第9話
サーラやキリネとはほとんど会話をしないルースだが、子どもたちとはそれなりに話をしているらしい。
危ない場所ややってはいけないことなど、注意が多いらしいが、アリスを始めとした子どもたちも、そんな彼を慕っているようだ。
サーラも初めてパン作りをしたとき、話しかけることもできずに狼狽えていた。それなのに、嫌な顔ひとつせずに、優しく対応してくれたことを思い出す。
(優しい人なのね)
子どもたちの安全を考え、過剰くらい注意しているのも、ルースが優しいからだ。その忠告を無視してはいけない。
そう考え、かなり遠回りをして立ち寄ったのは、町の中心にあるパン屋だ。
店先から香ばしいパンの香りや、甘いジャムの香りが漂っている。ここのジャムが一番おいしいと、キリネが力説していた。
店番をしていたのは優しそうな壮年の女性で、目を輝かせているアリスに色々なジャムを試食させてくれた。
「やっぱり木苺がいいかしら?」
モーリーはいちごが好きらしいが、季節柄、木苺のほうがよさそうだ。サーラの提案に、アリスも大きく頷く。
「うん。これがいいと思う」
甘酸っぱくておいしいと、何度も言っていた。
サーラは小さな小瓶のジャムをひとつ買い、嬉しそうなアリスに手渡して店を出た。
アリスは、ジャムの瓶を大切そうに抱えている。
「買い物は、これで全部かしら?」
そんな彼女と、買い忘れがないか確認していると、ふと頬に水滴が落ちてきた。
見上げると、ぽつぽつと雨が降ってきている。
とうとう雨が降ってきてしまったようだ。
「ああ、大変。急いで帰らないと」
サーラは外套のフードをアリスの頭に被せ、その手を引いて歩き出す。思っていたよりも時間が掛かってしまったのは、サーラの足が遅かったせいだ。これからも歩くことは多いだろう。もっと足を鍛えなくてはならない。
そんな反省をしながら、帰り道を急ぐ。
キリネの言っていたことは、本当だった。どんなに急いでも、雨はどんどん強くなっている。
(どうしよう。少し止むまで、どこかで雨宿りをしたほうがいいのかしら。でも……)
帰りが遅くなったら、それだけ心配を掛けてしまうかもしれない。
必死に歩きながら思案していると、アリスと繋いでいた手に、ぎゅっと力が込められた。
「アリス?」
寒いのだろうか。
気にして足を止めると、アリスは少し思い詰めたような顔をして、ごめんなさい、と言う。
「わたしが、ジャムを選ぶのに時間をかけてしまったから」
そう言うアリスに、サーラは慌てて首を振る。
「そんなことはないわ。むしろ、わたしが歩くのが遅かったせいよ。だから気にしないで」
互いに謝り、相手のせいではないと否定して、思わず顔を見合わせて笑う。やはり育った環境のせいで、普通の子どもよりも大人びている。
アリスは、自分によく似ている。
彼女にもそれがわかったのだろう。ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
「あの大きな木の下で、少し雨宿りをしましょう」
サーラはそう言って、アリスとともに大きく枝を茂らせた木の下に逃げ込む。帰りが遅くなったら、孤児院では心配するかもしれない。でもこのまま闇雲に急いだら、足を滑らせて転んでしまいそうだ。
ここはゆっくりと休んでから、また歩き始めたほうがいい。
街道に根を張るほどの大きな木は、降りしきる雨を少し防いでくれた。
古びた外套から、雨が染み込む。
その寒さに身を震わせながら、アリスの手をしっかりと握っていた。小さな手のひらから感じる温もりが、何だか心強く感じる。
「サーラさんは」
ぼんやりと降りしきる雨を眺めてぼんやりとしていると、ふと声を掛けられて我に返った。アリスが、少し思い詰めたような顔をしてサーラを見つめている。
「どうしたの?」
「しばらくしたら、隣町に戻ってしまうの?」
アリスは寂しく思って、そう言ってくれたのだろう。
「……そうね」
サーラも同じ気持ちだった。
ここでの生活は、とても楽しい。
修道院でも自由を得たと感じていたが、周りにいるのは同じような境遇の女性たちばかり。さらに元婚約者のカーティスが押しかけてきたせいで、もうサーラにとってくつろげる場所ではなくなってしまっていた。
「いずれ、帰らなくてはならないのね」
振り続ける雨も相まって、憂鬱な気持ちになって吐き出すようにそう言った。
「サーラさんが、ずっとここにいてくれたらいいのに」
「ありがとう。わたしもできるなら、そうしたいわ」
本当に、孤児院の院長に頼んでみようか。そう思い立つ。
アリスもこう言ってくれるし、きっとキリネも歓迎してくれるだろう。
ここで生きていく未来を想像して、ふと表情を緩ませた瞬間。
空に閃光が走り、続けざまに轟音が鳴り響いた。
「きゃっ」
サーラは思わずアリスの手を強く握りしめて、ふたりでしゃがみこむ。
雷鳴だ。
低い唸り声のような音が聞こえたかと思うと、間髪を入れずに再び閃光と轟音。
サーラもアリスも、悲鳴を上げることすらできなくて、ただ互いの手をしっかりと握りしめて震えていた。
(……怖い)
それでも、アリスはまだ保護するべき子どもだ。
サーラは震える手でアリスの肩を抱き、落ち着かせるように背を撫でる。
「大丈夫、だからね」
発した声はみっともないくらい震えていたが、声を出したことで少し落ち着きを取り戻した。
雷は、きっとすぐに通り過ぎる。それまで、こうしてじっとしていればいい。
「駄目だ」
そんなとき。
ふと誰かの声がして、腕を引かれた。
驚いて顔を上げると、外套のフードを深く被った人物が、サーラとアリスの腕を掴んでいる。
低い声に逞しい腕。男性だ。
「……っ」
驚いて身を引こうとしたが、それよりも先にアリスが、その男性の腕にしがみついた。
「大木の真下にいるのは危険だ。雷が落ちる可能性がある」
聞き覚えのある声。
アリスの行動に驚くサーラにこう言ったのは、孤児院の雑用をしているルースだった。
「ルースさん」
彼は、ふたりを迎えにきてくれたのだ。
安堵から、思わず名前を呼んでしまう。
ルースはそんなサーラに頷き、ふたりの手から荷物を引き取ってくれた。
「ここから離れなくては。もう少し先に、安全に雨宿りできる場所がある」
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