第7話 円環を歪めるもの

 父さんと母さんは駆け落ちして籍を入れた。

 何しろ明日をも知れぬ漫画家志望に嫁ごうというのだから、母さんの家族が心配するのも当たり前だろう。母さんの実家、迫井家とは今現在もほぼ没交渉状態だ。それはそれで潔い事だと思う。

 で、父さんもほとんど勘当状態で家を飛び出してきている。こちらの家とは交流があるのだが……

 実家との交流具合はともかく、馴れ初めあたりを何故僕が知っているかというと、そんな経緯というか惚気話を延々と聞かされていたからだ。どうかすると子守歌代わりに。いや、もしかすると胎教代わりに。

 僕が物心つかない頃は、当たり前に苦労したみたいなんだけど、その記憶は僕にはない。

 経済的にコンプレックスを抱いた経験もない。

 改めて確認はしてないけど、小学校に入る辺りで父さんは連載を持つことができたのだろう。で、そのまま人気作家に、という流れだ。

 そこに至るまで、父さんと母さんがどれほど苦労したのかはわからない。

 順調だったのか、それとも苦労だと感じてはいなかったのか。

 互いが互いを信頼し――いや言葉を選ばなければ、要するに「バカップル」だったのだ。父さんと母さんは。


 だからこそ、父さんの事故で母さんは……


 とにかく小谷さんに実務的には全面的にお世話になって、安原家の名義が必要な時には僕が処理していく。そんな状態が一年ほど。その間、母さんは動くことが出来なかった。心が生きることを拒否していた。いや、どうかすると本当の死を自ら選びかねない状態で、動けるようになることは、それは即ち自殺するためなのではないのか……?

 その恐怖は未だに僕の中にある。

 そこから母さんが「生きている」と思えるまで、三年ほどかかった。けれどもそれはヤジロベエがフラフラと揺れているような印象で。

 そして母さんが父さんの事をまったく口に出さないことにも気付いた。

 何かと言うと、父さんの惚気話をしていたのに、だ。

 ただ父さんを“無かったこと”にしているわけではなさそうで――それは母さんの表情を見ればわかる。ただ、とにかく触れないようにすることで、母さんは何とかバランスをとって立ち上がろうとしている――僕は母さんについて、そんな風に考えることにした。

 そして今、母さんは近くのスーパーにパートに働きに出ている。

 経済的には何ら問題が無い状態ではあるのだけれど、何かしていた方が良い、という何処かで聞きかじったような方法を実践しているようだ。

 その点では、僕の方がよっぽど、どうかしている生活……というか、どうか“していない”生活を送っている。

 何かしていると言える状態に僕がなるのは、まず稲部さんの手伝い。時には小谷さんの紹介で、別の仕事場に行くこともあった。つまり僕は半端に漫画制作にぶら下がっていて、それは母さんも知っている。それが母さんが父さんを無かったことにしていないと判断している根拠だ。

 だから僕たち母子は、互いに傷をなめ合っている、と言われるような状態なのだと思う。もっと厳密に言えば、傷に近付くことさえも怖がって、互いに遠巻きでグルグル回っているような状態、という説明が一番しっくりくる。

 互いに隙を窺っているようで、でもそれが何かを裏切るようで。

 それでも、この形はバランスが取れていた。それを積極的に崩そうという気持ちに、僕はなれなかった。




 稲部さんの手伝いに行った翌日――

 僕たち母子はいつも通り、八時に朝食を摂っていた。それなりのキッチンはあるのだけれど、居間にすえられたローテーブルの上で、所定の場所に腰を降ろして。

 長細いテーブルを前にして、僕は壁に向かうような位置。母さんはその左隣だ。父さんが生きていたときは、父さんが僕の正面に座っていて、テーブルの残された場所が空いているのは、そこが窓に一番近いからだ。

 採光のため、自然とそういうことになった。

 父さんがいなくなった後も、このポジションに変化はない。あるいはそれだけが父さんの名残……いや、八時に朝食、というのも父さんが生きていた頃のままだな。

 勤めに出ている人にとっては遅い時間なのだろう。朝食を終えて、桃山台まで出て、そこから……となると九時始業ではギリギリ過ぎる時間設定になる――多分。

 つまりは父さんに触れないようにしながら、それなのにその残り香の中で、僕たちは生活していた。はっきりとわかる変化は……僕が目玉焼きに醤油では無く、塩胡椒を掛けるようになった事ぐらいだろう。

「朋葉、小谷さんから連絡があったんだけど……」

「また?」

 しっかりと火の通った目玉焼きの黄身を箸で切り分けながら、僕は苛立ち半分に声を返した。

「はじめは小谷さんで、その後に姪御さんから連絡があったの。いぶきさんと言ったかしら? いつの間に仲良くなったの?」

 僕は思わず目玉焼きから顔を上げて、母さんを“観察”してしまう。

 視界に入ってくる順番に、薄いオレンジのシャツ、ショートにまとめた――父さんの好みだという――未だ艶やかな髪。年齢不詳と言えばそう言うことになるのだろう。四十五なわけだが。

 そしてその表情からは……とりあえず危険な兆候は感じられない。

 いぶきさんが“続き”を要求したのなら、恐らくこんな表情のままではいられないはずで……

「……仲良く……って事にはならないよ。前に梅田で会って――ああ、その前にラーメン……」

「そうそう、そのラーメンの話」

 ラーメン?

 一体、どういう話になっているのか、さっぱり見当がつかない。

「大学って、まだ夏休みでしょ? それで、それを利用して大阪こっちに遊びに来てるらしいの。基本は観光で、小谷さんが朋葉のラーメン好きを姪御さんに教えたみたいなのよね」

「……それで?」

 大体、大枠は見えてきた。

 どんな虚構を組み立てようとしているのか? の、大枠が。

 母さんに、本当のことを言わなかった分、こちらをおもんばかっているようにも考えられるが、逆に考えるなら「いつでも本当のところをしゃべるぞ」という脅迫が、この虚構には含まれていると考えるべきだろう。

 そもそも僕が昨日、稲部さんの仕事場に行っていたことは小谷さんは知っていたはずだ。

 それを見計らって、母さんに繋ぎを取っている段階で、むしろ脅迫の方が主目的だと考えた方が自然。

 そこまでやるか、とも思うが、そこまで考えた瞬間に思い浮かんだのは、別れ際のいぶきさんの笑み。

 それで確信出来た。出来たがしかし、ここから打つ手が見えない。

 とりあえずは母さんを納得させないといけないだろう。何やら母さんは伝言以上に僕に協力させることに使命感を抱いているようだし。

 そんな僕の推測の正しさを裏付けるように、母さんは僕の反応の鈍さに焦れたようで、こう続けた。

「だから、良いお店紹介して欲しい、って、そんな流れ」

「それはわかるけど、僕が行ってる店は別に有名でも何でもないよ」

「そんな事無いでしょ。五輪堂は……」

「家に近すぎて、逆に紹介しにくい」

 確かに「五輪堂」は名の知れた名店だ。それでいながら、住んでいるマンションから歩いて十分かかるかからないかぐらいの場所にある。そのせいで相手の真意が見えない以上、紹介することに躊躇いを覚えた。

 もちろん、母さんにはその辺りの“ふくみ”を察しようがない。理解出来ない、という表情を浮かべながら、こう返してきた。

「何? その理由――」

「わざわざ僕を指名したんだ。五輪堂はもう知ってるかも知れない。有名だから。となると……ああ、もう僕から連絡してみるよ。小谷さんに」

「そうね。それが良いかもね」

 とりあえず、母さんの納得は引き出せたようだ。ただの時間稼ぎにしかならないような予感はあるが……とりあえず、紹介するべき店をピックアップしておこう。

 母さんに言い訳がしやすい、そんな条件が揃ったラーメン店を。

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