第11話 残された未来
安原家が、このマンションの一室を購入した最大の理由は、同時に倉庫も借りることが出来たから、である。他のマンションの事情は知らないけど、このマンションは一階の半分ほどが入居者用の倉庫として設定されている。
これがなかなかうってつけだった。
父さんの――と言うか「やすはらなおき」の仕事道具をしまい込むのに。
空いている部屋の、それこそ押し入れであっても、母さんのことを考えると、持ち込むわけにはいかない。かと言って、捨てるのも論外だ。
今回は、そんな煮え切らない、あるいは徹底的な保留状態が役に立ってしまった形だ。
何しろ、倉庫の中には使われなかったネームが残っている。つまりファビオが撃たれた後の展開が、ネームの状態とは言え、残っているからだ。
僕はようやく秋めいてきた空気を纏いながら、薄暗い倉庫の中から目当てのネームを引っ張り出した。
一瞬、スマホでネームを写真に撮ってやろうかとも思ったが、思い直してスキャンすることにする。下手によれても面倒だったし。
だがすぐに後悔した。
スキャンしてる間にいぶきに送ってみると、スマホのディスプレイ越しに「早く早く」とせっつかれたからだ。スマホを使えないようにしておくべきだった。
それでも何とか、ネームをスキャンし終えてしばらく待つ。
『――なるほど。ファビオは助かるんですね』
どうやら、いぶきはネームの段階で内容を読み取る事が出来るらしい。それが確認出来たことは確かに成果なのだろう。僕としては、ちょっと厄介なことになった、と言うのが正直なところ。
当然、いぶきも自分の家に帰っている。確か東京の日野市とか言っていたかな。僕なんか正直言えば、東京に“市”があるなんて事を、いぶきに聞かされて初めて意識したレベルの“わかって無さ”だ。それでも漫画制作についての支障は今のところ発見されていない。
なにしろ一昔前なら机を並べて、という段取りになるところを、ネットの発達で随分勝手が変わっているのだから。けれど同人誌の入稿なんてものは十年以上前からネットを利用して行われていたわけだし、今の状態は時の流れを見れば必然だったのかも知れないな。
こうしてネームの検討をするぐらいは、お茶の子さいさい、と言うわけで――色んな意味で僕も小細工が出来ない。と、なれば正直に応じるしかないだろう。
「――そう。助かるというか、一命を取り留める感じだけど。一体どうなるんだ? という感じで一月引っ張ろうという目論見だな。で、その間に、周囲の状況を整理する」
『整理、ですか?』
やたらにいぶきの“敬語”比率が高くなっているのは、いわゆる「仕事」モードに入ってるからじゃ無いかな? 別に指摘する必要も無いから、そのまま進める。
「そう整理。『海と風の王国』は全てじゃ無いけど、参考にしている歴史があるだろ?」
『ああ、はい。イタリア、と言うかイタリアという国が成立する頃の歴史ですよね』
さすがに心得たもので、いぶきは即座に応じる。
つまりは、こういうストーリーラインだった――
――ファビオが尊敬し、その傘下に加わっていた将軍はもう一つのとある島を席巻していた。
何せ二つの王国があったはずなのに、それを両方とも倒してしまったのだから。この辺りの展開は日本の戦国時代とかに
その目的の果てにイタリア統一があったのかどうか……だが「海と風の王国」では、将軍にはその望みがあったという設定になっている。
実際、この設定でとりあえず矛盾は生じないし。
この辺りは、将軍の方がイケイケ状態なんだよな。
一方で、アンドレアの叔父にあたる政治家の方は……ある意味では派手とも言えるだろう。
実を捨てて名を取る、という定番の逆で結果を出してしまうキレキレの政治感覚に加えて「豪腕」とも言える権力奪取の駆け引き。
だが、これを漫画で描くとなると、工夫を凝らさなければ
バストアップだけで
俯瞰にあおり、アップにロング。効果だけのコマは当たり前だ――かと言って「ベタフラ」だけで回すわけにはいかないし。
そして背景にも随分助けられた。政治家の叔父は実は貴族位を持っている。そして舞台となるのは、そういった貴族達が集まる調度品にも凝った貴族の屋敷だ。
今の世の中、それっぽい資料写真を集めるのは、実はそこまで難しくはないのだけれど、それを漫画の背景として落とし込むのはまったく別な話になる。
前は稲部さんが腕を振るって、圧倒的な存在感を持つ背景で
……その辺りは「要・相談」と言うことで。
で、叔父は主にイタリア中部から北部に関しては合一を成し遂げつつあった。一方で将軍はイタリア半島南部に侵出する。その上陸の最中にファビオが撃たれてしまう、と言うところまでが「イカルガ」に掲載された部分だ。
大きな転換点を迎えたタイミングであるし、怪我をしたという知らせがアンドレアの元に届くまで、時間がかかる。いや、この段階でファビオとアンドレアの間にやり取りは無いから、そもそも連絡が来ない。
もちろん、将軍の部隊に襲撃があったことは伝わるだろう。しかしファビオがどうなったかまでは伝わらない。しかしアンドレアは何とか伝手をたぐり、ファビオの安否を確かめようとする。
その過程を描くことで、イタリアの当時の状況が整理されて読者に伝わる――ネームにはそのような事が描かれていた。
このネームについては当然、僕も稲部さんも知っている。小谷さんも。
それなのに、いぶきが知らないというのは……恐らくは、それを教えたところでどうにもならない、という判断があったのだろう。
そして今は、小谷さんがわざわざ、いぶきに教える必要は無いと判断したということになる。いやそれ以上に――
『ではまず、このネームを元にして原稿を完成させるのね』
僕の説明を聞き終えた、いぶきがそう告げてくる。
やっぱり、そういう判断になってしまうか。当然と言えば当然だが……
『何?』
「いや……見ればわかるように、ここから完成原稿に持っていくまでは並大抵のことじゃ無い。特に『整理』の最中は吹き出しだけだ」
その僕の指摘に、ディスプレイの向こうで、殊勝らしくいぶきが頷く。
「とりあえずは、このネームから、もうちょっとわかりやすいネームを完成させてみないか? 君の練習になるし、僕もリハビリになる。いや僕も練習だな。別にネームを作っていたわけでは無いんだし」
『そ、それは……』
「このネームは一本きりなんだよ。当たり前だけど。ここから先は、僕たちで全部作っていくことになる。そして満足なものが出来ないようなら――」
いぶきの眉根が寄る。
声を上げたいところだが「海と風の王国」の完成度を考えれば、ここで妥協も出来ない――この辺りが今、いぶきが抱えている
だからこそ、ここである種の方向性を示してやる。
「……僕の勘だけどね。多分こうやって、準備をした方が結局早くなりそうな気もするんだ。それに君のネームも確認したい。別に締め切りがあるわけじゃ無いし、とりあえずやってみてくれ」
『それ、明日に出しても良いんでしょ?』
今までの憂さを晴らすように、いぶきが何やら挑戦的なことを言いだしたが、僕の反応としては肩をすくめるだけだ。
「それでクオリティの高いものであるなら、僕としても助かる話だ。で、この方法に賛成と言うことでいいな?」
『ほんと~に、アンドレアそっくり!』
……ファンという話はどうなったのだろう?
とても憎々しげに、そんな事を言われてしまった。
そのまま切られるスマホ。
それを確認して、僕は光の消えたディスプレイを見つめ続ける。
――さて、このネームはボツ、と果たしてどういう風に伝えよう。
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