百合香と葵

兄との思い出

 私には兄がいる。両親の都合で幼少期に離れて、高校生になってから再会した兄。今も父と共に別々に暮らしている。名前は葵。私より一つ上の高校二年。蒼明高校という県内トップクラスの偏差値を誇る学校に通っている。ヨウくんというお喋りなヨウムという鳥を飼っていて、そのヨウくん曰く、兄には恋人がいるらしい。私が知る兄の情報はそれくらい。血の繋がった兄ではあるが、ほとんど赤の他人みたいなものだ。


「水族館、好きなの?」


「……うん。でも、最近まではむしろ嫌いだったんだ」


「そうなの?」


「……ここに来ると、母さんと百合香のことを思い出すから」


 巨大な水槽を泳ぐイルカを見ながら兄は語る。私の家にあるアルバムの中にはこの水槽の前で写る家族写真がある。ベビーカーに乗る私と笑顔の兄と両親。当時の記憶は私には無い。


「……ずっと嫌いだった。母さんのことも、君のことも」


「……私もよ。兄さんのこともお父さんのことも……あと、お母さんのことも嫌いだった。嫌いというか……嫌いになりたかったって言った方が正しいかも。お父さんは毎年毎年、誕生日になると手紙を送ってくるし、その手紙は必ず『愛してる』で締め括られてるし、お母さんの誕生日には薔薇を送ってくるし、何考えてるか分かんなかった。愛してるならなんで側にいてくれないんだろうって」


「……そうだよね。正直な話しても良い?」


「ええ。大丈夫よ。兄さんの本音聞かせて」


「……僕は、君が生まれなければ父さんと母さんは離れ離れにならなかったのにって、ずっと思ってた」


「……今もそう思う?」


「ううん。今は逆。君が居たから、母さんは救われたんだと思う。母さんが爺ちゃん婆ちゃんから押し付けられた『女の子らしく生きなさい』という呪いは、娘である君が否定しないと解けなかっただろうから」


「そうね。……だからって、私一人を残して去るのは荒療治すぎると思うけど」


「それは僕も思うよ。……でも父さんは君のことを信じてたんだろうね。君には母さんの呪いを打ち払う強さがあるって」


「酷い人よね。幼い娘に全部押し付けて」


「……うん。君の立場なら僕も父さんのことを死ぬほど恨むよ。よく逃げずに頑張ったね」


「……逃げたかったし、実際、一度は逃げたわ。でも……海菜が勇気をくれた。あの子が居なかったら私は壊れてた」


「……僕、思うんだ。本来母さんは、親になってはいけない人だったんだろうなって」


「そうね。典型的な毒親だったもの」


 母の過保護っぷりは、昔の自分と同じ過ちを犯してほしく無いという気持ちが暴走した結果なんだと今では理解できる。私が女だったから余計に昔の自分に重ねてしまったのだろう。私が男だったらもう少しはマシだったかも知れない。だけど、そうなっていたら自分の過去と向き合うこともなかっただろう。


「……私も、一歩間違えれば同じ道を辿っていたのでしょうね」


「今の君なら大丈夫だよ。海菜ちゃんも一緒だし」


「……ええ。そうね。私も、あの子とならこの先何があっても大丈夫な気がする」


「素敵な人に出会えて良かったね」


「ええ。そういえば、兄さんも恋人いるのよね?」


「あぁ、うん。居るよ」


「どんな人?」


「一言で言うと変な人」


「女性?」


「うん。歳は僕より一つ上。幼馴染なんだけど、知り合ったのは百合香と離れた後だし、妹が居るってことは彼女に話したことないから……」


「こうやって二人きりで居るところを見られたら誤解されるかもって?」


「そう。だから、いずれは話さないといけないんだけど……」


 そんな話をしながら歩いていると、ふと、背後から視線を感じた。振り返ると、物陰に隠れていた一人の女性と目が合う。兄も振り返り「あ」と声を上げた。


「もしかして、恋人?」


「……うん。そう」


 こちらを睨んでいる。誤解されているのは明らかだ。


「手間が省けたわね」


「手間が省けたって。ちょ、ちょちょちょ」


 兄を連れて女性の元へ。女性は驚いて逃げ出そうとしたが、兄が慌てて追いかけて引き止める。


「待って菜乃花なのか。話を聞いて。彼女のことはいずれ君に話さなきゃって思ってたんだ」


 兄がそう言うと、女性は動揺するように目を見開く。誤解を解くどころか悪化した気がする。


「あぁ、ごめん。悪い話じゃないから安心して。彼女はね、妹なんだ。僕の」


「いも……うと……?」


「そう。母さんと一緒に離れて暮らしてる妹の百合香」


「小桜百合香です。初めまして。兄がお世話になってます」


 ぽかんとしてしまう女性。沈黙が続く。大丈夫だろうかと思っていると「なんだよそれぇ」と泣きながらへたり込んでしまった。


「ごめんね心配させて」


 兄が女性に手を差し伸べる。女性はその手を取って立ち上がった。そして涙を拭い、私をまじまじと見つめる。


「……言われてみればちょっとあおくんに似てるかも。あ、ごめんなさい。あたしは秋山あきやま菜乃花なのか。あおくんの幼馴染で、彼女です。ごめんね。なんか、怪しいお姉さんにたぶらかされてるかと思っ……」


 言いかけて固まってしまう菜乃花さん。どうしたのだろう。


「……え? あおくんの妹ってことは……年下?」


「高一です」


「高一ぃ!? そんな、人妻みたいなエロい雰囲気で!?」


 よく言われる。言われ慣れてはいるが、嬉しくはない。複雑だ。


「ごめんね……思ってることすぐ口に出す人だから……」


「あ、ご、ごめんなさい。今のセクハラだった?」


「いえ。別に。言われ慣れてるから平気です」


「言われ慣れてるんだ……」


「慣れてそう」


「菜乃花」


「は、はい。すみません」


「ごめんね百合香。全く……」


「けど、意外とあっさり信じてくれるんですね。兄から聞いてないんですよね? 妹がいるって話」


「うん。初耳。お母さんの話は一回だけ聞いたけど、あまり触れない方が良いかなって思って。妹ちゃんと一緒に居るってことは、お母さんとは和解したってこと?」


「うんまぁ、そんな感じかな」


「一緒に暮らしてるの?」


「ううん。別居は続いてる。けど、前よりは良好な関係だよ」


「そうなんだ。あー……びっくりした。友達がさ、あおくんが女の子と一緒にいるのを見たって言ってて……君に限って浮気なんてあり得ないって思ったけど、実際見たらなんかすっごい仲良さげだし、不安になっちゃって……」


「ごめんね。そういう誤解を生む前に話さなきゃとは思ってたんだけどなかなかどう切り出したらいいかわからなくて」


「でも、良かった。浮気じゃなくて。いや、そんなことする男じゃないって信じてたよ? 信じてたけど……ごめんね疑っちゃって。百合香ちゃんも、ごめんね」


「いえ。これからも兄のこと、よろしくお願いしますね。菜乃花さん」


「おう。任せとけ!」


「ゆ、百合香……」


「ふふ」


 私はずっと兄と離れて暮らしていた。故に、兄のことはまだほとんど知らない。だけど、決してまだ手遅れではない。これから知っていくことは出来る。


「菜乃花さん、私、幼少期の兄のことほとんど知らないんです。ずっと、離れて暮らしていたので。だから……教えていただけますか? 兄のこと」


「えっ、ちょ」


「ふふ。良いよ」


「ちょっと菜乃花、変な話はしないでよ?」


「大丈夫大丈夫」


 その日は、兄の恋人から昔の兄の話を聞いた。私の知らない兄の話を。一緒に過ごせなかった幼少期はもう戻らないけれど、一緒に過ごせなかった時間よりも、この先の人生の方が遥かに長い。だから、兄との思い出はこれからたくさん作っていけば良い。

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