第25話
やがて出航した船は、ゆっくりと大海原を進んでいく。
窓のない船室では、その景色を眺めることは不可能だ。でもサーラには、その様子をはっきりと思い描くことができるような気がする。
朝霧が立ち込める海を、大きな旅客船がゆっくりと進んでいく。
少しずつ遠ざかる港町。
それは、生まれ育った国を離れていくことだ。もう戻れないかもしれない祖国。
まだ油断してはいけないとわかっている。
でも、追手に見つかることなく無事に船に乗り、出航できた高揚感から、サーラは両手を握りしめた。
こんなに清々しい気持ちは、生まれて初めてだ。
新しい人生への、まさに船出。
(わたしは、これから生まれ変わる)
まるで宣誓のように心の中でそう呟き、ゆっくりと瞳を閉じた。
エドリーナ公爵家の令嬢だったサーラは、もういない。
婚約者だったカーティスのことは、忘れてしまいたい。
エリーの勝ち誇ったような笑みだけは、まだサーラの心を傷つける。でも、もう二度と会うことはないのだから、やはり忘れてしまおう。
期待に答えることができなかった、両親。
婚約者だったカーティス。
サーラを敵視していたエリー。
彼らに別れを告げてから、目を開ける。
ふと視線を感じて横を向くと、ルースが静かな瞳でサーラを見守っていた。
(ルースさん……)
彼の手助けがなければ、ここまで来ることはできなかった。
そんなルースにすべてを打ち明けて、気が済むまで泣きじゃくってしまった。
そのことを思い出すと、かなり恥ずかしい。
でも長い打ち明け話を、ルースは辛抱強く聞いてくれた。
ここに至るまでのサーラの迷い、葛藤。そして決意。
それらを理解してくれた。
こんな人は、初めてだった。
(でも、やっぱりあんなに泣いてしまったのは、少し恥ずかしいわ)
赤くなった頬に手を当て、逃げるように視線を反らしたサーラの耳に、ルースの優しい声が聞こえる。
「泣けるようになったのは、良いことだ。耐えることしかできなかった状態から、脱した証拠だ」
まるでサーラの心を理解していたような言葉だったが、彼の言う通りだった。
今までは泣くことさえできなかったのに、言葉にして語ったことで、心の整理ができたのは間違いない。
「はい。ようやく、泣けました」
そう言って素直に頷く。
するとルースの手が、まるで妹を褒める兄のように、サーラの頭を撫でる。それからはっと我に返り、切なそうに謝罪するのは、以前とまったく同じだった。
サーラと妹を重ね合わせてしまい、亡くした痛みを思い出してしまったのだ。
(大切な、妹だったのね)
知ることのない、ルースの過去。
彼の妹は、どんな理由で亡くなってしまったのだろう。
聞いてはいけないことだ。触れてもいけない。
それを理解していたサーラは、ルースが落ち着きを取り戻すまで、ただ静かに待った。
サーラはすべてを彼に話し、涙を流せたことで、前を向くことができるようになった。これから先の人生を、思い描くことができるようになった。
でも、彼はまだその段階ではない。
思い出すことさえ、これほどまでに苦痛なのだ。
今のサーラにできるのは、ルースの手助けに感謝して、逃亡を無事に成功させることだけだ。
「まだ今は、少し揺れを感じる程度ですが……。これから、荒れるのでしょうか?」
ルースの様子を伺い、もう大丈夫そうだと思ったところで、不安に思っていたことを尋ねる。
船酔いになると、とてもつらいらしい。それを聞いたときから、怖かったのだ。
「そうだな。今日は天気も良いし、まだ陸から離れていないから、船もあまり揺れていない。だが、これから荒れる日もあるかもしれない」
「……そうですか」
不安だったが、天候だけはどうにもならない。船酔いだって、なるかどうかわからない。
確定していない未来を、今から思い悩んでも仕方がない。
そう思えるくらいには、サーラは強くなっていた。
すべて、あの孤児院での経験のお陰だ。
できないなら、頑張ればいい。
どうしようもないほど不安なことなら、いったん忘れてしまえばいい。
優しくそう教えてくれたキリネを思い出して、少しだけ感傷的になる。国に帰らないということは、彼女たちにも二度と会えないということだ。
優しい院長に、かわいい子どもたち。
アリスは無理をしていないだろうか。あんなに慕ってくれていたのに、戻るという約束を果たせなくなってしまった。
そう考えると、また泣いてしまいそうになる。
「どうした?」
「……孤児院のみんなのことを、思い出して。あんなに親切にしてもらったのは、初めてだったから」
「そうか」
頷くルースの声は優しかった。
「落ち着いたら、手紙を書くといい。詳しいことは話せなくても、無事だとわかれば喜ぶだろう」
「はい」
サーラは頷く。
たとえ離れてしまっても、大切な人たちだ。彼女たちに受けた恩は、けっして忘れることはないだろう。
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