鐘の音

世界の全ては「もの」ではなく「できごと」で出来ている。かけがえのない「今」という時間は、全宇宙が共通であるとは言えない。



ここは地球なのか……

いや違う、月がやけに近い。瞬く星たち、見たことのない星座、そこに天の川は無かった。

太陽系ではない別の宇宙……

随分と遠くに来てしまった。


自らの意思で来たわけではない。歪んだ時空から此処に落とされたのだ。


・・・


雑居ビルが連なる細い路地。消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、地面から50センチくらい上にそれは浮かんでいた。

最初は見えていなかった、透明なのだ。

灯に照らされながら、陽炎のように背景がくらくらと歪んでいる物体がある。近づくとそれは90センチ程の球体をしていた。

目を凝らしながらさらに近づいた瞬間、全身を貫く強い衝撃と共に、頭からその中に引き込まれた。


ワームホールだったのか……


・・・


呼吸は出来ている、気温も湿度も地球と変わらない。ただ、重力が大きいのか、歩みが重い。確実に地球よりも、時間はゆっくり流れている。


月明かりに照らされた地平線まで広がる大地、サバンナのような荒涼とした空間。

私はひとりなのか?

ふいに孤独感が襲ってきた。

孤独には慣れているはずだった。3年前 、妻と娘を交通事故で亡くしたあの日から、私は抜け殻になってしまったのだ。


・・・


ありふれた日曜の午後、庭で草むしりをしていた。

(随分と怠けてしまったな)

咲き始めた白、ピンク、薄紫のカンパニュラ・メディウム。周りには雑草が目立ちはじめている。

「お父さん、買い物に行ってくるからお留守番お願いね」

娘の呼び掛けに振り返ると、トートバッグを肩からさげた妻と、小さな麦わら帽子を被った娘が手を繋ぎ、私に微笑んでいた。

私はピンクのカンパニュラを一輪切って帽子に差してあげたあと、「気を付けて行って来るんだよ」と、美しい妻と娘を見上げ声を掛けた。

それが最後の会話だった。

買い物の帰り道、交通事故に巻き込まれ、二度と再び、ふたりの笑顔に会うことが出来なくなってしまった。


・・・


地平線に沈む月明かりを頼りに、どれ程歩いたのか。星たちの光が増したと思った次の瞬間、真っ白に輝く物体が目の前に現れた。


どこから来たんだ?

直径3メートルほどの球体。

暫く眺めていると、音もなく、中央から左右に割れるように入り口らしき空間が出現した。目を凝らし見てみると、その中は表面と同じで白く発光している。


はいれということか?

なぜか恐れは感じなかった。

中に入ると、それを望んでいたかの様に、ゆっくりと音もなく入り口は閉じられた。閉じた瞬間一気に視界が開け、球全体が透明なガラス質の物体に変化していた。


私を乗せたそれは、暫く地表すれすれで月方向に移動したかと思うと、いきなり舞い上がり、一気に月を通り越した。光速に近いスピードなのだろうが、ほとんどGは感じられない。


視界は徐々に狭まり、前方は七色のグラデーションが、永遠に続くトンネルの様に見える。側面から後ろは、速度が増すにつれ、背後から暗闇に呑み込まれて行くようだ。

光速での時間は、限りなく「無」に近い歩みで進行していた。


どれだけの星々の間を駆け巡ったのか、少しずつ視界が広がり始め、外の景色を認識出来るようになると、ゆっくり停止した。

見ると前方には漆黒の巨大な球体、その周りには時空の歪みの様な光の帯が広がっている。

それが、以前本で読んだことのあるブラックホールなのだと、躊躇も無く認識出来た。

既に事象の地平線を越えているのか、特異点に向かって引きずり込まれて行くのが解る。


事象の地平線……

物理学における相対性理論に基づいた概念の一つ。ブラックホール周辺において、光が重力に囚われ、外部に逃れられない範囲の境界面。また、膨張する宇宙で、観測者から遠ざかる速度が、光速を超えている領域との境界面。

……光の速度でも 脱出不可な領域。


時間が、永遠に向かって引き伸ばされて行く感覚のなかで、スクリーンを観るかのように、懐かしい映像が目の前に現れた。

この場所を知っている……

そこは既に手放した自宅の二階、かつての 私の書斎だった。大きな窓の向こうには、南東の陽に照らされた富士山と、その裾野に周辺の山々が連なっている。

私を乗せた透明の球体は、その役目を終えたかのように、ゆっくりと存在を消しながらその場に立たせてくれた。

ふらつく脚を進ませ窓際に立ち、下を眺めた。すぐに理解出来た。あの日に戻ったのだと、3年前のあの日に。

庭の手入れをしているわたし。

玄関のドアを開け、わたしに近づく妻と娘。


ああ

なんと美しい人

なんて愛らしい娘


知らせなければ

とどまるようにと、早く!


力の限り窓を叩いた。一瞬妻がこちらを見たがすぐに目を逸らした。私が見えていない、なぜだ……実存する時空が違うのか……此処では私は、幽霊の様な存在?


世界線が違う。

違う世界線であれば、現象と結果は多少なりとも異なるはず。ふたりの身に降りかかるものは違ってくるかも知れない。しかし、その結果を明らかなものにしなければ。

この世界では、私たち家族が、悲劇で終わってはいけない。


渾身の力を振り絞り、椅子を窓に叩きつけた。窓硝子がガシャンと悲鳴をあげ破片が飛び散ると、三人が一斉にこちらを仰いだ。

其処にいるわたしは、訝しげな表情でこちらを凝視した後、妻と娘を諭してから玄関に向かった。妻は娘を抱き締めたまま座りこんでいる。


ふと、どこからか微かに、

鐘の音が聞こえた。


よかった、これでなんとか……

安堵に浸った次の瞬間、全身を貫く強い衝撃が私を襲い、視界は暗黒に包まれた。


・・・


雑居ビルが連なる細い路地。 消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、'Keep Out'と囲われたエリアで二人の男が話している。


「お疲れ。それで、どうなんだ」


「はい、救急搬送された病院で死亡が確認されました」


「4階の屋上からでは仕方がないか。遺留品は」


「はい、スーツの胸ボケットに免許証と遺書が。このビルの3階に2年前から賃貸しています。3年前、妻と娘を交通事故で亡くされ、その後此処に移り住んだようです」


「……そうか」


「遺書には亡くなった二人への想いが綴られています。この路地を行った表通りが、交通事故の現場になります」


「解った、事件性は無しだな。ではそれで報告書をあげてくれ」


「承知しました。あっ主任、それと遺留品なのか、すぐ脇にカンパニュラの花が一輪落ちていたそうです。これも報告しておきますか」


「ん、すまん、どんな花だ」


「はい少々お待ちを、検索してみます。……出ました、これですが」


「鐘に似た可愛らしい花だな。花言葉は、感謝、誠実な愛、思いを告げる……か。一応上げといてくれ」



「時間」はとても悲しくそして儚く、流れる川のように決して止まることはない。

運命に逆らってでも守りたいもの。愛に満ちた果てない想いが天を流れる。



……了



参考音源

『ラ・カンパネラ』

https://kakuyomu.jp/users/2951/news/16817330651107324764

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