当にすみませんでしたっ! 今後二度とこのようなことがないよう、注意します。気をつけます。ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。あの、火傷はしていませんか?」

「そういえば、紅茶が冷めていたようだ。僕の部屋に来るまで、寄り道でもしていた?」

「あ……寄り道はしていないのですが、その……ノックをする勇気が出なくて、しばらくドアの前にいました……」

「僕がドアを開けなかったら、一時間でも二時間でもドアの前にいたわけ?」

「そこまでは、さすがに……。わたし、クビですよね?」

「クビにはしない。君がそそっかしいのは、初めて会った日から知っている。いい加減、顔を上げてくれない? 話しづらい」


 腰を起こすと、バスローブから覗く王子の鎖骨が目に飛び込んできた。心臓が飛び跳ねる。

 わたしは慌てて顔を背けると、羞恥心で頭がのぼせてしまったのか、言わなくてもいいことを口走ってしまう。


「そ、その、オルランジェさんから王子は紅茶がお好きだと聞きまして、それで、あの、王子が特に好んで飲まれるという紅茶を、その、二人で飲みながらおしゃべりをしてみてはどうかと薦められまして。なにを話したらいいのか見当がつかないまま、お部屋に伺いました。でも、その、勇気が出なくて、ドアをノックできなくて、困っていたんです。なにが言いたいのかというと、その……ドアを開けてくださってありがとうございましたっ!!」

「ぷっ!」


 思わずといった感じで、王子は吹きだした。


「しどろもどろに話しすぎ。それに、なにを話したらいいのか見当がつかないと言っている割には、僕よりもだいぶ話していることに気づいている?」

「あ……本当だ……」

「君って、だいぶ変。少なくとも、僕のまわりにはいないタイプだ」


 楽しそうに笑う王子。目尻が下がって、ふわりとした柔らかな表情になる。

 他人を寄せつけないクールな人でも、優しい顔ができるのだと驚いてしまう。

 わたしは瞬きするのも忘れて、その笑顔の優しさに見入ってしまった。



 

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