第31話 純粋であるように
「天空の農園」と銘打たれたこの場所は、何だか自然にガチでケンカを売っているようにも見えるし、あるいは未来への可能性という気もする。それでも僕が思い出すのは稲部さんに勧められて読んだ、さる漫画の第一話だったりするんだけど。
ここは「農園」というだけあって、キチンと整理された西洋の庭園という感じじゃ無い。全体的な印象としては雑然、という感じだ。でも床はしっかりと整備されている部分が多いので……やっぱり、どこかチグハグ。
垂水さんとの約束が午後二時だったから、今はせいぜい四時ぐらいかな?
夏至がおおよそ一ヶ月後にやって来るこの時期なら、まだ空にはっきりと朱は見えず、何となく時間が間延びしてしまっているようにも思える。
入場者も、なんだか全員緩んだような表情をしている人達が多い――この時間帯にのんびりできるんだから、当たり前といえば当たり前だけど。
ただ一人、厳しい……と言うか、何だか泣き笑いのような表情を浮かべているのは小谷さんだ。
吹きさらしになっている「天空の農園」に穏やかな風が吹く。それはただ爽やかなだけで、ただ僅かに裾をゆらすだけの風だった。それなのに、この時の小谷さんは今にも倒れそうで。
――それに抵抗するように、何となく斜めで。
「いつから? それを言うなら、いぶきが生まれたときからずっとだよ」
何かを投げ捨てるように、小谷さんが答えてくれた。
「じゃ、じゃあ……」
寄り添うべき言葉は、とうとう、なのか、いよいよ、なのか。
冷めていく思考とは裏腹に、僕の口はうまく動いてくれない。
「六……いやもう七年前になるのか。仕事場に来た時は――」
「言っただろ。いぶきはずっと戦っていたんだ。だから僕はいくらでも甘くなるし、望みを叶えようとしたんだ……先生もそれを了承してくれてね。アンドレアのファンっていうのは――なかなか予想外で、可哀想だから会ってやろう、みたいな話にならなかったのは……」
そこで小谷さんの声は消えた。
そう……だな。それが果たして幸と呼ぶべきなのか、不幸と呼ぶべきなのか。
「……だけど、いぶきの戦いはいよいよ終わりそうだ」
突然、告げられた宣告。
半ばそれを覚悟していたはずなのに、それを小谷さんから知らされることで、僕の頭はさらに冷えていった。
「どこまで……どこまでが小谷さんの思惑だったんですか?」
「そんなものはね、全然だよ。僕は……」
再び小谷さんの声が消える。
でも僕は確認しなければならない――いや確認したかった。
「じゃあ、最初にいぶきの『続編』を“読みたい”っていう希望があって――」
「そこから違うんだ。最初からいぶきは、描きたい、って言いだしたんだよ。無茶な話だと思ったよ。でもね。僕はそれを叶えることにした。何せ君達親子の世話を随分した記憶があるしね。ここで協力して貰っても悪いことはない……」
「ええ。その点は、恨みには思いませんよ。むしろいぶきには助けられましたし……それはもちろん、小谷さんにもです」
「それはね」
小谷さんが苦いものでも飲み下すような、苦悶の表情を浮かべた。
「半分は僕の我が儘なんだよ。僕は君がそのまま埋もれてしまうのが、どうにもイヤだった。それで君が漫画に依存しているのをわかった上で、それを利用して、君にアシスタントの口を紹介してたりしたんだ」
「でも……それで助かったんですよ。そのおかげで致命的なまでに錆び付くことがなかったんだから」
「それは、今みたいな状況なったから逆算してるだけだよ」
再び小谷さんは、そんな風に言葉を投げ捨てた。
「結局、僕は君を積極的に背中を押すこともなかったし、君の家のおかしな具合を指摘することもなかった。とにかく中途半端だったんだ。お礼を言われるようなことは何もしてないさ……今だって『海と風の王国』を手放すことが出来てホッとしている部分がある」
――どうして小谷さんは、そんな風に自分を“悪者”にしたがっているんだろう?
でも、そんなはずはない。そんな事を言いだしたら、話が最初からおかしくなる。
「いぶきがあれほど描けたのは、小谷さんのサポートがあったからなんでしょう?」
「…………」
「だから、いぶきが“続きを描きたい”と言いだしても、それがまったくの夢物語では無くなった。それは――」
「ベッドで過ごすことが多かったあの子に、少し勧めただけだ。こんな事態を見越していたわけじゃ無い」
「それでも」
……いぶきは確かに、こうやって。
最初はいぶきの我が儘だったかも知れない。
でもそれは、僕の目に映ること全てを変えてしまうような影響があって。
それはきっと小谷さんもわかっているはずで、それは喜ぶべき……
「僕は、もっと無茶苦茶になると思ってたんだ」
小谷さんが、静かに告げた。
「いや違う。確かに、全て上手くいってるように見える。それが僕はイヤなんだ。僕がいぶきを利用して、全部仕組んだみたいで――でも、そんな事は全然違って」
「それは……」
「朋葉くんだってそう思ってたんだろう?」
――確かに、そう思っていた。
小谷さんは色んな事を見越して、それでいぶきの申し出を利用して。
「でも、だったら僕はあの子の希望まで利用して、それであれもこれも望みを叶えて、それで世話になったと思われて……確かに、それも悪なんだろう。でも僕が欲しかった悪はそんな事じゃ無くて、いぶきのためならなんでもやる……そんな悪なんだよ」
いつの間にか、陽の光に朱が滲んでいた。
柔らかな風は変わらぬままに。
小谷さんの悲痛な訴えを慰めるのは、風か光か。
少なくとも、僕はもう何も言うことが出来ない。
「そうじゃないとおかしいだろう? 全てをいぶきのために。あの子のためだけに、僕は動いていたはずなんだよ。そのはずなのに……そのはずなのに、僕はもっと純粋に――」
小谷さんが、むせたように空気を求める。
ただ、訴えたい言葉を形にするためだけに。
「――もっと純粋に、あの子の我が儘だけが浮き彫りになるように、そんな“悪”になりたかったんだよ。全部無茶苦茶になっても、決してあの子のことだけを忘れない、あの子のおかげでみんな幸せになったとか、そんな“おまけ”は必要じゃ無くて、ただあの子のことを直接――」
小谷さんの声が消える。
息が切れたとかそういうことじゃ無く――この時、小谷さんは受け入れたんだろう。
いぶきについての何かを。
あるいは、いぶきのなにもかもを。
僕はそんな小谷さんに掛ける言葉も見つけられずに、半ば呆然としたまま、黙って小谷さんを見続けていた。
そしてそれは、恐らく正解で。
だからこそ、それは小谷さんが嫌がった、純粋さを穢す偶然で。
やがて太陽が沈むように、僕たちはバラバラに「天空の農園」をあとにした。
――小谷さんとは、まだ会えていない。
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