エイリアンズ
とじまちひろ
プール
夜のプールは昼に見るかたちとまるで違う。粘度が高くて体の形にまつわりつくようなのに、どうしても白々しい。体を冷やす以上のことはけしてできず、沁み込んではいかない。
草野は泳ぐことが嫌いではなかったけれども、得意じゃなかった。二十五メートルを泳ぎきれるかさえ怪しい。はじめ、スクロールの練習でもしようかと思って泳ぎ始めたら、三メートルもいかないうちに夏帆にとめられてしまった。
「音も波もたちすぎ。激しく泳ぐのはやめようね。見つかっちゃうから」
普段の授業と同じように、草野は白の水泳帽をかぶっていたけれど夏帆は髪を一つに結わえているだけだった。長くて黒い髪が首の形に張りついていた。
「ウン、わかった」
それで床を蹴って歩いたり、腕を使わない背泳ぎをしたりした。自由時間はすぐに飽きる。
夏帆は黙々と泳ぎ続けていた。月の出ていない明るい夜で、水上からでは泳ぐ姿はよく見えなかった。水を掻く腕が、遠くで跳ねる魚のように時折水面で光る。草野は飛び込み台のすぐ下まで歩いていった。そして胸いっぱいに息を吸い込むと腕を壁に這わせ体が浮き上がらないようにしながら、水底に座り込んだ。
脚で壁を蹴ると、夏帆は床すれすれまで沈み込む。その瞬間は胴体一つしか持たない生き物のように手も足もぴったりとくっつけたまま水の形に体を這わせる。そして徐々に水面に浮き上がっていくのと同時に、水に従っていた手足で水中を掻いて進む。脚の動きは穏やかなのに、力強く大きな動作で、ぐんっと前へ体を運ぶ。水を跳ね上げた腕が、水中へ再び戻ってくるときも、その音は驚くほど静かだ。鰭のように平たく、青い足。
ふと夏帆が草野のすぐそばに立ち止まった。草野が水面に顔を出すと、夏帆は自分の鼻先に人差し指を押し当てている。強張った双眸からおおよその事態を察し、こっくりと頷くと草野は飛び込み台を背にして夏帆の隣に並んだ。そのすぐ後に、プールの傍に敷かれた砂利を踏む音が聞こえてきた。
「おい」
野太い声に思わず飛び上がってしまいそうになるのを懸命に堪えた。夏帆も指先が白くなるほど自分の肩を掴んでいる。
「おい、誰かいるのか」
懐中電灯の光が頭上を照らし、飛び込み台の影を濃く伸ばした。心臓が膨らんで、全身を波打たせているように感じる。草野は思わず夏帆に体を寄せた。冷え切った丸い肩が触れる。光はしばらくプールサイドやその周囲を照らしていた。出入口の白い柵で出来た扉をガタガタと鳴らして鍵が掛かっているのを確認すると、砂利を踏む音は遠ざかっていった。
草野たちはそのまま耳を聳たせていた。虫の声が随分と遠くに聞こえた。「でよう」と夏帆が言った。
「もしかしたら、鍵を取りに行ってるのかもしれないし」
「そうだよね。行こ」
プールから上がるとほとんど濡れたまま服に着替えた。ここに入った時のように、出入口の脇に置かれた靴箱の上に乗って、フェンスを飛び越えた。
夏帆がフェンスから地面に降りると、先に待っていた草野が歯を見せて笑っていた。そして待ちきれんばかりに走りだした。もう少しプールから離れるまで静かに行動したほうがいいと夏帆は思った。けれど草野が、夜の暗がりでもわかるほど期待に満ちた顔でこちらを振り返るので釣られて駆け出した。脚が地面を蹴るたびに、膝の裏側がぞくぞくした。
草野は足が速い。青いウィンドブレーカーを着た背中が少しずつ離れていく。もっとゆっくり走ってくれ、と言うのは癪だった。濡れた足がサンダルを上滑りする。
「う、わっ」
サンダルが脱げてしまい、地面の石を素足で思い切り踏みつけてしまう。尖ったものを踏んだのか、足の裏が一瞬燃えるように熱くなった。濡れた足に細かな砂利がつく。
「転んだ? 大丈夫?」草野は立ち止まった。
「平気、脱げただけ」脱げたサンダルを見つけ、足につっかける。足の裏を切ったのかもしれない。炙られるようにじりじりと熱が痛みに変わっていく。
「ねえ、夏帆の家ってどこだっけ?」
夏帆が追いつくのを待って歩きだした草野が尋ねた。「目の前」と平屋が並んだ一帯の一つを指さす。どこも明かりが灯っておらず、背の高い雑草が生い茂り、擦り潰した草の匂いがした。踵をつかないようにして歩く夏帆に、
「肩を貸そうか?」と言った。夏帆はそれを断った。そもそももう玄関前だし、肩を担がれて歩きやすくなるようには思えなかったから。
「どうぞ」
ガラスのはめられた引き戸を開けて、夏帆は草野を促した。家の中は暗く、蒸し暑かった。
通された居間は散らかっていた。朝にご飯を食べてそのままにして出ていったのだろう、食器が出しっぱなしで、床に靴下や服が投げ捨てられている。
「さっき、びっくりしたね。誰だったんだろう。用務員の人かな」
「誰だろね。わかんない」足洗ってくる、と夏帆は奥の部屋へ行ってしまった。
両親の実家に似ている、と草野は思った。古いものの匂いがする。箪笥を開けた瞬間や、埃かぶったごてごてした時計に近づいたときに立ち上る類のもの。
暑いので、クーラーをつけて床に座り込んだ。プールにいたところを誰にも見られてないといいのだけれど。いつもみたいにシャワーを浴びていないので、体中塩素くさかった。痛みを感じて足をあげると、床に落ちて固くなったパンくずが張りついていた。
学校のプールに侵入しようと言い出したのは夏帆だった。
二人の通う中学には備え付けのプールがあり、毎年夏の授業にはプールもあるのだが、今年から改修工事が行われるらしく、夏休み前にプールが使えなくなることが決まっていた。
冗談じゃない、と草野は思った。草野以外の生徒もそう思っていただろう。だって自分たちの代からプールが使えなくて、その前やその後の人たちは当たり前に改修後のプールに入れるなんて不公平だと思った。工事が行われるということは、夏休み中にプールが解放されることもなくなるということだ。
「でもさ、草野はプールの授業嫌いじゃなかった?」
その時二人は、屋上へ続く階段で弁当を食べていた。屋上自体は閉鎖されていて、続く階段も埃まみれで人が寄り付かないので、二人でお昼を過ごすときはいつもこの場所だった。
草野は大概一人か、生物部の部室でお昼の時間を過ごす。夏帆は別のグループで昼食をとるのだが、部活も委員会にも所属していないので、時々一人になる。そんな時は草野に声をかけた。
「プールっていうか、着替えの部屋がきらい。床に毛がびっしり落ちてるんだよ。濡れた足で、それを踏むんだよ、気持ち悪いよ」
「声が大きいってば」
糾弾するような口調に思わず咎めると、草野はぴたりと黙った。真顔のまま表情を変えないので、最初は夏帆も草野が気を悪くして怒っているのだと思った。けれども草野はこれが普通なのだ。彼女は相手の反応に合わせたり、態度を同調させたりしない。
草野のあだ名は「うちゅう人」だった。目が大きくて、眉が薄いところもちなんでいるらしいが、そこはやっかみだろうなと夏帆は思っている。することが突飛で、少しも譲らないから、大抵の人間に煙たがられている。大抵といっても、夏帆は草野の交友関係を把握しているわけではないので、少なくとも夏帆の周りの人間には疎まれていた。
「今年雨ばっかりだから、全然プールは入れてないのに。来週には使えなくなるんだよ」
ひどいよね、と草野は投げ捨てるような気のない声で呟いた。
「ふうん。……じゃあ、夜にプールに入りに行こうよ」
夏帆は、冷凍のハンバーグを入れてきたカップを箸でつつきながら言った。顔を見た途端に引っ込めてしまいそうだった。
「うちの家にいるの、今あたしだけだし。学校から近いから行きやすいんだよね」
あの時自分が何をしてみたかったのか、草野っぽい振舞いでもしたかったのかもしれない。口にしていている最中にも後悔が背中を這い上っていた。こんなのはあたし向きじゃない、と夏帆は思った。いくら変わっているといっても、草野と夏帆は特別親しくもなかった。
「……いいよ! 今ならさ、まだ許してもらえそうだもんね」
「許してもらえるって、なにが?」
「フホーシンニュー」
夏帆は不安で、おかしなことに喜んでもいた。階段に座ったままつま先立ちした草野の足元に目を落とした。あたしだったらこうは答えられないな、と思った。
シャワーを浴びて、ようやく塩素の匂いが薄まった。草野は髪を拭きながら、明かりのついた居間へ足を向けた。誰かと話しているような声が聞こえる。
「夏帆ちゃん、お風呂終わったよ」
「…ちょっと、買い忘れがあって外に出てたの。……うん。ごめんなさい。うん。そう」
草野に背中を向けて座っていたので気づかなかったが、夏帆は電話をしているようだった。相槌をうつばかりなので、誰と何の話をしているのかはわからない。草野は夏帆のそばに座ると、肩にかけていたタオルで頭の頂点から毛先にまで拭って丹念に乾かした。夏帆の右の足裏には大きなガーゼ付の絆創膏が貼られていた。プールから戻る時、躓いていたようだからその時に怪我をしたのだろう。草野は髪を拭きながら、夏帆の足の裏を見つめる。そして白いガーゼの下の傷がどんなものかを想像した。
「ねえ。……ドライヤー使えば?」
いつの間にか電話は終わっていたらしい。ちょっと不審そうな顔つきの夏帆が足を組んだ腿の下へ引っ込めた。
「平気?」「何が?」
突くように聞き返すと、草野は珍しくちょっと狼狽した様子で言った。
「怪我……さっき転んだの?」
夏帆はまともに草野を見ると、ふいと目を逸らした。たぶん、石でも踏んだんだと思う。白くふやけた手で、足の先を握った。「大丈夫だよ」。
ドライヤーをあてていると、夏帆が何事か話しかけてきたが聞き取れなかった。
「なに?」スイッチを切らないまま、聞き返す。
「さっきの電話。病院からだった」
「どうして?」
「おばあちゃんが入院してるとこ。一瞬危なかったんだってさ」
草野はドライヤーの電源を切った。今は髪を耳にかかるくらいの長さにしているので乾かすのもそれほど時間がかからない。「行かなくっていいの」と草野は聞いた。
「病院に? 遅いからいいよ。それにいつものことだし」
「そう。そっか」
よく見れば夏帆の髪は風呂から上がったばかりのように湿っていた。毛先が薄手のシャツを濡らして張りついている。ドライヤー使う? と草野は聞いた。夏帆はそれには答えなかった。
「草野、なんかさっき犬みたいだったよ」
「…いぬ?」草野は困惑して、なんで? と聞き返したが夏帆がつけたドライヤーの音にかき消されてしまった。なんだか痛めつけたがっているみたいだった。
夏帆は学校から近いという理由で、当時一人で暮らしていた祖母の家で生活していた。その祖母が倒れたのは一昨年の冬だ。それから今日までずっと入院していて、両親たちにそのことを伝えたのは先月のことだ。倒れた祖母に夏帆は口止めされていた。
すぐ退院になるから、黙っていてくれと言われた。退院の時期が伸び続けても、夏帆の母に口うるさく言われたくないから内緒にしていてほしいと頼まれた。その間にも何度か、祖母は危篤状態になった。母に祖母の入院を話したのは、もう夏帆が参ってしまったからだ。祖母の約束を守っているのも、母に隠し続けるのも、いやになってしまった。
母は一度だけ夏帆を詰った。祖母は母が見舞いに来た一度目だけ、夏帆をみじめっぽい目つきで見た。何をするのが一番良かったかなんて、夏帆にはもうどうでもよかった。自分が怒るべきなのか、白状なのかも、よくわからなかった。
和室に敷いた二組の布団の一つに草野がすでに横たわっていた。祖母がいたときはここに二人で寝ていた。祖母が入院したての時は、事情を知った友人たちが時々泊まりに来ていたが最近はそれもあまりない。夏帆だってもう、祖母がいないことに慣れている。
布団に入り込むと、体がどっと解けるのがわかった。やはり緊張していたらしい。隣できちんと目を閉じていた草野はやはり眠っていなかったらしく、ぱっと目蓋を開けた。丸くて大きな目だった。
「くさの」
「うん?」
「さっき、犬みたいなんて言ってごめん」
こちらに体を向けると「謝るようなことだった?」と混じり気のない声で尋ねられたので、夏帆は神妙に頷いた。
「夏帆ちゃんは、細かいことに気がつくね」
「細かいことじゃないでしょ」夏帆は欠伸をかみ殺した。
「繁華街で、わたしを引っ張ってくれたことおぼえてる?」
「……そんなこと、あった?」
うん、と草野はいとけない仕草で頷いた。
「歌唱大会の後さ、クラスの人たちで打ち上げがあった時、大きな声を出して暴れてる人がいたでしょ」
それはなんとなく覚えていた。学校行事の歌唱大会が終わった日に、繁華街のファミレスに打ち上げの名目で夏帆たちは集まっていた。ファミレスから出た時に、すぐそばの路面駐輪場で大人の男二人が口論していて、いい大人の罵倒し合いに気圧されしたのを覚えている。けれど、草野のことは記憶になかった。
「わたし、喧嘩してるのをつい、目で追っちゃって。ぼーっとしてると、見てるもののほうに近寄っていっちゃうんだ。だけど、夏帆ちゃんがわたしの服の裾を引っ張ったでしょ。近づいてかないように」
家に帰ってから気づいたの。ちょっと引っ張って、すぐぱっと離したでしょ。
「びっくりしたんだ」と草野は言った。わたし、そんなこときっと思いつきもしない。
夏帆は自分が草野を引っ張ってやったかどうかなんて、やはり記憶になかった。草野の言う通りなら、自分はそうしたかもしれないとは思う。子どもの頃、夏帆はぼんやりした子どもだった。しょっちゅう脇へ逸れていくから、母や祖母に引き戻されていた。仕草が体に染みついていた。
「それ、ほんとにあたしかなあ」泣きたいような甘ったれた気持ちになって、ことさら明るい声を出した。草野は話したことで気が済んだのか、今は重たそうなまばたきをしている。
「…夏帆ちゃんだったよ。……」
言葉尻が聞き取れないほど小さくて、間もなくして鼻から抜けるような寝息が続いた。まだ眠りは浅いだろうから、夏帆がちょっと話かければ草野はすぐに朦朧と答えてくれるだろう。時々、外を車が走り抜けて、家全体が揺れる。くう、と歯の隙間から息が漏れるようなかすかな音が聞こえた。夏帆は久しぶりに、さびしい、と思った。
「草野?」
声のする方に顔を向けると、夏帆が笑顔になるのに途中で飽きたような、ちょっと気の抜けた顔で立っていた。右足を少し引き摺りながら窓際に立っていた草野の隣へやってくる。
「何見てんの?」放課後の校庭は、部活動に勤しむ生徒であふれかえっていた。三年生は最後の大会になるのでどの部も熱心になるが、帰宅部の夏帆には関係がない。
「きおん」
何? と校庭を見下ろしたまま聞き返した。ここからでも、炎天下の中走り続けている野球部員たちが汗みずくになっているのはよくわかった。
「よくあんな汗が出るなあ、と思ってみてた」部活、やだなあと草野は言った。
草野も三年生だが、彼女の所属している卓球部は早すぎる予選敗退のため、後輩の指導をしにこいと顧問に声をかけられているらしい。
「夏帆ちゃん、足の怪我まだ治らないの?」
「毎日動かすからなかなか塞がらないんだよ」
そっかあ、と言いながら草野は窓枠に両手をかけて後ろへ体を傾けた。校庭の端にあるプールは昨日いよいよ使用禁止になった。足の裏に傷が出来た夏帆は、最後までプールの授業に参加することが出来なかった。小型のトラックが出入りし、毎日少しずつ資材が運ばれてきている。
「夜中にプールに入ったの、ばれないね」
「そだね」
鉄パイプ同士がぶつかり合って、間の抜けた金属音が人気のない廊下に反響した。
「草野さ」
「うん」
「歌唱大会の練習期間、うちのクラス毎回居残ってたでしょ。で、あたし毎回残らないで帰ってたのね。おばあちゃん今大変だからいいよ、って実行委員の子が気を使ってくれて」
「へえ、そうだったんだ」
「草野、あたしにずるい、って言ったの覚えてる?」
「そんなこと言ったっけ。言ったかな。おぼえてない」
夏帆はちょっと意識的なくらい平坦な声だった。だから、「怒ってる?」と尋ねた。
「まあ、むかついたんじゃないその時は。忘れたけど」
相変らず校庭を見下ろしたまま、こちらを見向きもしない。それでも草野が横顔を観察していると、目をぎゅっとつむって、下唇を薄く噛んで堪えきれないように笑った。
意地悪をされた気がしたのに、夏帆のほうがどっと安心しているみたいで草野は不思議な気持ちになった。なぜか一瞬だけ何をされても許してしまいそうだった。
「あたしあんときはね、もう全然お見舞いになんか行ってなかったの。学校からまっすぐ家に帰って寝てばかりいた」と夏帆は言った。
じゃあ、やっぱりサボってたんじゃんと草野が言うと「そうだよ」と夏帆は悪びれもせず答えた。
「どうして行かなかったの?」彼女の返事は早かった。
「行きたくなかったから」
水を吸いきれなくなったスポンジみたいに、体の表面に汗が浮き上がってくるのを感じる。夏帆は夏が嫌いではなかったけれど、こんなの一時でなければ耐えられない、と思った。
「ねえ、草野。これから一緒に病院に行かない。すずしいよ。あそこ」
「病院?」
うん、と夏帆は頷いた。笑っているのに、ちっとも目元の歪まない横顔を草野はじっと見つめる。いいよ。と応えた。それが声に出ていたかはわからなかったけれど、夏帆はふいにこちらを振り返った。いいよ。
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