68、キルマージ、堪える
* * * * * *
肌を刺すような殺気。それを感じた瞬間、キルマージは後ろに立てかけていた剣に手を伸ばそうとして、かろうじて理性で思いとどまった。
キルマージよりも若いトーマは反射的に剣を抜いていた。優秀な剣の使い手だけに反応も速い。キルマージはそんなトーマを腕で制し、無言で俯くバルクライを刺激しないように落ち着いた口調で声をかける。
「団長?」
「……すまない。無意識だった」
バルクライが顔を上げた時には立ち上る殺気も霧散していた。自制心を働かせた反動なのか、眉間にうっすらと皺を刻んでいるが、たった一呼吸で動揺を収めたのはさすが師団長を務めるだけのことはある。
優秀な指揮官の意外な不器用さは人間味があり、キルマージには好ましいものに見えた。トーマは上司の見たこともない姿に驚いているようだが、その目に失望の色はない。剣を収めながら面白そうに口端を歪めている。
「あんたも、嫉妬なんかするんだな」
「嫉妬?」
「あんな殺気を出しといて自覚ないのかよ? 自分の女の隣に自分以外の男がいるのを想像して苛立ったんじゃねぇの?」
「……彼女はオレの恋人ではない」
「は? 団長程の人が片想いしてるって? 冗談だろ?」
「片想い? はしていない。大事な子ではあるが」
トーマが誤解しているために、会話が噛み合っていないようだ。キルマージは考える。おそらく、バルクライが嫉妬したのは間違いないだろう。だが、驚きなのは相手があのモモであることだ。
この場合、バルクライ様のご心境の変化を喜ぶべきでしょうか……? キルマージは十六歳に戻ったという彼女の姿を見ていないので、異性として認識することが難しかった。彼女の普段の様子を見ていても五歳児らしからぬ言動はあれど、無邪気で可愛い幼女にしか見えないのだ。彼女の言葉は信じているし、バルクライのことも信用している。だが、こればかりは感覚の問題だった。
惹かれていることは知っていたが、まさか、バルクライが嫉妬するほど気持ちを育てているとは予想外の一言につきたのである。
キルマージは今まで恋愛ごとからあえて遠ざかってきた。姦しい母と妹に、お人好しな父という家庭の中で育ってきたために、女性に苦手意識が働くのである。自覚のある美貌は貴族以外の女性をも引きつけてきたが、カイほどあしらいが上手くないキルマージには苦痛なことばかりだった。
そんなキルマージからすれば、モモは特別だ。彼女を見ていると、曇りのない保護欲が湧き上がり、兄のような気分になれた。世話を焼きたくなり、可愛がりたくなる相手など、今まで周囲にいたことがなかったのだ。
「なぁ、あんたも……なんで泣きそうになってるんだよ」
トーマが半眼になって自分を見ている。わかっている。こんなことは自分らしくない。落ち着きなさい、キルマージ! 私は副師団長なのだから、こんなことで感情を露わにしては……。キルマージは自分を叱責して感情を押さえようとした。しかし、こればかりは無理だった。口元を押さえて涙を堪える。
こんなもの、感動するに決まっている! あの、無表情なバルクライが! 可愛いモモに、自覚はなさそうだが、恋に近い感情を抱いているのだ!! ここは感動するべきところでしょう!? キルマージは冷徹である反面感激屋でもあった。
「バルクライ様、良かったですね……っ」
「いや、わけわかんねぇから」
「トーマはもう帰っていいですよ。──それよりも団長、あの子に限っておかしなことはしていないと思いますし、少し様子を見てはどうです?」
「……そうだな」
「はぁ、もう面倒だから書類のサインだけ貰ってく。団長、書いて」
「ああ」
トーマは疲れた様子で書類をバルクライに突き出す。それを見ながら、キルマージは久しぶりに感じた感動の余韻を味わう。この気持ちを、ぜひ誰かと分かち合いですね。
「団長、少し席を外しても?」
「……早く戻れ」
浮き立つ心のままに尋ねると、ちらりと書類の量を確認したバルクライがあっさりと許可をくれた。死ぬほど忙しいわけではないので、少し抜けるくらいなら大丈夫だろう。こういう時こそ幼馴染の出番だ。カイに話に行きましょう。キルマージはウキウキした気分で席を立った。
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