日課 4
「こらこら、逃げてばっかじゃ俺は倒せないぞ」
「そうですね、気が向いたら攻めます」
もちろん嘘です。何も気にすること無く逃げ回るメクルに今度は大ぶりの左拳が飛来します。当たれば大人一人を易々と壁まで吹き飛ばしそうな一撃、しかし、
(……、フェイント、タックル)
振り下ろした左拳がわざと空を切るように下がると同時に、鬼笛の姿勢が地を這うように長い両手をメクルの両脚へと伸ばします。膝元へと食らいつく狡猾な蛇のようなタックルです。
しかしこれもまたメクルは
「ぐへっ」
メクルはすぐさま飛んでいました。
鬼笛のタックルを空中へと膝を畳むように飛ぶことで回避し、さらには迫る相手の上半身、首の根元めがけて踏むように脚撃、その反動で更に前へと飛びます。まさしく猫です。
着地と同時に側転して方向転換、すぐさま鬼笛へと振り返ると、肝心の鬼笛はメクルの一撃にマットへと伏せていました。
(入った? ……いや、そんなにやわじゃないよね)
その通りでした、鬼笛は後頭部をさすりながらすぐに起き上がります。
「おおいてぇ、結局蹴られてやんの……なんだ全然鈍ってないじゃないの、その
振り返った鬼笛は苛つくどころか、むしろ嬉しそうに歪める微笑みにメクルは背筋がゾクゾクとしました。再びステップで間合いを詰め始める鬼笛に対して、警戒心を強めます。
「鈍ってはないけど、なにか
鬼笛が何かに気がついたのか、不意に放たれた言葉にメクルのフットワークのタイミングが僅かに崩れました。
「隙あり」
来る、そうメクルが思った時には既に鬼笛の踏み込みが終わっていました。
強い踏み込みはあろうことか4歩ある間合いを一瞬で詰めます。
(右、否、左縦、否、左裏)
突きつけられる選択をすぐさま読むメクル、しかし鬼笛の速拳に肉体は追いつきません。最短からの最速の左の裏拳、間に合わない回避を捨て、ガード固めながら後方へと体重移動、飛来する拳による痛打が腕を襲う、そう思った瞬間でした。
「ほい捕まえた」
衝撃は訪れず、メクルの顎先まで伸びてきていた一撃は、わざと顎を避けて通過し、パーカーの右襟元を握り込んでいます。
これ以上の後方へと逃れる術を奪うこと、それが鬼笛の狙いでした。
「ダメだろ、集中を切らしちゃ」
左手でパーカーを握りこみ、ここから右手、右膝、右足と撃ち込む技のあらゆる選択権が鬼笛に在り、一方で後方への回避を封じられたメクルに選択権が殆どありません。
あとは煮るなり、焼くなり、投げるなり、鬼笛がその勝利を確信したであろう、その時でした。
「切らしてないですよ、この展開も一応読んでましたから」
「なに?」
メクルの姿が、突如として消えました。鬼笛には確かにそう見えたのです。
パーカーはしっかりと握ったままなのに、忽然と消えたように見えたメクルは、
「
下でした、メクルはしゃがみながらパーカーを瞬時に脱ぎ捨てていました。ピーシー直伝早脱衣術にて膝を畳んで束縛から脱出、さらには脱いだ瞬間にやや下方へと引っ張った鬼笛の左腕を絡め取ります。
全体重を鬼笛の左腕にかけてマットへと引っ張りながら、メクルは自分の両足を同時にマットから蹴り上げます。
顔面への蹴りにも思える行動、しかしこれはメクルからのフェイント、本当の目的はさらにその先にありました。
「くお!? しまった」
その通り、
鬼笛の左手を全体重で引き込みながら体勢を崩させ、同時に両足を相手の顔の横へと伸ばして後頭部と左肩を巻き込むように両足でロック、引き込んだ左腕を横へと流し、股と腕と体重を使って絞り上げます。突如左腕にぶら下がったメクルの全体重に耐えられず、鬼笛は膝を突いて前へと倒れます。
メクルによる高速の空中三角絞めです。
急激に圧迫された頸動脈、人体で最も鍛えるのが難しい部位の一つである首、そこへ全体重と脚力をもっての絞め技こそが鬼笛よりも筋力、体重、全てに劣っているメクルが唯一狙えるとも言っていい勝利への道筋でした。
「ぐっおぐ……やるじゃ、ないか」
ギリギリと女子高生の脚と女子高生の腕と女子高生の股で締め上げられた三角絞めは場所が場所ならお金が発生する程の完成度です。逃れる術はまずありません。相手にはまだ右拳での鉄槌でこちらの腹部を振り下ろすこともできますが、右へと切って絡めた左腕とメクルの左膝が、二度、三度は殴れても、その間に確実に鬼笛を落とせます。
鬼笛がメクルの締め上げられた状態でモゴモゴと喋ります。
「お、ふ、でもこんな絞めじゃ、ダメ、だろ、相手をすぐに落とせって、教えた、ぞ」
「息がくすぐったいので喋らないでください」
「ふ、ふふ、苛ついてる、な……何か、あったたたた」
「いいから、早くタップを」
「あぁもう、くそギブだギブ」
鬼笛の降参を合図にメクルは両脚の拘束を解いて、後ろへゴロンと転がると、そのまま天井を眺めるように寝転がりました。
「疲れました……」
集中を切ったメクルはどっと汗が噴き出し、大きく深呼吸をしだしました。
「まだ一回戦目じゃないか、若いのに情けないぞ」
「鬼笛さん、早いから疲れるんです」
「失礼だな、別に俺は早くないぞ、人並みだ」
「人じゃないですよ、拳速も移動もフェイントも早いから先読みするのも疲れます、もう本当に獣とかの域ですよ」
「そうか、それじゃようやくお前達に近づいたってことかな、死神さん」
そう言って目の前へと来た鬼笛はメクルに手を差し出してきました。
「だから死神でも虎でもないですよ」
と、素直にその手を掴み引き起こしてもらうと、鬼笛が再び訪ねます。
「で、何があった? 焦ってるのは本当だろ」
「…………別に、なにもありません」
あります、奥付君の調査の優先順位度を下げてしまった『帰還者』の行方が未だに掴めていないことです。
御影学園の能力者達や生徒会の面々が血眼になって草の根分けて探しても発見に至らず、最初に疑わしきリストに上がっていた8人も全て外れでした。副会長の剣真にいたっては心労で老けるほどで、まるで帰還者本人が意図的に隠れているようだとぼやいていました。
「相変わらず嘘が下手だね」
「嘘、ついて、ない」
なぜかピーシーのような喋り方になったメクルは、それでも答えたくないと下を向いて、そのまま脱ぎ捨てたパーカーを手に取りバサバサと振って皺を伸ばします。
「俺はお前達と違って特殊能力だのチートだのは持ってないただの人間だけどな、それでも困ってる女子高生の気持ちは簡単にわかっちゃうんだぞ」
そう言って俯くメクルに鬼笛はいつのまにか手にしていた飲料水のペットボトルを差し出しました。
「それってなんだか変態ぽいですよ」
「失礼な、大人の貫禄ってやつだ」
「大人ですか、でも私、たぶん鬼笛さんより
長生きという言葉に鬼笛が眉をピクリと動かして、しげしげとこちらを見てきました。
「……あぁなんだっけか、確か他の異世界に行って帰ってきても歳をとらないんだってな」
「私の力ではないんですけどね、そういったチート能力者がいるんです」
まぁ現実世界の老化は止められないらしいですけどと付け加え、メクルは受け取ったペットボトルの蓋を開けました。
「そうか、そりゃなんというか、羨ましい話だ、向こうで10年修行して今の肉体に戻れるなら、そりゃ強くもなる」
「肉体は現実の肉体に戻すので、持ち帰れるのは経験と知識だけですけどね」
「なるほど、じゃぁメクルちゃんは精神年齢だけは大人というわけだ」
「そうですね、もしかすると、中身は90歳のお婆ちゃんかも?」
頬に汗を流しながら、どこか悪戯げに、そしてシニカルに微笑むメクルに、鬼笛は苦笑いを浮かべました。
「ふむ、だけど90歳のお婆ちゃんは、恋の悩みで焦ったりはしないと思うけどね」
「んぶっ!」
メクルは口にふくんだ水を思わず吹き出しそうになりました。
「お、やっぱり図星か」
「んな、なん、で、いえ……いえ、違います、違いますから!」
「説得力ないぞ、おばあちゃん」
「…………もう、いいです、次の試合に移りましょう、お望み通りに雌にしてあげますよ」
すこしいじけてしまったのか、言い当てられてしまってばつが悪いのか、メクルが次の試合を催促するのと同時でした。
『メクル様、生徒会からの連絡が来ています』
スピーカーからAIの声が聞こえると同時に、メクルは跳ねるように慌てて近くの黒い窓ガラスへと近づきました。
「出して」
そう言うと、窓ガラスはすぐにモニターへと変わり、なにやら書類らしきPDFファイルを映し出しました。
「鬼笛先生、ごめんなさい、仕事が入りました」
「忙しいね、わかった、じゃぁ続きはまた今度だ」
「すみません、料金の方は今日の分を振り込ませておきます」
「毎度あり、それで、なにかあったのかい?」
そう訪ねた鬼笛が癖なのか煙草を取り出そうとして無いことに気がつき、思わず肩を落としていると、メクルが先読みしていたのかミントガムをポケットから取り出して鬼笛に投げながら、
「御影城に忍者のような大男と、なぜかタオル一枚で飛び回る少女が現れたそうです」
そんな言葉と共にガムを受け取った鬼笛は、
「変態ってのは、そういう奴らのことを言うんだ」
やれやれと、鬼笛はガムを口に投げ込みました
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