第54話 第三戦 カリラ 後
半歩、早く動いていた。
予定より早く動いたのでも、調子を崩したのでもない。
自らの足が動くであろう場所に半歩早く到達していた。その半歩は、意識の上で置いた足と同時に出た。
うん、そうか。
わたしの足は、わたしの思う先にあるのか。
ほんの一呼吸早く、わたしの足は先の時間に踏み込んでいる。
そこにあってそこに無いような、そんな歩き方になっていた。
これでは誰でも斬れてしまう。
冬が過ぎてから、どうにも体の調子に違和感がある。
侯爵家の武人たちに、そして、わたしを見続けたリリーに気取られぬよう、真夜中に体を動かしている。
丑三つ時に、自らの体に探りを入れているのだ。
侯爵家の庭園は青ざめた月に照らされていた。
この足、まさしく神の一手に他ならない。
足なのに一手か、はははは。
偶然の神技ではない。わたしは常にこの足を踏み出せる。
この時機にか。
皮肉とはまさしくこのことだ。
天下無双を手にして、この時機にあるとは。
口元に歪に刻まれるのは、達人の芝居を始めてから戒めてきた外道の笑みである。
息吹の闇狩りとして、石を投げつけられる度に浮かべていた悪鬼の笑み。
はは、はははははは。
右の胸をまさぐるとしこりがあった。
不吉な感触のそれは、女の病である。
乳房の中に石粒ができて、それが大きくなるにつれて生死人の有様になる業病だ。
いい塩梅だよ。
何もかも上手くできている。
春を目前に咲く白い小さな花が、月明かりに照らされてうっすらと輝いていた。
リリーの好きな花だ。
あの子は、大きな花よりもこういった小さな花を好む。
この花は食べられるため、わたしはたまに食べる。茎は酸い味がして、口の中を爽やかにしてくれるし、歯の病にかからないようにもしてくれる良い花だ。
名前は知らない。
リリーが甘いものを食べるのが好きなために、無理矢理に食べさせている。侍女殿が黙認しているということは、正しいことなのだろう。
わたしの正しき天命は、手に入らぬということ、それそのものであったか。
天運極まるとはこのことだろう。
おのれ、おのれ、おのれ。
坊主共の言う神よ、呪われろ。
わたしの天運は遅きに失するというのか。
今まで何一つ、何一つ手に入らなかったというのに、またしても。
時を置き去りにする必殺の半足は、死の業病がもたらしたものか。
時は穏やかに過ぎていく。
リリーは健やかにして、剣を諦めるそぶりが無かった。
侯爵閣下も困り顔であったが、わたしも今さら止めましょうかとは言えない。
癇癪を起したリリーを何度か叱っている。
そのたびに、これでなんとかなったと安心した。そんなことがあった矢先に、リリーはこっちに抱きついてきたり、ごめんなさいと謝るのだから、破門だなどと言えなくなってしまう。
木刀はもうすぐ完成する。
修行であっても真剣を振ることが少なくなった。
身体が少しずつ、確かに衰えていく。
老いではなく、乳房に生じた石が大きくなっているせいだ。
乳房を切り取れば良いとも云われているが、それで病魔が去ったという話は聞いたことが無い。
死にたいと願ってきたが、本当に死にたかったことなど一度も無かった。
自死とはそういうものだ。
死ぬしか無いから、それしか選べなくなって死ぬのである。
潮時か。
リリーは木剣を振る。
大振りにする癖が治ってきたので、今は歩きながら振ることを教えていた。
これはなかなか難しい。
相手は動くものだから、こちらも動いて剣を振らねばならない。
騎士剣は叩くことで殺せるが、女が扱うには向いていない。
切れ味の鋭い片手剣は、包丁を大きくしたものだ。斬るための包丁であれば、力に劣る女にも使える。
人を斬るための包丁は、女に相応しい武具だ。
この世に満ちる悪意を断つには、力がいる。
リリーの顔立ちは絶世とはいかなくても美しくなるであろう顔立ちだ。そして、侯爵家の権勢は揺ぎ無い。
充分に力はある。有りすぎるほどだ。
剣を多少使えるのなら、それもまた力になるだろう。
弱い者が踏みつけられるのは当たり前のこと。
それでも、弱いものに何をしても良いという訳ではない。だというのに、人は弱さに喰らいつく。
揺ぎ無き力があれば、リリーの幸せも揺るがない。
剣の振り方の次は、受け方だ。
振り方の素地はできた。受け方も必要だ。
わたしは、リリーに死んでほしくない。受け方と逃げ方、馬の乗り方も必要だな。
リリーは飽きずに歩き、今は木剣を振っている。
自分を守る術だけでも教えよう。
季節は廻り、リリー十歳の誕生日を祝う祝宴が開かれた。
この祝宴は社交界への顔見せを兼ねる。
いつものように、わたしは護衛の役目を果たす。
何度か狼藉者が現れたことはある。しかし、そのほとんどはわたしが出るほどではなかった。
肌にびりびりと伝わる何かがある。
何か、来たな。
身体の具合はよくない。
どうにも
宴の中で暗殺者を捜すのは難しい。
近くの騎士に気をつけるよう言い含め、侯爵家の細作にも伝えた。わたしとかち合うだろうか。いや、避けるはずだ。
細作というものは戦士ではない。
わざわざ、わたしのような難敵を相手取りはしないだろう。
普通に考えれば、そうなる。
来たか。
何人だろうか。二人、三人。
狙いは侯爵閣下か、それともリリーか。
ああ、そうか。
リリーを狙うのであれば、わたしの敵だ。
どうして自分でもこんなことができるのかは分からない。しかし、分かる。暗殺者の持つ冷たい殺気が分かる。
足は勝手に動く。
目までわたしの意識から外れて動く。
おい。外でやろう。
年のころなら十二歳かそこら。月のものが来ているかも怪しい少女は、笑みのまま凍り付いている。
「何用でしょうか」
ここでやると床が汚れるし、宴が台無しになる。外でやろう。
言って、剣の柄をぽんぽんと叩く。
幼い貴婦人は笑みを浮かべたままだ。
面倒だが、侯爵閣下の顔を潰す訳にもいくまいよ。
薄暗い所にいるのは見て分かる。
促すと、大人しく従った。
庭園に出て、さらに歩いてわたしが修行に使っている広場へ出た。物置小屋と使用人のための蒸し風呂がある場所だ。
「どうして、気づいたのですか」
隠せるものでもないよ。わたしも、そっち側だからね。
幼い貴人に化けていた細作は笑った。
その笑みは、どこか素直なもので、わたしも笑ってしまった。
わたしが剣を抜こうとする前に、少女は突如として動いた。袖に隠した針か、それとも内太ももの短剣か。
剣を抜くのにも時間がかかる。昔なら一呼吸で抜けたというのに、今は三つも呼吸しないと抜けない。随分と弱くなってしまった。
足は、やはり半歩先に出ていた。
どうしてそうなるのかさっぱり分からない。
少女の脇をすり抜けながら、ようやく抜いた剣を少女の白いうなじに差し込んでいた。
痛みもあるまいな。
それにしても、わたしはどうやって刺したのか。全くもってよく分からない。
勝手に半歩が先をいく。この半歩は時間を飛ばしたように、先に進んでいる。
我ながら、全く意味が分からない。ただ、これならだいたいのものは斬れるなと思う。不思議と、このような芸を会得したというのに嬉しいとも思わなかった。
細作の正体は知れなかったが、この夜会では数人の暗殺者を斬った。
後のことは侯爵閣下の仕事でもあるし、貴種の争いはわたしには分からない。ただ、リリーが三人もいる皇子、その誰かと婚約するであろうことは噂に聞いていた。
こんなものが放たれるような世界か、上というものは。
地を這いずり回る我らとは違うが、斬れば死ぬは同じ。
この細作がリリーを害していたら、わたしはどうしただろう。
想像しただけで、胎が熱くなった。わたしのなかに潜む蛇が、鎌首を持ち上げる。
少し、真面目に仕事をすることにしよう。
剣など所詮は芸の一つ。ようやく、使える芸が出来た。今のわたしなら、競わずに斬れる。
穏やかな日々の裏で、細作の暗躍はあった。
侯爵閣下の細作とはあえて顔つなぎもしていなかったが、宴の日からは彼らと連絡を取り合っている。
リリーの近くにいるのはわたしだ。
このわたしがいる限り、あの子に手出しはさせない。
少しずつ技を教えている。だが、それでは足りない。
侯爵閣下には、かつて敵であった恐るべき細作一族の名を伝えておいた。庇護を与えれば、
侯爵閣下はそれを聞入れてくれた。
これで、出ていける。あとはどこかで死ぬだけだ。
死期を悟った猫はどこぞへ消えるというが、これが猫の心持(こころもち)であろうか。
そのようことがあり、わたしはリリーにこう言った。
令嬢の修行もしなさい。
春の麗らかな陽射しのもと、リリーは口を開けたまま固まっている。
はっきりと言えば、剣の修行は控えろという意味になる。この子はそういう所が鈍いため、駄々をこねるならはっきり言わねばならない。
この子に出ていくことは伝えられそうにない。
もう旅の支度は整えていた。
ここにいたことは、わたしにとって幸せな時間だった。
「いやです」
わたしも別れたくない。
だが、出ていかねばならない。
そうしないと、わたしの胎にいる蛇が起きてしまう。
何か答えねばならない。
口元に笑みを浮かべることは、できた。
どうして、こんなことをしても幸せにはなれないよ
わたしの疑問だ。
剣で得られるのは憎しみと恨み。
誰よりも知っている。どれほど強くなろうと、わたしは惨めであった。
心が休まる日など、あるはずもない。こんなにも、剣はわたしの大切なものを斬り捨ててきた。
「師匠みたいになりたいって思ったの」
その言葉に、わたしはどうしていいか分からないほどに、心を揺さぶられた。
リリー、どうして、どうしてそんなことを言う。
わたしには価値など無い。
あると信じた価値はどこにもなかった。いつも心にはあった。どれほど世から疎まれようと、天下無双であると。
天下無双であれば、我が名は後世に遺るほどの英傑として讃えられようと。
そんなことはなかった。剣など芸に過ぎず、高名な達人など貴種ばかり。天下無双に価値はあった。だが、わたしという人間に価値がなかったのだ。
なのに、ようやく出会えたリリーが言うのか。
わたしの宝物であるお前が、わたしのようになりたいなどと。
胎の奥で蛇が目を醒ます。
嬉しくて、哀しい。
笑っているのか、泣いているのか、それすら分からない。
それでも、言葉は出た。
胎の奥にいる蛇が、鎌首を持ち上げて口を開き、赤い舌を出す。
『そうか、お前が私の運命であったか。令嬢の修行をして、その後で教えよう。時間がある時は歩法をやりなさい。それから、これをあげよう』
リリー、私の可愛いリリー。
お前のための木剣は無駄になった。いいさ、あれは私には必要ないものだ。
誕生日に渡してきた木剣ではない。息吹の業を遣うための、木刀。
私を苦しめ、我が師の頭蓋を叩き壊し、どれほどか分からぬほどの血と息吹を吸い続けた木刀を渡そう。
その木刀は、私そのものだ。
『ああ、それから、今日からは息吹を教える』
私の可愛いリリー。
私の全てをお前に伝えよう。いつまでも、私が守ってやろう。
お前こそが、私の欲しかったものだ。
だから、お前に全てと力を与えよう。私の得たもの全てを。この憎しみに満ちた私が得た天下無双を伝えよう。
私はようやく一番欲しかったものを手に入れた。
ある程度の時間を準備に費やして、誘拐同然にリリーを連れて侯爵領を出る。
そのころになると、リリーは息吹の呼吸法を多少とはいえ使えるようになっていた。
追手は全て斬り捨てることとなった。
共に笑い合い暮らした騎士であっても、斬ることにためらいはない。
弱いくせに私からリリーを奪おうとするからだ。
少し悪いことをしたという気持ちがある。彼らは、リリーに見せないために、寝静まってから襲い掛かってきたからだ。
私の愛するリリーは、私以外からも愛されている。少し、気に入らない。
厳しい修行と共に街から街へ。
良いことも悪いこともあった。
リリーは帰りたいとは言わなかった。時には言ったが、なんとか宥(なだ)めている。
リリーの書いた無事を知らせる手紙の大半は、飛脚に渡すふりをして握り潰す。時には、追手を撒くために別の街から出すこともあった。
侯爵閣下、お許し下さい。
この命、もって五年ほどでしょう。命尽きるまで、それまでリリーは私のものだ。
世慣れないリリーを連れての旅は、なかなかに大変だ。
旅籠では女児というだけで危険が伴う。
リリーにはそれに対する対処も教えた。身を守るというのは、正しい力の遣い方だ。
とある宿場で、リリーに手を出そうとした男がいた。身なりからして貴族ではないため、丁度良い。
人さらいの男の手首を斬り落とし片足の腱を裂いた。そして、放逐する。ここで殺しても誰からも文句は出ない。むしろ、持ち物を路銀に換えることができる。
本来はそうするべきだが、剣の達人であるのだから追剥じみた真似はできない。仕置きで止める。
それに、あの男が惨めに野垂れ死ぬのは当然のことだ。生き延びたとしても、地獄であろう。私のリリーに触れようとしたのだから、温すぎるほどの報いである。
リリーに格好の悪い所は見せられない。
宿場ではついつい甘やかしてしまう。
食べ物を与えてしまうのは悪い癖だ。
この子は美味しそうに食べる。
傭兵の母娘に見られることもあるほどに、リリーは懐いている。たとえ、顔かたちが違い、髪の色まで違っていても。
修行を続ける内に、形になってきた。
かつて、私が頭を叩き潰した師のやり方は、多数に教えて覚えられない者を間引くものだった。リリーにそんなことはしない。
できないことは、何度も繰り返して覚えこませる。
私ですら、正しい形を得るのに長い年月をかけた。模倣で良い。足りていないのは実際に斬ること。
隊商の護衛として雇われた際に、リリーに一人与えた。
野盗が出るのは知っていた。商人が通行料を払う前に挑発し、一人斬る。そうすれば、思っていた通りの戦いとなった。
騎士崩れや兵士崩れであれば危険もあったが、食い詰め者が集まっただけの野盗である。弓持ちを最優先で斬れば、危険はなくなった。
十人いても負けはしない。
リリーに与えたのは、農民の息子が棒を持ったにすぎない少年であった。
身体に力が入りすぎている。さあ、いつもの練習と同じように。
リリーの性質は、戦いの中で熱を帯びて狂うものだ。石の如く冷たい私とは違う。さあ、斬るのだ。中にある力を解き放ち、肉の塊に変えてしまえ。
どうせ、価値の無い命だ。リリーの糧となれれば、そこに価値が生ずる。だから、さあ、その頭に打ち込みなさい。
手すら出せないか冷や冷やされられたが、なんとか打ち倒してくれた。
リリーは優しくて良い子だ。
野盗の命を奪うことをためらってしまうほどに優しい。
仕方あるまい。貴種として蝶よ花よと育てられたのだから。
人が難しいなら、怪物も斬らせなければ。
それから帝国領内を周り、最後は山に行きついた。
ここに住む山の民に貸しがある。
追手がここを見つけることはないだろう。
人の住んでいない場所に腰を落ち着けることができた。
子供のころに修行をしていた場所とは似ても似つかない。あれはシラミの巣だった。修行により与えられたのは痛みだけ。誰かと自分のすすり泣きを子守歌代わりに震えて眠る。
そんなことはしない。
焚火の前で眠るリリー。その隣に私はいる。
いつも、寝静まった後に子守歌を歌う。多分、もう子供じゃないとリリーは言うだろう。もう十三歳だ。
リリーはこの暮らしにすっかり慣れた。
野に生える草にも食べられるものとそうでないものがある。青く縦に伸びて、掘り返せば丸い球根のあるものはネギに似て美味い。
蛇も食えるし、猪も良い。
このような深山幽谷であれば、魔物も出る。裂け目から出た魔の類いを狩ることも教えた。動物に憑依するが、息吹が
ここで息吹をリリーは会得しつつある。
息吹呼吸は幼い日から呼吸の訓練をせねばならない。リリーに教えてきたことは無駄ではない。そして、間違っていなかった。
我が師よ、地獄で見ているか。
お前が虫ケラのように扱ってくれた修行は間違いだったぞ。
こんなに才能の無いリリーは、とても遣うようになった。
よく食べて、よく眠り、愛情を注ぐ。
それさえあればいい。私のような憎しみは要らない。はははは。
焚火を見つめながら、笑う。
リリーの頭を撫でた。
髪が痛んでいる。山の中ではそうなるのも仕方ない。身綺麗にしてやらねば。
山の音は寂しいものだ。
街に住む者はこれに風情があるというが、私にとっては寂しさだけしか感じない。自然にあるものと人は調和などしない。
アメントリル派の坊主共が言うような世界の調和など嘘だ。この世は調和などしていない。全ては危険で、それらを避けて潰して出来上がった今があるに過ぎない。
息吹も同じだ。
怪物への憎しみが、訳の分からないものを造った。そして、伝えられている。
私がリリーに教えた息吹は、終わらせるためのものだ。
リリーは誰かに伝えるだろうか。伝えなくてもよい。お前が捨てるりであれば、それは世界にとって必要ないものであったということだ。
夜は過ぎゆく。
あと一年というところか。
時は無情。最後の一年は幸せと共に過ぎ行きた。
まだまだ未熟。
だが、そこらの騎士には負けないというところまでリリーを仕上げた。
この山と一体化するところまでは及第点。
古い言葉では、オブジェクトとの合一ともいうものだが、そのような歴史は何も教えていない。
ただ、魔や外法の類いを打倒せるものであり、それらは自然に反しているから倒されるということだけを教えた。
息吹は理外であり反そのものだ。
理に反し、世界に反し、幸せを反する。
まさに理外外法の極み。
リリーにはそれが似合った。そして、不思議なことに私にはリリーの未来に陰があることが分かった。
半歩を踏み出せるようになってから、私の片足は幽界にあるのかもしれない。リリーの行く先には大きな陰がある。私もそれに覆われて生きた。
陰を斬ることはできない。
リリー、わたしの可愛いリリー。お前を陰になど好きにはさせん。
死にあって見えるものが定められた
『修行を始めて十年、お前がずっと積み重ねてきたからこそ、できるのだ』
ある時、リリーをそう褒めた。
そうだ、あの日、リリーを救ってしまってからの積み重ねだ。
夜中に熱が出る。
良い頃合いだろう。もっと見ていたいが、これ以上は私も動けまい。
『リリー、今夜は特別な修行をする』
「特別、ですか」
十四歳になったリリーは、いつの間にか敬語を使うようになった。
子供の成長は早いものだ。
『印可を与えられるか、みるのさ』
リリーは驚いていた。
身体を落ち着けておくように、それだけを言って私は私を整えるため、滝に向かった。
滝行というものに意味は無い。
単に何かした気持ちになれるだけだ。今の私がやっても意味は無いだろう。だから、釣竿を持ってきた。
虫を捕まえて餌にして滝壺から少し離れたところで釣りをする。
魚を捕るのなら素手でやるか、銛で突く方が速い。あの子も魚くらいなら素手で捕れるようになった。
釣竿の隣にはドゥルジ・キイリという師から奪った剣がある。
頭を叩き潰した後、当然のように自らのものとしたが、これはリリーに渡そう。
魚はとんと釣れない。
釣りなど、何年もしていない。いつも素手で捕っていた。
リリーには一つだけ克服できない弱さがある。
克服させるには、丁度良いだろう。あんなもので死ぬのは勿体ない。
あ、そうか。
だから、みんな死んだのだ。
幼い日の修行で、その弱みを持っていた者から死んでいった。
最終的には私とジャンだけになる訳だよ。
みんな、同じ境遇の子供たちを蹴落とすことをためらっていた。私とジャンはそれを何とも思わずにできたのだ。
悪いことをしたなぁ。
私もようやく分かった。リリーにそうしたいように、皆、仲間を思いやって、その結果として修行についていけず死んだのか。
随分と、悪いことをしてきたのだなあ。
それも、今日終わる。
青ざめた月の下、リリーはやってきた。
緊張した面持ちで木刀を手にしている。私が何をするか、想像もしていないのだろう。
『リリー、最後の修行だ。私に一太刀でも浴びせれば、お前に印可を与えよう』
私はドゥルジ・キイリを抜いて、鞘を捨てた。
まずは軽く頭を割ってみようか。さあ、かわせよ。
私はゆっくりと剣を振った。
殺す気で振るが、頭には当てない。意識の上では当てているが、最悪でも肩口を落とすようにする。
これもなかなか難しい。殺気だけで相手を怯ませるための芸だ。
リリーは大きく距離を空けるように下がってかわす。
よし、上手いぞ。
それでいい。初手でやれない時は距離をとるのが正解だ。
『よくぞ、この十年に渡り着いてきた』
私のかけた言葉に、リリーはようやく木刀を正眼に構えた。
うん、それでいい。八相なぞやろうものなら、焦っていますと言うようなものだ。
言葉を失っているリリーの右目の下に向けて剣を振る。わざと、浅く斬った。血が流れる。
ごめんな、リリー。痛かっただろう。許しておくれ。
可哀そうに。顔に傷をつけてしまった。こんなことしたくないというのに、でも、しなければいけない。
「なんでっ、こんなことっ」
お前のためだよ。
私の可愛いリリー、私の愛するリリー。お前は私の弟子だ。許されるなら、あのまま私の子供にしたかった。
でもそんなことは言えない。
だから、心にもないことを言う。
『無駄口はよせ。呼吸を乱すな。今の私であれば、お前にも斬れる』
「いやだいやだいやだ。怖い」
『それでも、我が弟子かっ』
挑発するため、そう叫んだ。
あの時、私も本当は怖かった。
師匠は鬼のように強いと思っていて、そして、憎んでいた。私はあの時、憎しみで斬った。
リリー、憎しみでもいい。
斬れ。
命を奪わんとするならば、どれほど愛していても、斬るのだ。
言葉を紡ごうとした瞬間、来た。腹が焼けるように痛む。
咳き込むと、血を吐いていた。
『時間が無いのだ』
私はどうしてか、笑ってしまった。
過去のいつでも時間が無かった。どんな時も、時間などなかった。ただ浪費していただけだ。だから、こんなに惨めだ。
いや、リリーを助けた時は、無い時間の中で正しいことをした。たった一つだけの正しいことだ。
痛みを感じなくなった。身体の中に焼けた石があるようだが、痛くない。
さあ打ってこい。
リリーは私の誘いには応じず、呼吸により息吹を整えていた。
はは、やるじゃないか。
その目、こらえているんだな。私などのために。
そろそろ身体を動かすのも辛い。今なら、私も真面目に斬る気でやれるよ。
『よくぞ、見た』
「はい」
あの時と同じだな。
泣くのをこらえて答える様は、弟子にしたあの日のリリーのままだ。
剣を下段に構え直し、向き合う。
ああ、いい気持ちだ。
呼吸を戻して息吹を練るが、どうにも肺から漏れていくようだ。
リリーは気合の声と共に打ち込んできた。
一合、二合、三合。
いいぞ、上手だ。
息吹は木刀を鉄のごとく変える。それでいいんだ。
楽しくなってきた瞬間に、私は意識せず半歩先にいた。
リリーの首を目掛けて放たれる私の刃。
やめてくれ、リリーを殺させないでくれ。どうしてこんな時に。
どすんという重い感触だった。
私の手に重みはなく、腹に木刀の突きが埋まり、背まで貫いていた。
ははは、凄いな。
どうやったんだ、それ。
わたしの半歩は
身体から全ての力が抜けている。剣をいつの間にか取り落としていた。
ああ、そうか。
もう使い果たしていたのか。私に
よかった。
かみさま、ありがとう。
リリーが泣いている。
幼い日のように、小さなリリーのぐずる声が聞こえた。
もうよく見えないが、分かることもある。
まだ、声は出せる。
私は、お前に会うために産まれたのだ。
お前の前には様々な運命が悪意と共にやって来るだろう。だが、その全てを倒 せるだけのことを教えたつもりだ。
私は死して故郷に帰れる。リリー、お前に会えてよかった。
運命を憎んでいたよ。寄る辺ない世界で、ただ一人……。
リリー、幸せにおなり。そのために私の命はあったのだ。
死に際に憑き物が落ちた。
我ながら、侯爵家の令嬢を誘拐するなど、正気ではない。
だというのに後悔は無かった。
今は、とても安らいでいる。
わたしにも、生きた意味が、価値が、あったよ。
これで、帳尻は合った。
憎しみも、痛みも、全てはこのためだった。
幸せにおなり、リリー。
追憶が終わる。
闘技場へ向かう足取りは思うより軽い。
カリラは、あの子は驚くだろうなと、想像して浮いてしまった笑みを噛み殺す。
どんな子に育ったのだろうか。
どれだけ強くなっただろうか。
噂に聞く通りであれば、あの子は道を誤っているかもしれない。
いや、それは無いだろうな。
そうであれば、あのシャザという女が許さないだろう。それに、そうであったら二人の男たちがあのように死ぬものか。
毒蛇のような音を立てる独特の呼吸音。
息吹呼吸がカリラの全身に行き渡る。
カリラが闘技場に姿を現した。
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