第22話 くちづけ

 五日間で、死者は三十人ほどだ。

 多いか少ないかで言えば、少ない。

 これだけの魔物が襲来して三十人しか死んでいないというのは、奇跡的とも言えた。


 逆に、カグツチという奇跡の体現者がいるにも関わらず、三十人も死んだと考えることもできる。

 魔物というのは、一つ一つの力は大きくとも数が少ないから対処できる。しかし、今は数が多すぎる。神話時代にもこのようなことはなかっただろう。

 セザリアの今の状況は限りなく詰みに近い。

 数多い魔物に対して、切り札は一枚だけ。そして、その切り札も切ってしまった後だ。

 カグツチ一人では限界があった。いかに神話時代の英雄といえど、街を一つ守るだけが精いっぱいということだ。


 カグツチは物見櫓から、空を見上げて街を見下ろす。

 人より高く、鳥より高く、空より低い。


「人食い姫、か」


 口元に刻む笑みは、どこか自嘲的な苦いものだった。




 街の守りに衛兵を置かねばならない。

 ウド、アヤメ、ミラール、そしてリリー。

 三人と一匹はいずれも劣らぬ外法の戦鬼である。しかし、数多い魔物共に対してはあまりにも無力だ。

 お伽噺の魔術師のように、魔物を操る者と相対することができるのか。

 相手の居所が分かれば手はあるが、今は神具の導きで方角が分かるのみ。

 向かうにしても、数が必要だった。



 フランツが獄の鍵を開けた。

 セザリアの港町にも、牢獄はある。

 処刑前の罪人を入れて置くだけの牢から、様々な者たちが這い出した。


「罪を減じる代わりに、働いてもらう」


 フランツの言葉を聞いた垢じみたそれらは、言葉とも呻きとも歓声ともつかぬ獣のごとき声を上げた。


「本気かね、学院長殿」


 リリーは、彼らを見ながら言った。


「本気だ。盾くらいにはなろうよ」


「枯れ木に花、か」


 犯罪奴隷たちは、全て老人であった。

 街が襲われ始めた二日目で、若い犯罪者は街の防衛に使われた。今いるのは、役に立たぬと放置されていた残り物である。

 あれらをどのように使えというのか。


「兵士が使えん今、これしかないだろう」


 フランツは憮然とした顔を崩さずに言う。

 なるほど、一人の男として見ると、フランツというのはこんな男か。意外に、素の顔は嫌いではない。侯爵家と宮廷魔術を排出した名家、そのどちらもこの男には意味がないらしい。


「全て、死ぬぞ」


「元より牢で朽ち果てねば、縛り首か斬首だ」


 罪人で奴隷となれば、人としては扱われない。犯罪奴隷というものは最下層であり、そうなった時点で死人である。


「人を使うというのは初めてだ」


 リリーはそう言って、小さくため息をひとつ。

 衛兵たちが粗末な食事を持ち寄れば、彼らは餓鬼のようにそれらを貪りはじめる。牢の中で饗される腐りかけの汁と比べれば天上の美味だ。


「ふむ、良い経験になるのではないか」


 鉄面皮の学院長が吐く言葉からは、それが冗談か本気か読み取れない。

 老人たちは飯を食う。

 夏の太陽の下、奴隷たちは久方ぶりの充足を得ていた





 最初の襲撃のあった夜、領主は遁走した。

 カグツチが「もっと来る」と先に言ってしまったことが原因だが、今となってはその方がよかっただろう。

 頭が二つある軍は脆い。

 現在、街を仕切るのはカグツチを筆頭としてフランツと騎士、そして兵士たちという序列になっている。

 気骨のある騎士は位を問わずセザリアに残った。

 

 フランツは騎士たちに、起死回生の一矢となるため、人食い姫と共に行くと説明を済ませた。

 主のいなくなった領主館の風呂で、フランツは一日の汚れを落とす。

 サウナではなく、贅沢な湯室である。


「何をしているのだか」


 自分で言葉にすると、不意に笑いたくなった。

 死ぬ前に、身を清めたかった。

 人食い姫と決闘をやろうとして分かったことがある。

 フランツの明晰な頭脳が下した判断は、死ぬかもしれない、だ。勝つ目はあるだろうが、相討ちを覚悟せねばならない。

 この後、人食い姫と奴隷を引き連れて敵の大将を討ちに行く。

 決闘のような勝ち筋は全く見えない。生きては帰れまい。


「馬鹿なことだ」


 言葉にして、湯気の昇る先を見つめる。

 馬鹿なことだと、ついぞ数日前までの自らなら嗤っていただろう。しかし、今は死地へ赴くことを当然と受け入れていた。

 貴種に生まれた義務もある。

 何よりも、英傑が隣にいた。

 黒の戦乙女は冷徹な戦人だ。

 優しげな顔立ちを物憂げに歪めて、兵士を死地へ送る。守るために死ねと、平然と命じることのできる優しい女である。


「人食い姫か」


 リリーもまた、少女でありながら英傑であった。

 狼を害獣ではなく神の遣いとする民族がいるように、騎士や兵士の幾人かは、すでにそれに飲み込まれている。

 強さの輝きは、人々を魅了してやまない宝石の放つそれにも似ている。


 フランツが研鑽し続けてきた魔術という名の牙は、アレに比肩しうるか?


 世界の何にも焦がれていなかった。

 魔術と学問に情熱を注いだが、あれほどに焦がれていたか。狂するほどに魔術にのめりこんでいれば、比較などと惨めな真似をせずに済んだ。

 こんなに自らは小さかったか。

 いかんな、と考えを変えようと思った時に、浴室の扉が開いた。


「何があった」


 火急の用かと誰何したが、返答は無い。

 すわ、敵襲かと身構えて、体が硬直した。


「お背中を、流しに参りました」


 グレーテルが、いた。

 薄い体に布を巻いているだけの、裸と変わらない姿だ。


「な、なにを」


「お背中を、流しに参ったのです」


 裸の女を間近にしたのは、フランツはこれが初めてのことであった。

 眼鏡があれば、湯船に追い詰められることもなかっただろう。しかし、今となっては、フランツは袋の鼠である。





 時は少し戻る。

 食事を終えた奴隷の老人たちが、水を浴びて寄せ場の汚れを落とした後、各人に簡素な鎧が与えられた。

 彼らの年齢ははっきりとはしない。しかし、五十回は冬を越している。世間では死を待つだけの老人に近しい年齢であった。

 年老いて、島送りか斬首を待つだけの老人たちは、生の歓びを噛みしめた後に、否応なく現実に戻らされる。

 老人たちは、淀みはじめた目で何が起こるか待っていた。

 もはや、ただ待つだけしか出来ないことを知り、逃げることもしない。自由は、とうの昔に失った。

 虎の毛皮を腰に巻いた女傭兵が歩み寄るのを、誰もが見ているだけだった。


「サリヴァン侯爵家が長女、リリー・ミール・サリヴァンであるッ」


 びりりと大地と大気が震えるほどの、大声であった。

 老人たちの瞳が、リリーを映す。


「貴公ら犯罪奴隷を率い、魔物魔獣を操る外道を討ち果たすことになった。明日の戦いで、生き残れば貴公らをサリヴァン領の領民としよう。我が名において約束するッ」


 この女は何を言っているのだろうか。

 燃える瞳は獅子の如く。

 その瞳に吸い込まれれば、罪を知る者だけの持つ翳りと闇がある。


「この姿を見ても姫とは信じられまい。カグツチ、私の言葉は真実か」


 大声を上げて問う。

 突風と共に、空から舞い降りたのは黒い翼を持つ戦乙女である。


「奴隷ども、リリーの言葉に偽りは無い」


 小さな呻きが、どよめきではなく呻きが漏れた。


「報償の前払いである。飲み、歌えッ」


 リリーの言葉と共に、兵士たちが木箱を運んでくる。

 木箱の中には、平民であれば生涯を通して見ることすらできぬ者も多いであろう、特別な酒があった。エールやどぶろくではない、貴族にだけ饗されるワインや蒸留酒である。

 ごくりと、老人の一人が唾を呑みこむ音がした。


「そこのお前、酒瓶を持て」


「へ、へい」


 老人はリリーに問いかけられて反射的に言うことを利いた。


「いいか、何があっても動くなよ」


 老人が答える前に、リリーは木刀を抜き、一閃。

 酒瓶の口だけが、割れて飛んだ。


「呑め」


 硬直していた老人は、酒瓶から放たれる芳醇な酒精の香りに気付き、辺りを見回す。誰もが、その老人の一挙一動を食い入るように見ていた。


「遠慮はいらん。死出の旅路の前祝だ」


 老人は、流し込むようにして酒を飲み、恍惚とした顔でリリーを見た。

 獲物を前にした虎のようなリリーの笑み。

 虎の毛皮を巻いていることも相まって、それは高貴な蛮人のようである。


「呑め、歌えッ。生き残り、英雄となれ。サリヴァン家の姫、いや、この人食い姫の道は、英雄への道であるッ」


 座りこんでいた奴隷の一人が立ち上がり、震える手で酒瓶を取った。

 あとは、餓鬼の群がるがごとく、老人たちは酒精に吸い寄せられる。それは、熟れ落ちた果実に虫がたかる様に似ている。


「貴公ら、罪穢れを酒で洗い流すがよい」


 呻きは歓声へと変わる。

 人食い姫、人食い姫、と老人たちは熱狂の声を上げた。

 リリーはそれに笑みで応えれば、背を向けて歩き出す。

 いつしか兵士や町人たちもが、リリーを、いや、人食い姫の名を呼んでいた。


 


 旧領主館に辿り付けば、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた仲間たちがいる。

 リリーはむっつりとした顔で仲間たちを見た。


「お前ら、隠れて見ていたな」


 最初に吹き出したのはアヤメだった。

 ウドも釣られるようにくつくつと笑う。


「あははは、なかなかの役者ぶりですわね。まるで古典の絵巻から抜け出したみたい」


 アヤメは笑いながら嫌味とも賞賛ともとれる言葉を吐く。


「いやはや、男児であれば真に英傑でしたな」


 ウドの軽口も何やら意味深である。


「こういうのは司祭であるお前の役目だろうに」


「司祭といっても闇狩りのわたくしじゃあ、犯罪奴隷を英雄にはできません。リリーさん、あなただから、できるの……ブハッアハハハハ」


 真面目な顔で途中まで言ったアヤメだが、我慢できずに最後で吹き出した。


「お、お前の書いた台本だろうが」


「まさか本当にやるなんて、思いもよらなかったの」


 リリーの顔が真っ赤に染まった。


「お前、それ以上言ったら叩くぞ」


「ごめんなさい。でも、素敵だったのは本当。わたしじゃあできないもの。憎らしいわ」


 アヤメの穏やかな顔に、毒気を抜かれたリリーは「ぬう」と唸った。


「その通り、あっしにもあんな真似はとてもとても」


 まるで夜空に輝く星のようだ。

 月は魔性を秘めているという。そして、星は暗闇の中でだけ輝く。無明の闇の中にあるからこそ、その輝きは人を惹きつける。


「ふん、よく言う」


「まあまあ照れる必要はないでしょう。これで、あなたはこの街の英雄になりました」


「勝ったヤツが英雄、……でもないな」


 師の善とは、守るために命を奪うことだった。

 殺人剣は護鬼の剣。命を、地位を、財産を、大切な人を、守るための力であった。

 全てを殺して守る。どれほどに強くとも、その剣によって師は英雄になれなかった。


「魔物の類はお任せなさい。必殺の呪毒と邪術を知り尽くした影の聖女である、このアヤメ・コンゴウがいます」


 にやりとアヤメは笑う。

 相棒のキメ顔はどこまでも邪悪で、不思議と最近は嫌いになれなくなってきた。


「蛇蝎のウド、細作の世界ではちっとは知られていやす。木端の忍邪(ニンジャ)など息をする間に始末しやしょう」


 吸血鬼の回廊でリュリュと出会ってから、配下であるウドは生意気な口を利くようになった。今までの陰鬱さは、少しずつなりを潜めていっているようだ。

 首から聖印を下げたウドは、闇に潜む細作(かんじゃ)ではなくなりつつある。


「そうだな、一騎当千の仲間がいたか。わたしは、お前らみたいな恥ずかしい名乗りはやらんからな」


「あら、知恵をつけましたわね」


「お前のそういうところにも、最近は慣れてきたよ」


 にやりとリリーが笑えば、アヤメは小さく息を吐いた。


「明日のために、早く休みましょうか」


 酒を飲んでもいいが、明日は大仕事だ。仕事の前は酒をやらないのがアヤメの流儀だ。


「うむ。ウドも寝ておけよ」


 リリーもまた、体を万全に保つことを選ぶ。

 デバウラーとの戦いは良い慣らしとなった。

 戦う相手も、その時期も選べるものではない。対策があるとしたら、不調を作らないことだ。食べて、寝て、糞をして、いつでも動けるようにしておけばよい。

 代わりに、心を研ぎ澄ます。

 今の軽口も、きっとそれだ。

 仲間がいるというのは心強い。当たり前のようで、リリーたちはそれを知らなかった。


 鬼女の魂は今、震えている。自らの内にあるもう一人の己がおいおいと哭くのが分かる。

 手に入れられなかったものを手に入れたという悦び、どうしてこれができなかったのかという後悔。そして、自らを焼きたくなるほどの卑しい羨望。


『羨ましい、あなたが羨ましい』


「過ぎた仲間だよ、私には」


 自分のことしか見ていないリリーを、仲間たちは見ている。




 風呂に入って寝るか、となった所に来客があった。


「リリー様、わたくしです、グレーテルです」


 息せききって駆け付けたグレーテルは、リリーをすがるように見つめて、荒い息を整えている。


「先ほどの名乗りを聞いて、駆け付けたのです」


「そうか帝都以来だな。グレーテル、まだそんなに時間はたっていないというのに、もう何年もたったように感じるよ。すぐに船が出せるようになる。サリヴァン領についたら、父上に宜しく伝えてほしい」


「リリー様、ここはカグツチ様に任せて、領地へお戻り下さい」


 サリヴァン侯爵家一門の娘ならば、当然の言葉である。

 グレーテルは幼く見える。だが、骨の髄まで貴族の姫だ。何を優先すべきか、分からないはずがない。


「できんよ。もしも運命があるというのなら、これがわたしの道だ。それに、ここで朽ちるつもりは無い」


 言い切ったリリーの顔は、グレーテルの知るものとは少し違っていた。

 巡礼の旅で、リリーは人と成った。

 師の影を追う仙人のような生き方から、自らのため、死を忘れない生き方へと変わったのである。


「……お家の、帝国の一大事と、父より聞いております」


「だからこそだ。わたしが帰れば、巡礼を汚したとしてサリヴァン家の改易を迫るだろう。いや、このような話は良いのだ。グレーテル、学院長殿に想いは伝えたか?」


 自然に、その問いが出た。

 アヤメは「お得意の空気を読まない発言」に片眉を跳ね上げて、何を言うか見守っている。

 ウドは黙って成り行きを見つめていた。


「わ、わたくしは」


「好意は押し付けるだけではいけないらしいのだが、しっかり伝えないと伝わらないものらしい。家柄とかそういうものは二の次でいいんだ。ただ、グレーテル、お前自身の気持ちを伝えた方がいい」


 思いもよらない言葉が口を突いて出た。

 鬼女のリリーは、それで失敗した。

 第一皇子に言った言葉には全て、「婚約者なのですから」「将来を誓った」といった前置きがあった。愛さないといけない立場だと理由をつけて囀る言葉はきっと、何よりも傲慢に、罪人の鎖のように重く巻き付いたのかもしれない。


「それは、何を」


「愛されたいと願うよりは、愛していると伝えるほうが良いということさ。まあ、私の言葉というか、説明は少し難しいんだが、実体験みたいなもの、になるのか? 難しいところだ」


 鬼女の後悔は悟りを開くほど清いものではない。時間が戻せるなら今度は上手くやれるのに、という怠惰で弱い、人間らしい感情から産まれたものである。


「そ、そんなはしたないことは」


「学院長も私も、戻れる保証は無い。それに、男というのは待っている女がいるほうが強くなるらしい」


「……」


 グレーテルは俯いた。

 何か言いたいのに、言葉が見つからない。

 沈黙の精霊が通ろうとした時、アヤメが口を挟んだ。


「グレーテル様と仰いましたね。この街を襲う魔物との戦いは激しいものとなります。想いは伝えておくのが吉ですよ」


「聖女候補の司祭が言っておるのだ。間違いはあるまいよ」


「わ、わたくしはそんな話をしにきたのでは」


 リリーは小さく笑った。


「そうだったな。気持ちはありがたく受け取ろう。そこもとの忠節を嬉しく思う。しかし、やらねばならん。学院長殿も同じであれば、行ってくるといい。積極的? なのがいいらしいよ。寝所に忍んでも、誰も止めん」


 鬼女の魂が導くままに言葉を紡げば、グレーテルが息を呑むのが分かる。


「誤解されがちですが、教会は男女の営みを否定はしていません。女の幸せもまた、このような時だからこそ許されようというものです」


 アヤメが適当なことを言いだした。

 グレーテルはアヤメに背を押されて、部屋のソファに座る。何やらアヤメの恋愛論だか肉体言語だかが始まっていたので、リリーは一足先に部屋を出た。

 浴室までの案内を女中に頼んで歩き出すと、いつの間にかウドが隣にいた。


「よろしいので?」


「別によかろう」


「学院長殿を取り込むってえのは有利になるとは思いますが」


 リリーは呆れ顔になって、ウドに人さし指を突きつけた。


「見損なうな。これでも女なんだ、好きな男をものにしたい気持ちも分かる。それに、政(まつりごと)は父上や弟に任せておけばよい。明日を生き残ってからの話だ」


「ふむ、さすがはお嬢様です。感服致しました」


「馬に蹴られるのはアヤメだけでいいだろう」


「ははは、それもそうでございますな」


 この男も、笑うようになった。


 サウナ風呂に入り、熱した石に薬湯を打ち付ける。

 幼い日、師が毒を抜くために使っていたものと同じ匂いが湯殿に充ちた。

 裸で座禅を組んだリリーは、息吹を練る。

 魔物とそれを操る者。

 まるで英雄に課される試練のようで、似合わないことこの上ないなと思う。

 殺人剣である息吹は英雄の業ではない。

 深山幽谷に人知れず咲いた花のようなもので良いのだ。


『昔は功名心もあったが、今では深山幽谷に裂いた姥桜(うばざくら)だよ』


 と、師は言っていた。

 自らの剣を花に例えれば桜であると。

 自らの剣は未だ蕾ではなかろうか。命を吸って咲く花であるのなら、外道と悪鬼の命で咲かせよう。

 二人の師より授かったのは、戦う術だけではない。





 空が白み始めたころに、フランツは寝台から降りた。

 寝室にはグレーテルが残されていて、目覚めさせないように、静かに服を着る。

 シーツに残る鳩の血を見て、「ああ、やっちまった」という気持ちの後に、グレーテルの髪に触れたくなった。

 帝国の古典文学では処女を散らした出血を鳩の血と表現している。人間の営みを美化した果てに出来上がったものだろう。

 人間はとても単純だ。

 フランツ自身、ようやく自分もそこに含まれていると悟ることができた。己は高いとこにもいなければ、空を飛んでもいない。ただの男である。

 眠るグレーテルのくるりとした髪の毛は、ずっと昔の幼い時分に飼っていた猟犬を思い出させる。アレは、猟犬としては役に立たなかったが、フランツの大切な友人だった。

 彼女が起きないように額に口付けて、剣を帯びて屋敷を出る。


 セザリアの門には、すでに彼らがいた。

 白髪頭の方が多い奴隷たちは、それぞれに粗末な武具を身に着けて、槍や戦槌を手に獰猛な戦いの気配を見せていた。

 彼らは一人の人物を注視していた。

 リリーである。

 虎の毛皮を腰に巻いて、背には木刀と剣がある。

 昨日、町に残る商人の有志より贈られた鉄の片手剣だ。奴隷に武具を提供することを拒んでいたというのに、リリーの姿を見て気を変えたものらしい。


「学院長殿、……行くか」


「フランツでいい」


 見送るのはセザリアの住民だ。

 ふと、屋敷の方角を見やる。

 こんなに自分は単純だったのだな、と思ってフランツは自嘲した。

 女など下らないと考えていたのだが、どうにもそんなに強い男ではなかったらしい。生きて帰るならば、敵を倒し、その後にリリーの隙をつくしかあるまい。

 門を出る時に、振り返ろうとしてやめた。

 カグツチは物見櫓にいるだろう。そして、グレーテルは目覚めただろうか。

 フランツは振り返らずに片手を挙げた。

 こんな所で死んでたまるものか、と。

 今まで、死は逃れられない運命であって、受け入れねばならないものだと思っていた。だから、死ぬ時は潔くする。そう決めていた。


 帰りを待つ人がいる今は、こんなにも生きたい。

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