第8話 いざ郊外へ

 翌日の早朝。先にマンションを出た泰介は周囲を見渡した。付近に怪しい車や人影は見当たらない。朝早くから行動するとは予想しなかったのだろう。

 確認は済んだ。一旦自宅へと引き返す。


「いこう、美桜。今なら平気だ」


 首肯しゅこうした彼女が部屋から出てくる。鍵を閉め、急いで部屋を後にした。

 向かう先はまだ調べていない場所──美桜の家があるはずだった郊外の住宅地だ。ここから歩いて二〇分くらいのところにある。


「雨か……美桜、平気?」


 マンションを出た直後、後ろにいる美桜に声をかけた。白のシャツに空色のキュロットスカートという夏らしい格好をした彼女が目に映る。


「うん。傘あるでしょ?」

「あるよ。って……あれ、美桜。傘は?」

「家には一本しかなかったよ。だから入りまーす」


 なんの前触れもなく美桜が傘の中へと入ってくる。よく考えると一人暮らしなのだから余分な傘がないのは当たり前だった。

 傘を持つ二人の手が重なり合う。仲睦まじいことを表すかのように。


「な、なんの冗談ですかね……美桜さん?」

「だって濡れたくないもん。それにほら、玉川って人は私が漂流物って知らないんでしょ? ならこうやって相合傘で恋人装ってる方が怪しまれないかなーって」

「なるほど……」


 一理あると泰介も膝を叩いた。変によそよそしい態度よりかは恋人として当たり前のように振る舞う方が自然だ。

 ただ納得していないこともある。


「友達じゃダメだったんですかね?」

「いやいや。男女二人が部屋から出てきて、朝から外出だよ? 友達は無理でしょ」

「あー……それはそうですね、はい」


 自分のしてきたことを思い返すと急に棒読みになった。思えばとんでもない状況だった。

 見知らぬ女子高生を家に連れこんで、半同棲まがいの日々を過ごして……よく手を出さずにこらえたと自身を褒めたくなった。


「わかったら、ほら。いこ?」

「う、うん」


 二人は再び歩を進める。雨音はしとしとと聞こえる程度で強くはない。

 目的地に着くまで、泰介は天国と地獄を彷徨さまよい続けた。手を繋げた嬉しさと想いを押し殺さなければいけないわびしさ。

 美桜に近づくたびに買い替えたシャンプーの匂いが鼻腔びくうをくすぐり、なおさら心を掻き乱す。心の矛盾がなければどんなに楽だったか。

 頭を切り替え、それから二〇分かけて心臓を落ち着かせた。タイムスリップの考察を頭の中でしていたら、ほんの少しだがマシになった。


「ここ、ここだった確か。私がマンションに戻ろうとしてたどり着いた場所」


 郊外を歩いていると美桜が白い家の前で立ち止まった。ふと近くの電柱を見遣る。記載されている住所は道中で彼女から聞いたものと同じだ。ここに間違いない。


「美桜が住んでたマンションって建ってから何年くらい経つ?」

「多分二〇年前後だと思う。綺麗なマンションに引っ越したなあって小さい頃に思った記憶があるから」

「ここらへんの雰囲気からして全く違うな」


 壁の汚れが目立っていないあたり、目の前の家は築一〇年も経っていないのだろう。周りの建物もほとんどが新しい家だ。美桜の言うような比較的古い建物は見当たらない。

 事前に調べていた泰介はおおよその見当がついていた。


「一時期この辺の空き家を全部不動産屋が買い取ってたって話があるんだよ。それがこの前話した一〇年くらい前の再開発の時らしい。だからこの辺は新しい家が多いんだろうな」

「不動産屋が買い取るくらいの再開発なんてあったかな……」


 納得のいってない表情を美桜が見せる。泰介は理由がわからず首を傾げた。自分の言葉に違和感はない。情報のソースは確かだ。

 ただそこはかとなく齟齬そごを感じた。タイムスリップしてきたとはいえ、美桜は自分とほとんど同じ時の流れを経験しているはずだ。違いはここ二、三年。なのに時たま話が噛み合わないことがある。

 目の前の家もそうだ。一〇年近く前の再開発時に建てたなら、二〇一八年ではまだ残っていたはずのマンションと矛盾する。


 ──なにかが確実にズレている。マンションを壊すほどの再開発? ここ数年……いやもっと昔から?


 頭を悩ませているそんな時。美桜があるものを発見し、傘から飛び出していく。慌てて彼女の後を追う。

 視線の先にあったのは神奈川県知事選の掲示板だった。候補者のポスターがびっしり貼られている。


「ねぇ、泰介。これおかしくない?」

「うん? なにが?」

「だって町田は東京でしょ?」

「あー出た出た。『町田は東京か神奈川か論争』。未だにする人がいるとは思わなかったよ」


 地元の人間ならではの語り草──それが『町田は東京か神奈川か論争』だ。

 車や電車などで移動すると一瞬だけ東京に入ったかと思ったら、また神奈川に入っている。そんな現象や立地を揶揄やゆして『町田は神奈川』なんて冗談を昔はよく口にしたと泰介は思い出した。


「じゃあ、泰介は神奈川だと思ってるわけ?」


 だがこの論争は。なぜなら──


「いや? どっちでもないだろ。だってだよ?」

「え……? 冗談でしょ?」

「冗談なんかじゃないよ。真相を調査してるのに嘘ついてどうすんのさ」


 美桜の表情が凍った。泰介にはなぜ驚嘆しているのか理解ができない。この街では当たり前の常識だ。


「どういう……こと?」

「町田は二〇一二年に日本初の経済特区化が決定して、二年後には実現している。だから一部住民には神奈川県知事選の投票権があるんだ。この地区の再開発だってその影響だって聞いた」

「経済特区!? 私のいた時代ではそんなできごとなかった! それじゃあ私がきたのって……」

「まさか……」


 刹那、美桜がきた時に話していたことを思い出す。


 ──「色々検索しても県知事選の記事とか知らない芸人のゴシップとかで見覚えないニュースばかりでした」


 あの時週刊誌にすっぱ抜かれたのは芸歴一五年以上の中堅芸人だった。八年前に漫才の大会で優勝してブレイクしたのだから、二〇一八年の美桜が知らないはずがない。

 つまり美桜の世界と泰介の世界の違いは。時間移動では辻褄つじつまが合わない。もし時間軸のズレが副次的な作用で本質的なものではないとしたら。


 ──「いっそどこかにいって自由になりたい」

 ──「このにもともと存在しなかったもの。言わばの歪み」


 美桜の願いと玉川の言葉がフラッシュバックする。ズレてはまっていたパズルのピースがようやく繋がった。


「タイムスリップなんかじゃない……だ」


 彼女がきたのは──並行世界だ。願いは言葉通りに叶っていたのだ。

 この宇宙にはありえたかもしれないIFの世界が無数に存在しているとされている。自分の世界と美桜の世界が分岐して繋がっていないのなら、家が存在しないことの筋が通る。


「その通りだよ」


 不意を突くように男の声が響く。停まっている黒のセダンからスーツ姿の男──玉川が現れる。

 泰介は身構え、守るように美桜の前へと出た。


「いやはや……別世界からの漂流物は女の子だったか」


 男の狐目が射抜くように美桜を睨む。

 玉川の意思は固かった。絶対に彼女をこの世界から排除しようという覚悟が宿っている。


「あなたは最初から知っていたんですか?」

「それはもちろん。我々が観測している事象は並行世界移動──パラレルシフトだ」

「別世界からの漂流物を排斥するのが……あなたの仕事」

「ああ。そうだけど……どうやら言葉がよろしくなかったみたいだ」

「え?」


 玉川は突然、ふっと笑みを浮かべた。まるで肩の力が抜けたように。纏っていたオーラが瞬く間に消える。


「確かに排斥はする。だがそれは存在を消滅させるわけじゃない。


 彼の言う『排斥』の真意を知った。

 送り帰すことで美桜の存在をこの世界から消す。異物という世界の歪みを取り除き、もと通りにする。そういう意味では『排斥』であることに間違いない。


「それじゃあ……」

「同行してくれるかい。詳しくは車内で話そう」


 美桜を見遣る。目があった瞬間、彼女は深く首肯した。


 ──これでいいのか……? けど、美桜が決意したのなら。


 従うしかない。泰介は渋々、車へと乗りこんだ。

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