第6話

 手伝いに来たはずなのに不慣れなサーラに、ここに来たときに出迎えてくれたあの修道女も、とても親切にしてくれた。

 彼女はもともとここの孤児で、成人してから修道女になることを選んだようだ。お世話になった院長先生に、少しでも恩返しをしたかったと語った。サーラよりも年上だったから、まるで孤児院の子どもたちに接するように、てきぱきと指示してくれる。

 だが雑用係の男性だけは、サーラと話そうとしない。

 ここについたときに挨拶したけれど、ただ目を逸らして頷いただけだった。

 男性がいると聞いたときは、ウォルトのような壮年の男性だと思っていた。でも実際に会ってみると、彼はサーラと同じ年頃の若い男性だったのだ。たしかにここは修道院ではなく孤児院だし、子どもたちの中には男の子もいる。向こうよりもずっと、男手が必要になるのだろう。

(それなのにわたしは、かなり驚いてしまったわ……)

 もしかしたら初対面のときに過剰に反応して、怒らせてしまったのかもしれない。

 サーラは婚約者だったカーティスや、その取り巻きのせいで、同い年くらいの男性が少し怖い。だからこそ、そんな反応をしてしまった。

 サーラは、彼と初めて会った日のことを思い出してみる。

 彼は、ルースという名だった。

 背は高いが痩せていて、あまり力仕事が得意そうには見えなかった。この国では珍しい黒髪だったので、他国の出身なのかもしれない。孤児院の雑用係なので平民だと思われるが、どことなく優美な雰囲気を持った不思議な人だった。

 驚いてしまって、思わず観察するように見つめてしまったのが、悪かったのだろうか。

 思い悩むサーラに、気にしないでね、と言ってくれたのはキリネだった。

「ルースはもともと、人嫌いなのよ。あんたにだけじゃなくて、みんなにあんな態度だから。でもあまりひどいようなら、わたしに言うんだよ」

「……はい。ありがとうございます」

 サーラは頷きながら、遠くにいるルースを見つめた。

 まるで貴族のような優雅な見た目の、人嫌いの男性。

 どうやら彼もまた、訳ありのようだ。

 初対面のときの態度を謝りたいと思っていたが、人が嫌いなら、彼とはあまり関わらないようにしよう。そう思って、なるべく接しないようにして過ごしていた。

 こうして、サーラが孤児院の手伝いに来てから、三日ほど経過した。

 最初は少しだけ心配していたが、婚約者だったカーティスがここまで押しかけることはなかった。

 ようやく、平穏な生活を取り戻すことができたと安堵する。

 ここでの生活は修道院とは比べものにならないくらい忙しく、毎日が大変だった。

 朝になると自分で起きて、身支度を整える。

 ここまでは修道院での暮らしと一緒だが、ここではそれから子どもたちを起こして身支度を手伝い、朝食の支度をしているキリネを手伝わなくてはならない。

 朝から本当に忙しくて、気が抜けない。

 朝食が終わったあとは、子どもたちに読み書きを教えたりする時間がある。そのあとは、キリネを手伝って掃除や洗濯をする。さらに昼食や夕食の準備など、忙しくて息をつく暇もないほどだ。

 でも今は、忙しいほうがいいのかもしれない。

 ここに来てからずっと忙しくて、カーティスのこともエリーのことも、ほとんど思い出さなくなっていた。

 今まで子どもと接したことはほとんどなかったが、ここにいる子どもたちは皆、素直で可愛らしい。

 何より、まだ不慣れで失敗ばかりのサーラにも、何かしてあげるとありがとうと言ってくれる。

 キリネも、孤児院の院長もそうだった。

 手伝ってくれてありがとう。運んでくれてありがとう。

 そう言われる度に、嬉しかった。

今まで誰かのために何かをしても、お礼を言われたことなど一度もなかったのに。

 公爵家で暮らしていたときよりも、まだカーティスと何事もなく婚約者同士でいられたときよりも、今が一番しあわせだと感じていた。

 できるならこのまま、孤児院で働きたかった。

 でもサーラは手伝いに来ただけなので、必要がなくなればあの修道院に帰らなくてはならない。もしずっと忙しいままなら、ここにいられるかもしれない。そんなことを考えていた。

「サーラ、今日はパンを焼くから手伝っておくれ」

 そんなある日。

 キリネにそう言われて、サーラは頷いた。

「ええ、もちろん」

 彼女を手伝うのが、サーラの仕事だ。

 だが、パンを焼いたことは一度もなかった。申し訳なさそうにそう告げると、キリネは笑ってこう言ってくれた。

「大丈夫。ちゃんと教えるからね」

「ありがとうございます」

 何も知らない自分を見捨てることなく、こうして親切に教えてくれるキリネの存在には、本当に助けられている。

 サーラはいつも結んでいた金色の髪を、さらにきっちりと纏め、作業用のエプロンをして、厨房に向かった。

「何からすればいいですか?」

「そうだね。まずルースに、小麦粉を厨房に運んでくれるように言ってきて欲しいんだけど、大丈夫かい」

「……はい」

 サーラはぎこちなく頷いた。

 彼とはほとんど顔を合わせることはなく、会話は一度もしたことがなかったが、同じ孤児院で働く仲間だ。

 最低限、仕事の会話くらいはできるようにならないと、キリネに迷惑が掛かってしまう。

(ええと、たしか裏口の方に……)

 ルースを探して、孤児院の裏口に向かう。

 彼の姿はすぐに見つかった。

黙々と薪を運んでいる姿に、どのタイミングで声を掛けたらいいのか悩む。

 そういえばサーラが話をしたことがある男性は、父親とカーティス、そして修道院の雑用係をしていたウォルトだけだ。しかも、自分から話しかけたことは一度もなかった。

(どうしよう……)

 少しルースのことが怖かったこともあり、どう声を掛けたらいいのか、どうやって近寄ればいいのかわからずに、その場に立ち尽くしていた。

「……俺に何か用か?」

 どれぐらい、そうして彼を見つめていたのだろう。

 薪を運び終わったルースが、少し呆れたような顔でこちらを見て、そう言った。

「あ……」

 たしかに、ずっとこんなところで彼を見つめていたら、不審に思われても仕方がない。

サーラは早く用件を伝えなくてはと、焦る。

「あ、あの……。こ、こむぎ……」

 だが焦りと緊張で、うまく話すことができない。

 恥ずかしくて涙目になったサーラに、ルースはゆっくりと近寄ってきた。

「……落ち着け。俺に、何をして欲しいんだ?」

 不機嫌そうに言われると思っていたのに、彼の声は想像していたよりもずっと優しいものだった。ようやくサーラの気持ちも落ち着いて、要件を伝えることができる。

「小麦粉を、運んでほしいと。キリネさんが、パンを、作るそうです」

 言葉に詰まりながら、何とかそう伝える。

「小麦粉か。わかった。厨房に運んでおく。他には?」

「ありません。それだけです。……あの、よろしくお願いします」

 ようやく伝えられた。

 そのことに安堵して、サーラは笑顔を向ける。

 ルースはそんなサーラから、目を背けた。

 馴れ馴れしくして怒らせてしまったのかと思ったが、彼はとても悲しげな目をしていた。

(どうして、あんな目をしているの?)

 その哀愁に満ちた瞳が、いつまでもサーラの胸に残っていた。

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