第22話 くちづけ
五日間で、死者は三十人ほどだ。
多いか少ないかで言えば、少ない。
これだけの魔物が襲来して三十人しか死んでいないというのは、奇跡的とも言えた。
逆に、カグツチという奇跡の体現者がいるにも関わらず、三十人も死んだと考えることもできる。
魔物というのは、一つ一つの力は大きくとも数が少ないから対処できる。しかし、今は数が多すぎる。神話時代にもこのようなことはなかっただろう。
セザリアの今の状況は限りなく詰みに近い。
数多い魔物に対して、切り札は一枚だけ。そして、その切り札も切ってしまった後だ。
カグツチ一人では限界があった。いかに神話時代の英雄といえど、街を一つ守るだけが精いっぱいということだ。
カグツチは物見櫓から、空を見上げて街を見下ろす。
人より高く、鳥より高く、空より低い。
「人食い姫、か」
口元に刻む笑みは、どこか自嘲的な苦いものだった。
◆
街の守りに衛兵を置かねばならない。
ウド、アヤメ、ミラール、そしてリリー。
三人と一匹はいずれも劣らぬ外法の戦鬼である。しかし、数多い魔物共に対してはあまりにも無力だ。
お伽噺の魔術師のように、魔物を操る者と相対することができるのか。
相手の居所が分かれば手はあるが、今は神具の導きで方角が分かるのみ。
向かうにしても、数が必要だった。
フランツが獄の鍵を開けた。
セザリアの港町にも、牢獄はある。
処刑前の罪人を入れて置くだけの牢から、様々な者たちが這い出した。
「罪を減じる代わりに、働いてもらう」
フランツの言葉を聞いた垢じみたそれらは、言葉とも呻きとも歓声ともつかぬ獣のごとき声を上げた。
「本気かね、学院長殿」
リリーは、彼らを見ながら言った。
「本気だ。盾くらいにはなろうよ」
「枯れ木に花、か」
犯罪奴隷たちは、全て老人であった。
街が襲われ始めた二日目で、若い犯罪者は街の防衛に使われた。今いるのは、役に立たぬと放置されていた残り物である。
あれらをどのように使えというのか。
「兵士が使えん今、これしかないだろう」
フランツは憮然とした顔を崩さずに言う。
なるほど、一人の男として見ると、フランツというのはこんな男か。意外に、素の顔は嫌いではない。侯爵家と宮廷魔術を排出した名家、そのどちらもこの男には意味がないらしい。
「全て、死ぬぞ」
「元より牢で朽ち果てねば、縛り首か斬首だ」
罪人で奴隷となれば、人としては扱われない。犯罪奴隷というものは最下層であり、そうなった時点で死人である。
「人を使うというのは初めてだ」
リリーはそう言って、小さくため息をひとつ。
衛兵たちが粗末な食事を持ち寄れば、彼らは餓鬼のようにそれらを貪りはじめる。牢の中で饗される腐りかけの汁と比べれば天上の美味だ。
「ふむ、良い経験になるのではないか」
鉄面皮の学院長が吐く言葉からは、それが冗談か本気か読み取れない。
老人たちは飯を食う。
夏の太陽の下、奴隷たちは久方ぶりの充足を得ていた
◆
最初の襲撃のあった夜、領主は遁走した。
カグツチが「もっと来る」と先に言ってしまったことが原因だが、今となってはその方がよかっただろう。
頭が二つある軍は脆い。
現在、街を仕切るのはカグツチを筆頭としてフランツと騎士、そして兵士たちという序列になっている。
気骨のある騎士は位を問わずセザリアに残った。
フランツは騎士たちに、起死回生の一矢となるため、人食い姫と共に行くと説明を済ませた。
主のいなくなった領主館の風呂で、フランツは一日の汚れを落とす。
サウナではなく、贅沢な湯室である。
「何をしているのだか」
自分で言葉にすると、不意に笑いたくなった。
死ぬ前に、身を清めたかった。
人食い姫と決闘をやろうとして分かったことがある。
フランツの明晰な頭脳が下した判断は、死ぬかもしれない、だ。勝つ目はあるだろうが、相討ちを覚悟せねばならない。
この後、人食い姫と奴隷を引き連れて敵の大将を討ちに行く。
決闘のような勝ち筋は全く見えない。生きては帰れまい。
「馬鹿なことだ」
言葉にして、湯気の昇る先を見つめる。
馬鹿なことだと、ついぞ数日前までの自らなら嗤っていただろう。しかし、今は死地へ赴くことを当然と受け入れていた。
貴種に生まれた義務もある。
何よりも、英傑が隣にいた。
黒の戦乙女は冷徹な戦人だ。
優しげな顔立ちを物憂げに歪めて、兵士を死地へ送る。守るために死ねと、平然と命じることのできる優しい女である。
「人食い姫か」
リリーもまた、少女でありながら英傑であった。
狼を害獣ではなく神の遣いとする民族がいるように、騎士や兵士の幾人かは、すでにそれに飲み込まれている。
強さの輝きは、人々を魅了してやまない宝石の放つそれにも似ている。
フランツが研鑽し続けてきた魔術という名の牙は、アレに比肩しうるか?
世界の何にも焦がれていなかった。
魔術と学問に情熱を注いだが、あれほどに焦がれていたか。狂するほどに魔術にのめりこんでいれば、比較などと惨めな真似をせずに済んだ。
こんなに自らは小さかったか。
いかんな、と考えを変えようと思った時に、浴室の扉が開いた。
「何があった」
火急の用かと誰何したが、返答は無い。
すわ、敵襲かと身構えて、体が硬直した。
「お背中を、流しに参りました」
グレーテルが、いた。
薄い体に布を巻いているだけの、裸と変わらない姿だ。
「な、なにを」
「お背中を、流しに参ったのです」
裸の女を間近にしたのは、フランツはこれが初めてのことであった。
眼鏡があれば、湯船に追い詰められることもなかっただろう。しかし、今となっては、フランツは袋の鼠である。
◆
時は少し戻る。
食事を終えた奴隷の老人たちが、水を浴びて寄せ場の汚れを落とした後、各人に簡素な鎧が与えられた。
彼らの年齢ははっきりとはしない。しかし、五十回は冬を越している。世間では死を待つだけの老人に近しい年齢であった。
年老いて、島送りか斬首を待つだけの老人たちは、生の歓びを噛みしめた後に、否応なく現実に戻らされる。
老人たちは、淀みはじめた目で何が起こるか待っていた。
もはや、ただ待つだけしか出来ないことを知り、逃げることもしない。自由は、とうの昔に失った。
虎の毛皮を腰に巻いた女傭兵が歩み寄るのを、誰もが見ているだけだった。
「サリヴァン侯爵家が長女、リリー・ミール・サリヴァンであるッ」
びりりと大地と大気が震えるほどの、大声であった。
老人たちの瞳が、リリーを映す。
「貴公ら犯罪奴隷を率い、魔物魔獣を操る外道を討ち果たすことになった。明日の戦いで、生き残れば貴公らをサリヴァン領の領民としよう。我が名において約束するッ」
この女は何を言っているのだろうか。
燃える瞳は獅子の如く。
その瞳に吸い込まれれば、罪を知る者だけの持つ翳りと闇がある。
「この姿を見ても姫とは信じられまい。カグツチ、私の言葉は真実か」
大声を上げて問う。
突風と共に、空から舞い降りたのは黒い翼を持つ戦乙女である。
「奴隷ども、リリーの言葉に偽りは無い」
小さな呻きが、どよめきではなく呻きが漏れた。
「報償の前払いである。飲み、歌えッ」
リリーの言葉と共に、兵士たちが木箱を運んでくる。
木箱の中には、平民であれば生涯を通して見ることすらできぬ者も多いであろう、特別な酒があった。エールやどぶろくではない、貴族にだけ饗されるワインや蒸留酒である。
ごくりと、老人の一人が唾を呑みこむ音がした。
「そこのお前、酒瓶を持て」
「へ、へい」
老人はリリーに問いかけられて反射的に言うことを利いた。
「いいか、何があっても動くなよ」
老人が答える前に、リリーは木刀を抜き、一閃。
酒瓶の口だけが、割れて飛んだ。
「呑め」
硬直していた老人は、酒瓶から放たれる芳醇な酒精の香りに気付き、辺りを見回す。誰もが、その老人の一挙一動を食い入るように見ていた。
「遠慮はいらん。死出の旅路の前祝だ」
老人は、流し込むようにして酒を飲み、恍惚とした顔でリリーを見た。
獲物を前にした虎のようなリリーの笑み。
虎の毛皮を巻いていることも相まって、それは高貴な蛮人のようである。
「呑め、歌えッ。生き残り、英雄となれ。サリヴァン家の姫、いや、この人食い姫の道は、英雄への道であるッ」
座りこんでいた奴隷の一人が立ち上がり、震える手で酒瓶を取った。
あとは、餓鬼の群がるがごとく、老人たちは酒精に吸い寄せられる。それは、熟れ落ちた果実に虫がたかる様に似ている。
「貴公ら、罪穢れを酒で洗い流すがよい」
呻きは歓声へと変わる。
人食い姫、人食い姫、と老人たちは熱狂の声を上げた。
リリーはそれに笑みで応えれば、背を向けて歩き出す。
いつしか兵士や町人たちもが、リリーを、いや、人食い姫の名を呼んでいた。
旧領主館に辿り付けば、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた仲間たちがいる。
リリーはむっつりとした顔で仲間たちを見た。
「お前ら、隠れて見ていたな」
最初に吹き出したのはアヤメだった。
ウドも釣られるようにくつくつと笑う。
「あははは、なかなかの役者ぶりですわね。まるで古典の絵巻から抜け出したみたい」
アヤメは笑いながら嫌味とも賞賛ともとれる言葉を吐く。
「いやはや、男児であれば真に英傑でしたな」
ウドの軽口も何やら意味深である。
「こういうのは司祭であるお前の役目だろうに」
「司祭といっても闇狩りのわたくしじゃあ、犯罪奴隷を英雄にはできません。リリーさん、あなただから、できるの……ブハッアハハハハ」
真面目な顔で途中まで言ったアヤメだが、我慢できずに最後で吹き出した。
「お、お前の書いた台本だろうが」
「まさか本当にやるなんて、思いもよらなかったの」
リリーの顔が真っ赤に染まった。
「お前、それ以上言ったら叩くぞ」
「ごめんなさい。でも、素敵だったのは本当。わたしじゃあできないもの。憎らしいわ」
アヤメの穏やかな顔に、毒気を抜かれたリリーは「ぬう」と唸った。
「その通り、あっしにもあんな真似はとてもとても」
まるで夜空に輝く星のようだ。
月は魔性を秘めているという。そして、星は暗闇の中でだけ輝く。無明の闇の中にあるからこそ、その輝きは人を惹きつける。
「ふん、よく言う」
「まあまあ照れる必要はないでしょう。これで、あなたはこの街の英雄になりました」
「勝ったヤツが英雄、……でもないな」
師の善とは、守るために命を奪うことだった。
殺人剣は護鬼の剣。命を、地位を、財産を、大切な人を、守るための力であった。
全てを殺して守る。どれほどに強くとも、その剣によって師は英雄になれなかった。
「魔物の類はお任せなさい。必殺の呪毒と邪術を知り尽くした影の聖女である、このアヤメ・コンゴウがいます」
にやりとアヤメは笑う。
相棒のキメ顔はどこまでも邪悪で、不思議と最近は嫌いになれなくなってきた。
「蛇蝎のウド、細作の世界ではちっとは知られていやす。木端の忍邪(ニンジャ)など息をする間に始末しやしょう」
吸血鬼の回廊でリュリュと出会ってから、配下であるウドは生意気な口を利くようになった。今までの陰鬱さは、少しずつなりを潜めていっているようだ。
首から聖印を下げたウドは、闇に潜む細作(かんじゃ)ではなくなりつつある。
「そうだな、一騎当千の仲間がいたか。わたしは、お前らみたいな恥ずかしい名乗りはやらんからな」
「あら、知恵をつけましたわね」
「お前のそういうところにも、最近は慣れてきたよ」
にやりとリリーが笑えば、アヤメは小さく息を吐いた。
「明日のために、早く休みましょうか」
酒を飲んでもいいが、明日は大仕事だ。仕事の前は酒をやらないのがアヤメの流儀だ。
「うむ。ウドも寝ておけよ」
リリーもまた、体を万全に保つことを選ぶ。
デバウラーとの戦いは良い慣らしとなった。
戦う相手も、その時期も選べるものではない。対策があるとしたら、不調を作らないことだ。食べて、寝て、糞をして、いつでも動けるようにしておけばよい。
代わりに、心を研ぎ澄ます。
今の軽口も、きっとそれだ。
仲間がいるというのは心強い。当たり前のようで、リリーたちはそれを知らなかった。
鬼女の魂は今、震えている。自らの内にあるもう一人の己がおいおいと哭くのが分かる。
手に入れられなかったものを手に入れたという悦び、どうしてこれができなかったのかという後悔。そして、自らを焼きたくなるほどの卑しい羨望。
『羨ましい、あなたが羨ましい』
「過ぎた仲間だよ、私には」
自分のことしか見ていないリリーを、仲間たちは見ている。
風呂に入って寝るか、となった所に来客があった。
「リリー様、わたくしです、グレーテルです」
息せききって駆け付けたグレーテルは、リリーをすがるように見つめて、荒い息を整えている。
「先ほどの名乗りを聞いて、駆け付けたのです」
「そうか帝都以来だな。グレーテル、まだそんなに時間はたっていないというのに、もう何年もたったように感じるよ。すぐに船が出せるようになる。サリヴァン領についたら、父上に宜しく伝えてほしい」
「リリー様、ここはカグツチ様に任せて、領地へお戻り下さい」
サリヴァン侯爵家一門の娘ならば、当然の言葉である。
グレーテルは幼く見える。だが、骨の髄まで貴族の姫だ。何を優先すべきか、分からないはずがない。
「できんよ。もしも運命があるというのなら、これがわたしの道だ。それに、ここで朽ちるつもりは無い」
言い切ったリリーの顔は、グレーテルの知るものとは少し違っていた。
巡礼の旅で、リリーは人と成った。
師の影を追う仙人のような生き方から、自らのため、死を忘れない生き方へと変わったのである。
「……お家の、帝国の一大事と、父より聞いております」
「だからこそだ。わたしが帰れば、巡礼を汚したとしてサリヴァン家の改易を迫るだろう。いや、このような話は良いのだ。グレーテル、学院長殿に想いは伝えたか?」
自然に、その問いが出た。
アヤメは「お得意の空気を読まない発言」に片眉を跳ね上げて、何を言うか見守っている。
ウドは黙って成り行きを見つめていた。
「わ、わたくしは」
「好意は押し付けるだけではいけないらしいのだが、しっかり伝えないと伝わらないものらしい。家柄とかそういうものは二の次でいいんだ。ただ、グレーテル、お前自身の気持ちを伝えた方がいい」
思いもよらない言葉が口を突いて出た。
鬼女のリリーは、それで失敗した。
第一皇子に言った言葉には全て、「婚約者なのですから」「将来を誓った」といった前置きがあった。愛さないといけない立場だと理由をつけて囀る言葉はきっと、何よりも傲慢に、罪人の鎖のように重く巻き付いたのかもしれない。
「それは、何を」
「愛されたいと願うよりは、愛していると伝えるほうが良いということさ。まあ、私の言葉というか、説明は少し難しいんだが、実体験みたいなもの、になるのか? 難しいところだ」
鬼女の後悔は悟りを開くほど清いものではない。時間が戻せるなら今度は上手くやれるのに、という怠惰で弱い、人間らしい感情から産まれたものである。
「そ、そんなはしたないことは」
「学院長も私も、戻れる保証は無い。それに、男というのは待っている女がいるほうが強くなるらしい」
「……」
グレーテルは俯いた。
何か言いたいのに、言葉が見つからない。
沈黙の精霊が通ろうとした時、アヤメが口を挟んだ。
「グレーテル様と仰いましたね。この街を襲う魔物との戦いは激しいものとなります。想いは伝えておくのが吉ですよ」
「聖女候補の司祭が言っておるのだ。間違いはあるまいよ」
「わ、わたくしはそんな話をしにきたのでは」
リリーは小さく笑った。
「そうだったな。気持ちはありがたく受け取ろう。そこもとの忠節を嬉しく思う。しかし、やらねばならん。学院長殿も同じであれば、行ってくるといい。積極的? なのがいいらしいよ。寝所に忍んでも、誰も止めん」
鬼女の魂が導くままに言葉を紡げば、グレーテルが息を呑むのが分かる。
「誤解されがちですが、教会は男女の営みを否定はしていません。女の幸せもまた、このような時だからこそ許されようというものです」
アヤメが適当なことを言いだした。
グレーテルはアヤメに背を押されて、部屋のソファに座る。何やらアヤメの恋愛論だか肉体言語だかが始まっていたので、リリーは一足先に部屋を出た。
浴室までの案内を女中に頼んで歩き出すと、いつの間にかウドが隣にいた。
「よろしいので?」
「別によかろう」
「学院長殿を取り込むってえのは有利になるとは思いますが」
リリーは呆れ顔になって、ウドに人さし指を突きつけた。
「見損なうな。これでも女なんだ、好きな男をものにしたい気持ちも分かる。それに、政(まつりごと)は父上や弟に任せておけばよい。明日を生き残ってからの話だ」
「ふむ、さすがはお嬢様です。感服致しました」
「馬に蹴られるのはアヤメだけでいいだろう」
「ははは、それもそうでございますな」
この男も、笑うようになった。
サウナ風呂に入り、熱した石に薬湯を打ち付ける。
幼い日、師が毒を抜くために使っていたものと同じ匂いが湯殿に充ちた。
裸で座禅を組んだリリーは、息吹を練る。
魔物とそれを操る者。
まるで英雄に課される試練のようで、似合わないことこの上ないなと思う。
殺人剣である息吹は英雄の業ではない。
深山幽谷に人知れず咲いた花のようなもので良いのだ。
『昔は功名心もあったが、今では深山幽谷に裂いた姥桜(うばざくら)だよ』
と、師は言っていた。
自らの剣を花に例えれば桜であると。
自らの剣は未だ蕾ではなかろうか。命を吸って咲く花であるのなら、外道と悪鬼の命で咲かせよう。
二人の師より授かったのは、戦う術だけではない。
◆
空が白み始めたころに、フランツは寝台から降りた。
寝室にはグレーテルが残されていて、目覚めさせないように、静かに服を着る。
シーツに残る鳩の血を見て、「ああ、やっちまった」という気持ちの後に、グレーテルの髪に触れたくなった。
帝国の古典文学では処女を散らした出血を鳩の血と表現している。人間の営みを美化した果てに出来上がったものだろう。
人間はとても単純だ。
フランツ自身、ようやく自分もそこに含まれていると悟ることができた。己は高いとこにもいなければ、空を飛んでもいない。ただの男である。
眠るグレーテルのくるりとした髪の毛は、ずっと昔の幼い時分に飼っていた猟犬を思い出させる。アレは、猟犬としては役に立たなかったが、フランツの大切な友人だった。
彼女が起きないように額に口付けて、剣を帯びて屋敷を出る。
セザリアの門には、すでに彼らがいた。
白髪頭の方が多い奴隷たちは、それぞれに粗末な武具を身に着けて、槍や戦槌を手に獰猛な戦いの気配を見せていた。
彼らは一人の人物を注視していた。
リリーである。
虎の毛皮を腰に巻いて、背には木刀と剣がある。
昨日、町に残る商人の有志より贈られた鉄の片手剣だ。奴隷に武具を提供することを拒んでいたというのに、リリーの姿を見て気を変えたものらしい。
「学院長殿、……行くか」
「フランツでいい」
見送るのはセザリアの住民だ。
ふと、屋敷の方角を見やる。
こんなに自分は単純だったのだな、と思ってフランツは自嘲した。
女など下らないと考えていたのだが、どうにもそんなに強い男ではなかったらしい。生きて帰るならば、敵を倒し、その後にリリーの隙をつくしかあるまい。
門を出る時に、振り返ろうとしてやめた。
カグツチは物見櫓にいるだろう。そして、グレーテルは目覚めただろうか。
フランツは振り返らずに片手を挙げた。
こんな所で死んでたまるものか、と。
今まで、死は逃れられない運命であって、受け入れねばならないものだと思っていた。だから、死ぬ時は潔くする。そう決めていた。
帰りを待つ人がいる今は、こんなにも生きたい。
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