第33話
思えば、長い道のりだった。
目の前に広がるティダ共和国の首都の景色を眺めながら、サーラは今までのことをひとつずつ、思い出していた。
王太子だったカーティスと婚約した日。
聖女を名乗るエリーが、彼と恋人のように寄り添っている様子を見てしまった日。
婚約破棄を言い渡され、すべてがどうでもよくなって、受け入れたときのことも。
でも、あのときのカーティスの冷たい言葉も、役立たずだと言わんばかりの両親の視線も、もうすっかり過去のことだ。
今のサーラの心を、傷つけることはできない。
過去の亡霊でしかなかった。
そう思えるようになったのは、孤児院で出逢った人々と、何よりもルーフェスのお陰だ。
馬車を降りたふたりは、早速今夜の宿を探すことにした。
きちんとした宿は、早く探しておかないとすぐに満員になってしまう。馬車の御者が、そう助言してくれたのだ。
しかも大陸中からいろいろな人が集まっているので、少し危ない場所もあるらしい。
でも町の中心部はきちんとした警備団が見回りをしているので、裏道にさえ入り込まなければ、女性ひとりでも歩ける。
ルーフェスは、その安全な地区に今夜の宿を取り、今日はそれぞれの部屋で休むことにした。
ここは長期滞在用の宿で、部屋もいくつかあり、キッチンも備え付けられていた。
しばらくはこの宿が、生活の拠点となるだろう。
ゆっくり移動してきたとはいえ、馬車での移動が長かったために、さすがに身体は疲れていた。
サーラは部屋の奥に荷物を置くと、寝台に座った。
寝室もふたつあって、サーラはひさしぶりにひとりになった。
ひとりになるなんて、公爵家で暮らしていたとき以来だ。
物音ひとつしない部屋はあまりにも静かで、少し寂しくなる。
ルーフェスの傍に行きたい。
会話はなくとも、隣に彼の存在を感じるだけで、きっと安心するに違いない。
(どうしようかな……)
しばらく考えたあと、部屋を出てリビングに向かう。するとそこには、期待していたように荷物の整理をしているルーフェスの姿があった。
「どうした?」
「ちょっと喉が渇いて。お茶を淹れようかなって」
「そうか」
彼が荷物の中から旅の最中に使った食器と茶葉を出してくれたので、それを持ってキッチンに向かう。
お茶を淹れるのも、ようやく慣れてきた。
二人分のお茶を淹れてリビングに戻り、ひとつをルーフェスに手渡す。
「ああ、ありがとう」
そう言って受け取ってくれた彼の隣に座り、まだ熱いお茶を両手で包み込むようにしながら、一口飲む。
(……おいしい)
公爵家で日常的に飲んでいたお茶と比べるとかなり安価なものだが、彼と並んで飲むお茶は、前に飲んでいたものよりも特別に感じる。
ふたりとも口数が多いほうではない。旅をしている最中も、沈黙が続くことはよくあった。
でも、とても心地良い空間だった。
「明日になったら早速、定住許可証の手続きをしよう」
お茶を飲み終わる頃に、ようやくルーフェスがそう言った。彼の提案に、サーラはこくりと頷いた。
「そうね」
その許可証がないと家を借りることはできないし、仕事にも就けない。何よりも先に、それを得るべきだろう。
「許可証を発行してもらうのは、それほど難しくはないはずだ。きっと大丈夫だろう」
「……うん」
少し不安だったのが、彼には伝わったのかもしれない。その不安を吹き飛ばすように、サーラは笑みを浮かべた。
翌日、ふたりは役場に行って手続きをした。
そう難しいものではない。名前と年齢を申告し、一定の金額を収めるだけだ。手続きは簡単だが、許可証を必要としている人は多く、順番が来るまでかなり待たなければならなかった。
朝早くから並んで、昼過ぎにようやく申請を終えることができた。
何事もなければ、数日後には許可証を発行してもらえる。
並ぶという行為が初めてだったサーラはすっかり疲れ果ててしまったが、商店街の中にパン屋を発見して立ち止まる。
「あの店に、寄ってみてもいい?」
外装も可愛らしく、パンの焼ける良い匂いが漂ってくる。
思わずそう言うと、ルーフェスは頷いた。
「ああ。あそこで昼食を買っていこうか」
嬉しくなって、思わず小走りで店に入る。
「いらっしゃいませ」
若い女性の明るい声が、サーラを迎えてくれた。
おっとりとした優しい笑顔の女性が、にこやかにこちらを見ている。
サーラは軽く会釈をすると、店内を見渡した。
こじんまりとした店だが、たくさんのパンが並べられていた。中には、見たことのないパンもある。ここには、あらゆる国から移り住んできた人たちがいるからだろう。
いくつかのパンを選んで会計に持っていくと、先ほどの店員の女性のお腹が大きいことに気が付いた。どうやら妊娠している女性らしい。
「大丈夫ですか?」
仕事をしていても平気なのだろうか。
心配になって思わず尋ねると、彼女はにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。さすがにそろそろ、お手伝いをしてくれる人を雇いたいのですが、小さな店なのでなかなか人が見つからなくて」
素敵な店だと思っていた。感じの良いひとだった。
いつか、こんな店で働ければと思っていた。
「あの、わたしではだめですか?」
思わずそう口にしていた。
「サーラ?」
後ろにいたルーフェスが驚いたようにサーラの名を呼ぶ。
自分でも、あまりにも突拍子のないことをしていると思う。
初めて訪れた店で、急に雇ってほしいと頼み込むなんて、昔の自分では考えられない行為だ。
でも、働くならこんな店がいいと思ったのだ。
「昨日、この国に来たばかりでまだ許可証がないんですが。でも、こんなお店で働きたいなって、ずっと思っていて」
必死に言葉を紡ぐサーラに、その女性は優しい笑顔で頷いた。
「今日、申請したのなら、五日後には下りるかしら。そうしたら、また来てもらってもいいですか?」
「本当ですか?」
まさか、受け入れてくれるとは思わなかった。
目を輝かせるサーラに、女性は頷いた。
「ええ。正直、とても助かります」
突然の成り行きにルーフェスも驚いていたが、サーラの意志を優先させてくれた。
彼はけっして、サーラを否定しない。
それがとても嬉しかった。
ルーフェスには、ここに連れてきてもらった恩がある。しっかり働いて、恩返しをしたいと思う。
だが、この日。
サーラを探して、ひとりの男がこの国まで辿り着いていた。
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