8話 会話


 類香が離れたところから見守っていた夏哉の昼ご飯調達はあっさりと終わった。お菓子のリクエストはあるかと聞かれ、何でもいいと答えた彼女はそのまま彼の背中について行く。廊下の先を抜け階段を上がる。屋上に出る扉まであと一歩という段を踏み込んだ夏哉は足を止めた。そしてそこに座り込むと、爽やかな瞳で類香を見上げる。


「隣、座る?」


 類香は彼を見下ろしたまま黙って頷きすとんと座り込む。隣で夏哉が購買で買ったパンを開けるのを見ていると、食欲をそそるスパイスの香りがその場に広がった。

 夏哉が買ったのはカレーパンだ。類香は渡されたチョコレート菓子を遠慮がちに開けると、そのまま人差し指の第一関節くらいの小さなチョコレートを一粒口に運んだ。

 口の中がチョコレートの仄かな甘さで満たされると、ふと、仏壇に供えたお土産を思い出した。母親もこういった類のチョコレートが好きだったのだろうか。それとももっとビターな香りか。類香は幸福に満たされる味覚とは裏腹に、心に隙間風が吹いてくるのを感じた。


「瀬名はさ……」


 風と共に夏哉の声が聞こえてくる。


「文化祭、何かやりたいことあったりする?」


 何ともない話題だ。類香は安心したように夏哉を見た。


「ないよ。夏哉はあるの?」

「俺も特に案はないけど……なんとなく、みんなが楽しめるようなやつがいいよな」

「お客さんが?」

「それと、クラスの皆も」

「……夏哉って」

「何だ?」

「お人好しなの?」


 類香は夏哉を憐れむような目で見た。彼は一拍置いてから瞬きをする。


「そんなことはないけど、楽しいほうが良いとは思わない? このクラスでの文化祭は一度きりだし」

「そうかな」

「まぁ、どう思おうが自由だけど」


 夏哉の眉尻が下がった。残念がっているのか、からかっているのか類香には分からない。


「去年はクラスでゾンビハウスをやったんだ。まぁただのお化け屋敷なんだけど」

「定番だね。素人の悪ふざけと変わらない」

「はははは。言えてる。だけど、やってる側は案外本気なんだからな」


 夏哉は声をあげて笑った。軽い笑い声は重力の抵抗も受けずに天井へと舞い上がっていく。


「そうなの? どうやったって、所詮はチープなのに」

「それでいいんだよ。で、瀬名のクラスは何やったんだ?」

「ジェットコースター」

「お! 楽しそうだな!」

「私は乗ってないけど」

「そうなのか? 勿体ないなぁ」


 今度はからかうような夏哉の表情に類香は少し罰が悪い顔をした。彼の瞳の奥にかつてのクラスメイトたちの努力の結晶が蘇ってくる。


「参加しただけ、偉いでしょ……?」

「そうだな。確かに、それはそうだ」


 夏哉はカレーパンを一気に食べ終え口元と手元を拭いた。


「で?」

「……で?」


 類香はこちらを見ている夏哉をぽかんとした顔で見る。何かを問いたい顔をしているのは読み取れた。が、その先は分からなかった。


「瀬名、今年は文化祭参加するのか?」

「…………決めてない」

「……そっか」


 気まずそうに答える類香に彼はニコッと笑いかけ、類香の持っているチョコレートを袋から一粒拾い上げた。


「強制させるつもりはないけど。参加するのも悪くはないんじゃないか?」

「……でも」

「ん?」

「準備とか、みんなで協力するものでしょう? 今までは適当にやってこれたけど、今は……なんか、嫌だな」

「……」


 夏哉は何も言わなかった。理由を聞いていいものか、微妙な距離をまだ掴むことはできないのだろう。


「夏哉?」


 類香はそんな夏哉を試すように首を傾げてみる。類香の分析だと彼はお人好しだ。こういう時、彼は一体どういった反応を見せるのだろう。

 昼休みに付き合わせてしまったことを類香は少しばかりは悪いと思っている。だからそのお詫びと言っては何だが、別に何を尋ねてこようとも怒りはしない。巻き込んでいるのは自分の方だ。それくらいの恩義はある。


「あ、いや、……そうだな、嫌なら、しょうがないよな」


 思った通りの当たり障りのない反応に類香はほんの少しがっかりした。


「瀬名は、クラスメイトのことが嫌いなの?」

「……え?」


 類香は小さく目を見開く。これまでそんな当たり前の問いかけさえされてこなかった。

 直接聞く気など起きもしないほど、彼女の態度はあからさまだったからだ。


「嫌いになる権利なんて、ないよ……? 皆のこと知らないし」

「じゃあ、苦手とか?」


 困惑する類香に夏哉は構わず続ける。


「苦手、ね」

「お? 図星か?」


 夏哉の表情が明るくなった。しかし類香はその表情が鬱陶しく感じたようで、対照的に強張る。


「その顔やめて。あのね、そういうのじゃないの」

「じゃあなんだよ?」

「……夏哉は、日比さんのことよく知ってる?」


 恐る恐る尋ねた。何故だか分からない。それでも夏哉なら話を聞いてくれる気がしたのだ。根拠のない自信が彼女の名前を口走らせた。


「日比? いや、俺も今年から一緒のクラスだし、詳しくは知らないけど……いい奴だよな?」

「……そう思ってるんだ」

「ああ。クラスでもいつも明るいし、優しいし、皆のことを考えてくれてるっていうか……あいつがいると、クラスが平和になる感じ。癒し系って言うの?」

「……ふぅん」

「ほら、瀬名が他のクラスのやつに絡まれてた時、助けに行ってただろ? 日比も、喧嘩とか嫌いなんだろうけど、身を挺して止めてくれただろ」


 夏哉は類香の釈然としない表情に気づいて首を傾げる。


「もしかして、そういうタイプ苦手なの?」

「……」


 類香は黙った。何と言えばいいのだろう。適当な感情が思い浮かばずに眉間にだけ力が入っていく。


「日比さん、最近私に話しかけてくれるの。だけど、どうしてかなって。今になってそうやって来られても、何を考えているのかよく分からないの。どう接していいのか分からない。今日もきっとまた話しかけてくる。それが、ちょっと困る」


 類香の淡々とした声に夏哉は拍子抜けした表情を返す。


「瀬名って、案外繊細なんだな」

「は?」

「いや、ごめん。勝手に、そう思っただけなんだけど……」


 夏哉は少し慌てたように謝ると、ほっとしたように息を吐いた。


「俺、瀬名のことちょっと怖かったから」

「……正直者」


 控えめに白状をした彼に対して類香はぼそっと呟いた。


「瀬名って一匹狼だろ? それに、いつも周りを睨んでる。だから、一体どんな奴なんだろうって、気にはなっていたけどさ、怖いものは怖いじゃん?」

「情けないよ」

「ははは。いいよ、情けなくても。俺は正直者なんで」


 夏哉はけらけらと笑った。


「でもよかった」

「何が?」


 類香は光のない瞳を夏哉に向ける。


「瀬名、ちっとも怖い奴じゃない。ちゃんと話してくれるし」

「勝手に思い込んでただけじゃない」


 でも、自分にも当然自覚はある。類香はチクリと心が痛んだ。自分の狙った通りの印象なのに、なぜだか気まずさを感じてしまう。スポンジで心臓を撫でられているようで、その違和感が歯がゆかった。


「そっか。日比に声かけられるのが嫌で俺を呼んだな?」

「……バレた?」

「おかしいと思ったんだよね。瀬名が突然俺を誘うなんて。俺は隠れ蓑か」

「……それは、ごめん」

「いいよ。役に立てて光栄です」


 夏哉は相変わらず笑っている。類香はその表情を見て不思議に思った。彼は本当によく笑う人なのだろう。これまで知ろうともしなかったけれど。


「でも日比はそんな変なやつじゃないだろ。別に誰かと話したくなるタイミングなんて決まってないし。何か企んでるわけでもなし、純粋に瀬名と話したいだけだろ。瀬名のこと、放っておけないんじゃないか?」

「どうして……?」

「クラスでいつも一人だし、そういうの気になるとか……ない?」

「余計なお世話だよ……」

「まぁ俺は、日比の気持ちもわかるけど」


 類香は思いがけない夏哉の言葉に興味を抱いた。ぱちぱちと瞬きでそれを示すと、彼は片付けの動きを止めて身体を傾ける。


「俺も、瀬名のことは何か放っておけないなって思ってたし」

「……だから、昨日?」

「そう。思わず助けに行ってみたくなっちゃったわけ」

「…………本当、勝手な人たち」

「それは瀬名もだろ?」


 夏哉はそう言うとゆっくり立ち上がった。


「瀬名にとっては迷惑かもしれないが、もう少し、日比にチャンスをあげたらどうだ? あいつもきっと、モヤモヤしてるんだろうよ」

「……そんな正義感要らないのに」

「まぁそう言わず」


 類香は夏哉に続いて立ち上がる。スカートを軽く払い、腕時計を見やった。そろそろ教室に戻らなくては。


「後悔しても知らないんだから」


 そう呟くと、類香はちらりと夏哉の横顔を見る。どこか清々しい彼の表情を無意識に瞳に入れ続けた。どうして一人で教室を出れなかったのか。何故、夏哉を道連れにしようと思ったのか、それを考えていた。しかしその答えはもう出ていた。

 理由なんて単純なものだった。

 初めての感情に対峙して、きっと誰かに相談したかっただけなのだ。


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