不良少女を矯正せよ!

雨音ゆずる

1 恋というものは真っ向勝負

「好きです!付き合ってください!」

 真っ直ぐな気持ちが、古びた建物の中にこだまする。

 頭を下げながら、俺は人生初めての告白を送った。

 自分にもはっきり聞こえるぐらい、心臓が激しく脈打っている。

 不安と僅かな期待を抱えて、俺はただ答えを待っている。

「……は?」

 呆れた声に、俺は思わず頭を上げた。 

 目の前の少女は綺麗だ。

 雪肌に基づき、大きく開いた瞳は自身の存在を強調するように潤んでいる。

 緻密な五官は、職人が作り上げた工芸品みたいに、絶妙なバランスをとっている。少しでも手元が狂ったら、全てが崩れそうな、そんな印象を持たせる顔だ。

 その脆そうな美貌は、今は困惑と驚きが混じって、少し歪んでいる。

 彼女は目を丸くして、啞然とした。そのせいで、口に銜えたタバコが床に落ち、無音で燃え続ける。

 そう、タバコ。

 タバコの葉を加工して作られる製品である。

 日本においては1900年の第2次山縣内閣下で未成年者喫煙禁止法が制定され、「20歳未満の者は喫煙をすることができない」と定められている(ウィキ○ディア)。

 さっきまで、そのタバコは耳に銀色のフラワーの形をしたイヤリングをつけている少女の口に銜えられて、静かに煙を立てていた。

 それだけではない。今俺たちがいる古い教室の中には、タバコの吸い殻が方々に散らばっている。既に使われなくなっているこの旧校舎は、校内のヤンキーたちのたまり場として知られている。そして目の前にいる整った顔に、金色に染めたロングヘアを肩に乗せる女の子は、いわゆる不良少女だ。

「今、なんて言った?」

 不思議なものを見る目で、少女は再度俺に確認した。

「だ、だから、宮坂(みやさか)奈名(なな)、俺はお前のことが好きだ!俺と——」

「断る」

「え?」

「だから断るって」

 あっさりと、勇気を絞り出した告白はあっけなく拒絶された。

 それだけ伝えると、奈名はこれ以上構う気もなさそうに、スカートのポケットからタバコの箱を取り出し、もう一本のタバコを取ろうとする。

「ま、待って」

「まだなんか用?」

「その……理由とか、聞いてもいいか?」

「そうね……理由と言ったら、まず……」

 わざとらしく、奈名は少し大きく息を吸う。

「場所選べよ‼」

 ふいに叱られて、俺は周りを見回す。

 この旧校舎はヤンキーたちのたまり場、つまり、今この瞬間でも、少なくとも十数人の不良がタバコを吸いながら、俺たち方に視線を送っている。

 理由は言うまでもなく、さっき俺が全力で教室のドアを開け、さほど大きくもない旧校舎の隅々まで響き渡る大声で、教室にいたみんなの前で、奈名に告白したのだから。

 おかげで、今は全員の目線が俺たちに集まり、派手な格好をしている女子の笑い声と、変なアクセサリーをつけている男子のはしゃぎ声が耳に入る。

「普通こんなとこで告白なんかすんの?」

「この方はインパクトがあるって思って……」

「……」

呆れたように、奈名は言葉を失った。しばらくして、ため息が彼女の口元からこぼれた。

「で、あんた誰?」

「え⁉」

「名前すら知らない人にいきなり告白されても困るけど」

「いや……でも……」

「でも?」

「でも俺たちは同じクラスだし、席も隣だけど……」

「……マ?」

「マ」

「……」

 ラグったパソコンのように数秒間フリーズして、奈名はさっきまでの気焔を失った声で動揺を隠せずにいる。

 まぁ、真っ当に話をするのは今日が初めてだけど。

「……俺は佐上(さがみ)成(なり)良(よし)。宮坂と同じクラスで、席は窓から2列目の一番後ろ。つまり、お前の隣の席だ」

「そ、そう?」

 少し自棄になって自己紹介をしたら、奈名は気まずそうに相槌を打った。

「……」

「……」

 俺たちの間に漂う静寂を除けば、周りで見ている野次馬たちは随分楽しんでくれているみたいだ。盛大な笑い声に、教室の空気が満たされた。

だよな。告白する相手に名前すら知られていないなんて笑えるな。ちょっと死にたくなった。

「なぁ、もし良かったら、友達からでも……」

「……」

 ダメもとでそう言ったら、冷たく感じるほど、奈名の表情は真剣になった。

 その宝石みたいな目に、どこか闇が宿っていて、拒絶を訴える。また、その顔……

「あんた——」

「誰だ!?俺様の奈名にちょっかいを出したヤツは!」

 ドンと、教室の引き戸が強く引かれ、壁にぶつかる音がした。

 怒鳴りながら教室に入ってきた、黒髪をオールバックした男と、慌てて後ろから追ってきた、少し短いハリネズミヘアをした、手下に見える人。

 生徒……だよな?

 そう疑う理由は、オールバックの男は赤いシャツに白いスーツジャケット、下に制服のズボンを穿いていなければ、学生であることが分らない格好をしていたからだ。ちなみに、手下も似たような格好をしている。

 これ、不良というか、もはやヤクザじゃねぇ?

 ところで……

「……これ、龍が○くだよな?」

 上半身だけがスーツ姿のせいで、中途半端な感じはあるが、どう見ても桐生○馬のコスプレだ。

 てか、どちらにしても校則違反だから、制服ズボンいらなくね?

 うっかり漏れたツッコミ。それを聞き逃さなかった手下が俺に指差す。

「こいつだ!貴琉(きりゅう)の兄貴!」

「桐生(きりゅう)さんに謝れええええ‼」

 あ、しまった。叫んでしまった。いや、名前までパクるとはねえ……桐生さんはカッコイイぞ。

貴琉と呼ばれる男が俺を貫くような目線で睨んで来る、その目に炎が燃えている。

「てめえか⁉俺様の奈名に手出した野郎は!」

「……」

 こっちのセリフだよ、誰だお前?俺様の奈名っなんだ?お前こそ奈名の誰?ヤクザごっこは自分でやれ!人の大事な告白を邪魔しないでくれる?

 と、山ほどの文句はあるが、この人が怖いから言わないことにしよう。

「俺様の女に手え出しやがったことで、もう覚悟が出来てんだな?」

 出来てねえよ。これっぽちも出来ていない。

 やべえ、俺、もしかして殴られるんじゃ——

「ちょっと、誰があんたのものよ?」

「……ふん、奈名か」

 奈名に不愉快そうに呼ばれ、貴琉はすぐに俺から目を離し、奈名のとこへ足を運ぶ。

「上等だ。今日こそてめえを俺様の女にしてやる!」

「は?さっきから何言ってんの?っていうかあんた誰?」

「何っ⁉俺様のこと覚えてねえのか⁉」

「だから知らないって」

 どうやら、名前を覚えてもらえていないのは俺だけじゃないみたい。

 ショックを受けている貴琉の隣に、怒り狂った手下がやって来る。

「てめえ、この神宝貴琉(しんぽうきりゅう)兄貴を忘れたって⁉少女漫画に影響されて、てめえに『俺様が勝ったら俺様の女になれ』の決闘を申し込んで、結局瞬殺された貴琉兄貴のこと、てめえがよく知らねえって言いやがったなぁ!」

 こいつ、フルネームがすごいな、売れば高そう。

「余計なこと言ってんじゃねえ!」

 首まで赤くなった貴琉に一発を食らい、手下が倒れた。説明お疲れ。

 俺は少女漫画に詳しくないが、少女漫画の主人公に決闘を申し込む男なんて普通はありえないだろう。

「と、とにかく、今日俺様がてめえに勝つんだ!覚悟しろ!」

「おい……!」

 奈名がいる方向へ向かって、攻撃しようとする貴琉だが、向こうは首を傾げ、ようやく思いついたみたいに「あ」と口を開く。

「あんたはこないだの……キュウリ?」

「俺様は貴琉だあああああ‼」

 距離を縮めた貴琉が拳を上げると、思わず俺は走り出す。

 襲い掛かる拳が奈名に触れる寸前、貴琉に背を向ける形で、ぎりぎり俺は二人の間に割り込んだ。

「うっ!」

「あ……!」

「おい!てめえ何しやがる!」

 奈名の少し上げた声と貴琉の怒鳴り声がぼんやりと耳に届いたが、強烈な腹パンを受けた俺は痛みで唸ることしかできない。

 待って、腹パン?

 後方をしり目に、危険な気配が漂う貴琉の拳は僅かな距離で俺の後頭部に触れなかった。

 間一髪のところで、貴琉は攻撃を止めてくれたようだ。

 ということは……

 腹に衝撃を施した繊細な腕に沿って顔を上げると、訝しげな奈名と目が合った。

 驚きが浮ぶその目は、言葉とともに困惑を訴える。

「あんた……どうして……」

 しかし、それに答えるほどの余裕を持っていない俺は、ただその女の子としても決してガタイが良いとは言えない体を見て、手下の言葉を思い出した。

「瞬殺って……こういうことか」

 自分の体でその意味を思い知ったのと同時に、視線の先は暗くなって、俺の意識が遠ざかる。



 ぼんやりした意識の中、その潤う瞳だけが頭に浮かぶ。

 芸術品の魂のように、彼女を見た瞬間、自然とその目に惹かれた。

 なのに、その美しさの奥に潜む悲しみが、彼女の脆さを示した。 

 俺は目を覚ました。

「……奈名?」

「残念、僕だ」

「……」

 思わず下の名前を口にしたが、幸か不幸か、目の前にいるのは奈名ではない。

 くすんだ死んだ魚のような目を見ると、頭はだいぶクリアになった。

「京(けい)陽(よう)、ここは?」

 ベッドの感触と隔てのピンク色のカーテンから大体予想がついたが、一応確認しておく。

「保健室。先生がいないから、セクシーナースの京陽が看護します」

 保健室の椅子に座って、棒読みで気持ち悪い冗談を言っているのは、俺の幼なじみ、残念ながら男である豊原(とよはら)京(けい)陽(よう)。

 さっぱりした茶色のショートカット、一見は敏腕な働き者。

 だが実際はいつも死んだ魚のような目をして、何をしてもやる気がない奴だ。

「具合はどうですか?ご指定のサー•ビ•スはございますか?」

「……とりあえず、この気持ち悪いナースさんを変えてくれ」

「ひどいな。まぁいい」

 こいつ、表情はあんまり顔に出ないのに、変な冗談が好きだな。

「気持ち悪くないナースさん、どうぞ」

「え?」

 京陽は後ろに声をかけた。まさか他の人がいるのか?

 カーテンは引かれ、ピンク色の布が視野から消えると共に、触り心地の良さそうな金髪が揺れる。

「誰がナースだよ!」

「み、宮坂⁉」

「あんた寝すぎだよ!もう30分も経ったよ?」

 仁王立ちの体勢で、奈名は不機嫌そうに眉をひそめる。

「そんなに強く殴ってないわよ」

「え、あ?どゆこと?」

 何でここに奈名が!?

 人気漫画のタイトルを心で真似て、俺は目線で京陽に説明を求める。

「お前を探しに行ったら、ちょうどワンパンチで倒されたとこを目撃した」

「見てたんだ……で、お前が俺をここまで運んだわけ?」

「そう……思ったけど、重いから諦めた」

「お前……」

「だからあのヤクザっぽいの人に頼んだ」

「は⁉」

 俺は驚愕な声を出してしまい、奈名も回想するように言葉を付け足す。。

「あんなたちが悪い人に『強そうだからよろしく』って言える人は、あたしもはじめて見た」

「……京陽、あいつは俺をぶっ殺そうとしてたぞ?」

「ずっと『何で俺様はこんな野郎のために……』とか言ってたけど、お前を抱えて来たよ」

「……」

意外といいやつだな、あのツンデレチンピラ。あれ?なんか変な単語を……

「抱えて?」

「あぁ、お姫様抱っこ」

「何でだああああああ⁉」

 あんな人目に見られながら、男にお姫様抱っこされていた? ……誰か俺を殺してくれ。

「成良、何で告白してんのに相手に殴られんの?」

「うっせー、お前が当たって砕けろと言っただろう」

「だって、勝負だし」

「そうだけど……」

「ちょっと、勝負ってどういうこと?」

「あ」

 しまった。まだ奈名がいることを忘れた。

 貫かれそうな視線に刺されて、俺は冷や汗を流しながら目を逸らす。

「いや……それは……」

「勝負って?」

「トランプタワー」

「京陽、お前——」

「はぁ?」

 気のせいかな?奈名の口元がヒクついているように見えるが……

「つまり、賭けに負けたからあたしに告白しに来たってわけ?」

「そうとも言える」

 京陽、頼むから、これ以上俺を地獄の底に突き落とさないでくれ。

 バカを見る目で、奈名はさらに俺に問いかける。

「……ちなみに、あんたが勝ったら?」

「……京陽にカル○スを奢って貰う」

「……」

「……」

「あたし、カル○スとは同じ価値ってこと?」

「……すいませんでした」

 心外な顔で、奈名は深くため息をつく。

「はあ……」

「で、でも好きって言ったのは本当……うっ!」

 急な劇痛が体を苛む。服を捲り上げて見ると、小さくて、確実に側腹部に刻んだ拳の烙印。

「すごいな」

 京陽の感想をさておき、俺は奈名のいかに女らしい顔を見つめて、この身で感じた男にも引けを取らないほどのパワーを思い出す。

「……」

「な、なによ……?」

「お前、ロッキーか」

「誰がボクサーだよ!」

 おう、ボクサーだって分かるのか。今の若者は知らないと思ったけど、やっぱり知ってる人は知ってるな。

「だから目が覚めるまで待ってたじゃない」

 なるほど、わざわざ待っていてくれたのか。

 俺はその行動が少し嬉しいと思っている反面、奈名は不満げに睨んで来る。

「大体、あんたの自業自得でしょ?喧嘩なんてしたこともない顔をしてるくせに、何余計なことすんのよ?」

 それ、どんな顔なんだろう。

 何かを言い返したい気持ちはあるが、残念ながら、喧嘩したことがないのは事実だ。

「宮坂が危ないと思って、つい……」

「あんな程度のやつ、いくら来てもあたしは負けないよ」

「さすが不良少女だな……」

「……でも、初めてかも」

「え?なんか言った?」

「何、何でもない!もう目覚ましたし、あたしは帰る」

 少々焦りが見えて、奈名は保健室から出ようとする。

「あ、待って、宮坂」

「何?」

「いや、その……」

 反射的に奈名を呼び止めたが、頭の中は真っ白だ。

 ただ、この機会をつなぎとめなければと、強く思った。

「その……あの……」

「……用がないなら、もう金輪際あたしに近づかないで」

 俺がろくな言葉を見つけ出す前に、奈名は冷たい口調で遮った。

 言葉やイントネーションだけではなく、何かを拒んでいるような雰囲気を、彼女は纏っている。

 だが、そんな奈名を見て、俺は特に驚きも何もない。。

 むしろ、こっちの方が、俺が、俺たちが知っている宮坂奈名だ。

 元々、不良というのは、一般生徒とは少しずれている人である。

 だが、奈名に限って、そのずれはやけに大きく感じる。

 理由は、今彼女が放っている、その『近づくな』オーラだ。

 奈名は、たった一人の例外を除いて、自ら他人に話を掛けることはない。少なくとも、俺が彼女と同じクラスになったこの半年間では、そんな場面を見たことがなかった。

 誰かに話を掛けられても、無視したり、冷たい態度で返したりするだけ。

 たとえ旧校舎に集まる不良の連中でも、奈名の話し相手になれる人は限られている。

 まるでテリトリーを守るように、いつだって奈名は自ら他人と距離を置く。

 だから正直に言えば、俺がそんなでたらめな形で告白したのは、ある程度、奈名の注意を引くためだった。一応、奈名は相手にしてくれけど……

「あんたもそのキュウリも、あたしは誰かと付き合うつもりはない。それに……」

 いかにも無感情の声だが、なぜか俺はどこか悲しく聞こえる。

「……そんな資格もない」

「……」

 それ以上の言葉はなく、奈名は保健室を後にした。

「行っちゃった」

「キュウリじゃなくて貴琉だけどな……」

 貴琉が可哀想に……って、俺も人のこと言えないか。

 哀れな自分を隠そうとして、俺は話題を変えて京陽に問う。

「てか、お前は何で俺を探してた?」

「そうだ」

 俺に言われ、京陽はカバンの中を漁って、太い字体で印刷されている一枚のチラシを出した。

「これ、うまそう」

 二蘭ラーメン、オープン‼

「……よく訴えられねえな、これ」

「駅前だって」

 俺のツッコミに、京陽は肩をすくめた。

 なるほど、ラーメンか。俺は自分の腹に触れる、やはりまだ痛い。

「俺、腹減ったどころか、むしろ昼飯まで吐き出しかけたけど?」

「じゃあ、奢るから」

「おう、早く行こうぜ、腹減った」

「……」     

 何だ、奢るなら先に言ってよ。持つべきのは、飯を奢ってくれる友だ。

「言っとくけど、ちゃんと食べ切ってな」

「?もちろん食うけど」

「ならいい、行こう」

 京陽に促されて、俺たちはカバンを肩に掛けて、学校を後にした。

 知り合って何年も経ったが、俺はこいつが何を考えているのかあまり読めない。

「駅前か……ちょっと遠いな」

「歩いて20分ぐらいかな」

「お前、家からコンビニに行くだけで面倒くさがってんだろう……」

「コンビニはラーメンがない」

「強いて言えばあるけど」

 レンジ麺や冷凍食品、あとカップメンはギリギリ入ってるかな。

 まぁ、京陽からすれば、それらは全部ラーメンではないだろう。

 大したものぐさだけど、ラーメンだけには人の倍以上情熱を注ぐ奴だから。

 俺たちが住んでいる町にある全部の店を制覇し、ニュースで報道された名店には、電車で2時間を掛けてとなりの県まで行ったことだってある。

 どの店の特製太麵がうまいか、どの店のチャーシューが口の中でトロけるか、どの店のスープはコクがあるか、全て把握済み。まさにラーメンマニア。

 普段は毎日、通学路が長いと文句を言う奴だけど。

「お前、ラーメン以外のことにも少しやる気を出したら?」

「あるし」

「見えねえけど」

「あるって、このやる気満々の目を見ろ」

「……」

「……」

 魚の死体二匹しか見えないな。

 無駄話を一区切りにして、京陽はさりげなく俺に聞く。

「で、諦めんの?」

「何を?」

「金髪」

「……宮坂のことだね」

「人の名前をいちいち覚えられない」

「お前な……まぁ、真正面から振られたし、諦めた方が良いだろうけど……」

 歩道の脇の、秋の風に揺蕩っている木の枝を見て、俺は思う。

 あの日のことを忘れられない。あの子を助けたい。その瞳に宿る悲しみを消したい。

 だから……

「やっぱりこれで諦めるのは嫌だな」

「そっか」

 とりあえず、朝の挨拶からしよう。会話さえ出来るのなら、あとは何とかなるはずだ。

 俺を見て、京陽は少し口元を上げる。

「ちょっと元気を出したみたいね」

「え?元気ないように見えた?」

「考えることが全て顔に出るから、成良は」

「京陽みたいな無表情のほうががおかしいだろう」

 こんなどうでも良いやり取りをしているうちに、『二蘭ラーメン』と書いてある看板が視界の果てに現れる。

 鼻に入るラーメンの匂いに食欲を刺激されて、俺は歩幅を広げた。



「京陽……てめえ……」

 マグマみたいなスープが目の前に置かれた時、俺は京陽に騙されたことに気づいた。

 血のような赤色の上に、より一層危険な緋色の脂が浮かんでいて、さらに唐紅の生トウガラシを数本トッピングしてある。何この赤祭り。

 鼻を刺す辛さを堪えて、俺はスープに潜る黄色い麺を一瞥する。

 いや、違う。光沢のある麺が、血色に感染されつつ、あるべきではない色に染まっていく。

 え?何で?ラーメンの麺って変色するものだっけ?

 よく見ると、麺だけじゃなく、メンマ、チャーシュー、上に乗せるねぎまで不祥の赤色になった。これ、本当にラーメンなのか?根本から言うと、これは本当に食べ物なのか?

 ようやくまだ汚れていない温玉を見つけて、箸でレスキューしようとした瞬間、唯一の希望も、赤い烙印を刻まれた。だが、絶望なのはこれだけじゃない。

 カウンターに置かれたラーメン鉢は、座っている俺の唇とほぼ同じ高さがある。

 ……バケツかな、これ?こんなものを見たら、あの北○ラーメンでも可愛く思える。

「早く食べよう、時間ないぞ」

 俺をこの地獄絵図から引きずり出したのは、無表情で赤色になった麺を啜っている……誰?

 目が曇ったメガネの後ろに隠れたせいで、俺は一瞬誰か分からなかった。

「全部食べ切らないと」

 あ、京陽だ。曇りがとれたメガネの下に見える死んだ魚のような目で分かった。

 あれ?今は生トウガラシを一本食べていなかった?

「食うか!ってか何でお前は平気で食えんのよ⁉」

「え、成良は食うって言っただろう」

「こんなもんだと知ったら来ねえよ!」

 俺は京陽が見せたチラシを指して激怒する。

 京陽が言ってなかったのは、このチラシが両面印刷だったということだ。

そして俺が指しているのは、その裏面。

 『地獄大食いチャレンジ‼!30分で完食なら無料‼』と書いてある。

 ちなみに、時間内で食べ切らなかったら、2500円になるそうだ。

「何で俺が参加しなきゃなんねえのか?お前の奢りだろう?まともなもんを食わせろ!」

「そんなこと言っても……」

 京陽はカバンの中を漁って、財布を出して下向きに開ける。

 チーンと、一枚のコインがカウンターに落ちた。100円玉。

「それだけ?」

「これだけ」

「……」

俺は絶望な気持ちで自分の財布を出す。1000円。

「いいな、僕の10倍」

「よくねえ!」

 くっそ!よりによって今日は金を下ろすのを忘れた!このままじゃほかのラーメンを注文するどころか、時間内に食べ切らないと、俺たちは店を出ることすら出来ない。

「……やべえ」

「もう悪足搔きはやめよう」

「お前のせいだろう!」

「見た目はこうだけど、案外うまいよ」

 俺の抗議をスルーして、京陽は美味しそうにラーメンを食べ続けている。マジかよ……

 疑いながらも、仕方なく俺は箸で麺を挟む。

 大丈夫だ、京陽ほどはないけど、俺も中々ラーメンが好きだ。

 らららラーメン大好き成良くん♪自分を言い聞かせながら、俺は心の中で歌を歌った。

 そして腹を括って、一気にラーメンを啜る。

「……辛っ‼」

 うまいかどうか、それ以前の問題だ。味覚が判断出来る前に、辛さは既に思考能力を奪った。

 何も考えられないまま、俺はただ店内にある時計を見つめながら、必死に麺を啜った。地獄だ。30分後、死にかけた俺は京陽にすがって店を出た。

 どうやって食べ終わったのか、俺はまるで記憶がない。

 覚えていたのは、その日の夜に、ラーメンに追われるという悪夢を見た。

 翌日の朝、俺は家のトイレで体験したこともない痛みをこの(おし)身(り)で味わった。



「おはよう……」

 クマが出来た目に蒼白な顔色で、俺はよろよろと教室に入り席に着く。

「どうした、成良?顔色悪いぞ」

「誰のせいだと思ってんだ……」

 俺は頭だけを振り返り、恨めしい目で京陽を睨み付ける。

 今この瞬間でも、俺の尻は火傷のような痛みに苦しめられている。

「何でそんなもん平気で食えたんだよ……」

「うまかったと思うけど、お前の問題じゃいか?」

「お前の味覚が一番の問題だよ!」

 こいつ、もしかしてラーメンならどれもうまいと言うのでは?

「そういや、昨日テレビで見た」

 いつものことだけど、俺の怒鳴りは、京陽にはまるで聞いていないように話題を変える。

「斜陽劇団、今年も巡回公演が終わるって」

「ん?ああ……もうこの時期だな」

「じゃあ、おばさんとおじさんが帰って来るってこと?」

「確か来週に帰るって電話で言ってた」

「そっか」

 俺の両親は劇団の役者。俺は詳しくないが、斜陽劇団という、斜陽産業みたいな名前をしているが、沈む心配をする必要がないほど、年中世界各地で巡回公演を行う有名な劇団らしい。

 おかげで、俺は一年の大半が一人暮らしの生活を送っている。

 毎年も同じ、大体秋が深くなったこの頃に、公演が終わり、長い休みが取れるので、二人は家に帰る。今京陽と話しているのはこのことだ。

「じゃ今年もやるな、クリスマスイブの芝居」

「その件だけど……」

 キャスターが滑る音と伴い、引き戸は開かれた。

 教室に入った足音を気にしながら、俺は話を続ける。

「今年はやべえかも」

「何で?」

「演出出来る人が足んねって。劇団のみんなが忙しいから」

「それはやばいな、縷(ル)紅(コウ)草(ソウ)にとっては毎年恒例のイベントだろう」

「ああ、子供たちを失望させるのは避けたいな」

 『縷紅草』と言ったのは、この町にある児童養護施設、いわゆる孤児院のことだ。

 俺は母親が縷紅草の院長とは昔からの知り合いなので、中学の頃から院内の手伝いをしに行くようになった。それは今も続いているわけだ。

 俺に無理矢理に連れて行かれる形で、京陽も時々縷紅草に行くから、院内の状況はある程度分かっている。

 そして今話している芝居は、俺の両親が主催して、毎年、縷紅草で行われているクリスマスイブチャリティーイベントのことだ。

 夕陽劇団のメンバーから手伝いしてくれる人を募集して、普段から孤児院の手伝いをするボランティアの中の何人かも含めて、30分ほどの演劇をする。

 施設の関係者しか誘わず、主に子供たちのために行われる小さな行事だが、今まで十数年もやって来たので、もはや縷紅草のクリスマスパーティーでは不可欠な存在だ。

「まぁ、どうにかなるだろう」

「だと良いな」

 話が一通り終わって、俺は右の席の京陽から顔を逸らし、先ほど教室に入った足音を追いかけて、反対側にある窓際の席に座っている人物に目を留める。

「おはよう、宮坂」 

 白いブラウスに薄いベスト、脱いたブレザージャケットを椅子に掛けて、チェック柄のプリーツスカート姿の奈名はつまらなさそうにスマホをいじっている。

 校則違反にはなるが、学年を象徴する青いネクタイを着けていないことと、膝元まであったはずのスカートの丈を少し危ない長さに短くしたことは、不良少女のイメージによく似合っている。

 というよりは、奈名が可愛いから、制服をどう着ていても、俺は似合っていると思うだろう。

 適当な感想はいいとして、俺に話を掛けられた奈名は、一瞬だけ驚いた顔を見せたが、直ぐに視線をスマホに戻した。

「えっと……」

「話しかけないで」

 と、挨拶を冷たくあしらった。いつも通り、誰も近付いて来ないように振る舞う奈名である。

 参ったな……

 このあと、俺はどんな話をしても、どれだけ話掛けても、沈黙だけが返って来た。

 結局、朝の授業が終わるまで、俺は奈名と会話を交わすことがなかった。


「はあ……」

 昼休みの教室に、食べ物が混ざり合う匂いが満ちている。

 友達同士は互いに机を併せて、様々なグループが形成した。

 俺もそのルールに従い、自分の机をもう一つの机と向かい合って併せたが、その席の持ち主である京陽が今は席にいない。十中八九、販売部で昼飯争奪戦を参戦しているだろう。ちなみに、同じ販売部派の奈名もそこにいるはずだ。

 そんな京陽の帰りを持っている分けでもないが、弁当派の俺は弁当も出さずに、ただ顔を机に伏せて嘆く。

「何かいい方法ねえのか……」

「佐上くん、大丈夫?」

 奈名のことで悩み込んでいる俺に、優しい声は背後から掛けて来た。

「小野里(おのざと)」

「朝から元気なさそうね。体調悪いの?」

「いや、まぁ……少しな」

 昨日のラーメンのせいで、今でもお腹に違和感を覚えているのは事実なので、俺は話に沿ってそう答えた。

 クラスメイトである小野里(おのざと)茉緒(まお)は、一言で言うと、「癒し系」だ。

 女子の中でも小柄な身長と、少し長い前髪の下にある端正な顔立ち。ふわっとした黒いロングのストレートヘアーのように、彼女は人にふんわりした印象を与える。

 誰にも優しく接して、俺の記憶には、茉緒が怒るとか、誰かと仲が悪いという噂もなかった。

 いつもニコニコと笑っていて、思いやりもあるから、彼女は男女問わずに好かれている。

 クラス内は無論、全校範囲でも、一部の生徒から「学園の天使」と、それなりに人気のある女の子として認識されているらしい。

 いずれにして、茉緒がかわいい存在であることは間違いないだろう。

「それなら、保健室に行った方がいいよ。私も一緒に行こうか?」

「え⁉い、いいんだ。大したことじゃねえんだ」

「そっか、無理しないでね」

「お、おう」

 さすが癒し系だ。

 特に仲が良いわけでもない異性のクラスメイトのことを心配してくれて、一緒に保健室に行こうと自然に言い出すなんて、ちょっと「いいのか?」と思わせるくらいだ。ピュアな男子高生は、これでイチコロなのかもしれない。

 しかし、体調が悪いというのは嘘ではないが、、本当の理由でもない。

 なんにせよ、「宮坂と仲良くなりたい」とかの理由は言えるはずがない。

 だって、茉緒は奈名の……あれ?もしかして、逆手に取れるではないか?

 自分の鈍さを責めながら、俺は茉緒に目を向ける。

「小野里」

「はい」

「実は、相談したいことがあるんだけど……」

「私に?何を?」

「ここでは話しにくいから、昼飯を食べながら話そう」

「え?」

 用意したセリフを口にしたら、案の定、茉緒は困る表情を浮かばせる。

「ごめんね、佐上くん、昼なら私は奈名と……」

「構わん、むしろ宮坂にも話してえんだ」

 奈名はたった一人の例外を除いて、自ら他人に話を掛けることはしない。

 その例外というのは、茉緒のことだ。この誰も奈名に近づけない環境で、茉緒だけは、グループ分けも昼飯も一緒にするぐらい、奈名との仲が良いのだ。

 誰とも仲良くなれそうな茉緒はともかく、誰からも距離を置く奈名でも、茉緒の前だけは笑顔を咲かせる。二人の関係は、親友と言っても過言ではないだろう。

 なので、奈名との接点が欲しければ、茉緒に取り持ってもらうのが一番だと思う。

 茉緒には申し訳ないと思ってはいるが、この方法しか思いつかないのだ。

「一緒にお昼をしよう!俺、京陽、小野里と宮坂、四人で」

「でも、奈名は……」

 奈名が人への態度を考えて躊躇しているのだろう。しかし、俺にとっては、このチャンスを逃すわけにはいかない。

「頼む!大事なことなんだ!」

「お昼に言わなきゃダメなの?」

「むしろ、お昼しか言えないんだ!」

「そ、そうか……」

 真顔でわけわからないことを言い切れる俺自身に、俺は少し感心した。


 校舎最上層の屋上で、涼しい風が強く吹いて来る。

 鍵がかかっているはずのドアだったが、その鍵が実は壊れていたことを、俺は今日ではじめて知った。ここは、どうやら奈名と茉緒の穴場らしい。

 俺の隣には、さっきまで教室から屋上へ移動することを嫌がっていた京陽が座っていて、その京陽の向かいに、おどおどと自分の右側に気を遣う茉緒がいる。

 その右側に……

「……何であんたたちがいんのよ」

 手を腰に当てていて、殺意がダダ洩れしている奈名。

 三人が座って、一人だけは立っているので、上から睨んで来る目線に威圧感を感じる。

 何故か、奈名の周囲だけがやけに寒く感じる。秋のせいかな?な?

「付き合ったりしないから、あたしに近づかないでって言ったでしょ」

「でも、友達から……」

「無理」

「何で?」

「友達なんて、要らないから」

「……」

 いや、要るだろう。でないと、今お前の隣にいる茉緒は?

 それともあれか?人次第?俺だから要らないってこと?だったら泣くわ、ガチで。

「じー」

 俺が茉緒への視線に気付き、奈名は前に一歩踏んで茉緒を庇おうとする。風でスカートの中が見えそうになっているからやめて。

「ま、茉緒は特別だ!」

 左様でございますか。いいな、俺も特別になりたい。

 茉緒とはどこが違うだろう。性別?性格?クラスでの人気?うん、かなり違うな。

 俺が心の中でぶつぶつと言っている時、茉緒は何故か「特、別……」と、奈名の言葉を反芻していた。

「小野里?」

「え?あ、何があったか知らないけど、仲良くしてね」

 気になって聞いたら、茉緒はいつもの笑顔を作り出した。

 どうやら、俺が奈名に告白したことを、茉緒は知らないみたい。

「それで、佐上くんが相談したい、大事で、お昼じゃなきゃ言えない、奈名にも聞かせたいことって何?」

「え?あ……」

 茉緒に言われて、俺は自分の話を思い出した。そう言えば、そんな言い訳をしたっけ。

「は?何それ?」

 良い質問だね、奈名。俺も知りたい。

 一緒にお昼をするための口実だけだから、本当は何も大事なことがなかった。

 だが、今さら何でもないと言い出したら、奈名のご機嫌をより損ねるだろう。

「と、とりあえず、座って話そう」

 時間稼ぎの意味もあるが、何より、風になびかれているスカートの中をちらちら見ようとする俺の男心と、奈名の上から睨んで来る目線を耐えられない恐怖心の板挟みで、俺は居ても立っても居られないからだ。

「……」

 無言のままだが、一応聞く耳を持っているよう、奈名は胡坐をかいて座った。

「寒い……」

 よくのんびりしているな、京陽。俺は今ピンチだぜ。

 仕方ない、ここは何とかごまかさないと。

「そ、そうだ、小野里たち、この天気に外で食うのは大丈夫?」

「え?……うん、今は平気だけど、さすがに冬になると屋上は無理かな」

「だよな。じゃあ、寒さ対策はあるか?」

「え、え?カイロ……とか?」

 少し戸惑いが見えるが、茉緒は素直に答えてくれた。この調子で話題を変え——

「で、用件は?」

 やはり、そう甘くはないな。奈名の冷たい声が、俺に作戦失敗と告げた。

「えっと、その……」

 何でだろう?ここぞとばかりに、理由の一つさえ編み出せないのは。

「じ、実は——」

 手詰まりになって諦めようとした時、制服ズボンのポケットから振動が伝わって来る。

 電話だ。何とナイスタイミング。

「悪い、ちょっと電話」

 スマホを出して着信相手を確認しながら、俺は皆から離れて電話を出る。

「母さん?」

「成ちゃん〜お母さんだよ」

 電話越しの元気良すぎる声を聴いて、着信相手がスマホの表示通り、俺の母親であることが分かった。 

「昼休みとは言え、今は学校にいるけど」

 面倒な口調で文句を言い出したが、電話を掛けてくれたのは正直助かった。

「あ、本当?ごめんね、時差を間違えちゃった」

「急にどうした?」

「この前、演劇のこと話したでしょう」

「人が足んねって話だろう」

 今朝京陽に話したばかりだった。

「それはね、解決策を考えた!」

「聞こうか」

「成ちゃんが演劇をする〜」

「そっか……待って、なんて言った?」

「成ちゃんが演劇をする〜」

「何でだよ!」

「人が足りないから?」

「そうじゃなくて、何で俺が?大体、俺一人が入っても足んねだろう」

「それは大丈夫。近くの大学の演劇サークルからボランティアを探した」

「もう解決したじゃねえか!俺を入れる必要ある?」

「あれ、嫌なの?」 

「当たりめえだろう!いきなりだし、やったことねえし」

「うんうん、嫌じゃないってことね〜」

「……」

 【悲報】うちのお母さんは、まるで人の話を聞いていない。

「とにかく、俺はやんねえから」

「じゃあ、京ちゃんも誘ったらどう?仲間がいると安心だよね」

「だからそういう問題じゃ——ん?」

 待ってよ、これ、案外いけるかも。

「なあ、母さん、やってもいいけどさ」

 奈名たちのところに一瞥して、俺は母親に伝える。

「もう二人入れてもいいか?」


「絶っ対嫌」

「急に言われても……」

 ですよね。いきなり何だと思いますね。俺もそう思った。

 俺が「演劇しよう」と提案してみると、二人は予想通りの反応をしてくれた。

「まあまあ、そういわずに」

 さっきまでは、適当な理由でごまかしたかったけど、今はどうにか二人を説得したいと思っている。

 先ほどお母さんに四人で参加すると伝えらたら、「女の子二人?もちろん大歓迎〜

と、わりとすんなりと受け入れた。

 うまくいけば、クリスマスイブの芝居も奈名との接点も解決する。まさに一石二鳥だ。

「斜陽劇団という劇団の一部のメンバーと一緒に、短い芝居をやってもらえねえか?」

「何であたしがそんなことしなきゃなんないの?」

「え⁉斜陽劇団ってあの斜陽劇団なの?すごい!」

 今度は、真逆なリアクションを示してくれた。とりあえず、話を進めよう。

「小野里、知ってんのか?」

「それは、世界トップの劇団だから、もちろん知ってるよ」

「マジか?」

「はい、詳しいかどうかはともかく、名前ぐらいみんな聞いたことあると思うよ」

 うちの親ってそんなにすごい人なのか……

 「斜陽……劇団」と、奈名は眉をひそめて呟いた。どうやら聞いたことがあるらしい。

 毎年、世界中で巡回公演をするから、有名な劇団だと思ってはいたが、まさかこれほどとは……後でググってみよう。

「でも、どうして斜陽劇団の人が私たちを?」

「そりゃあ、俺ん家の親だから」

「え?」

「成良の両親はそこの役者だよ」

 困惑で頭を傾けた茉緒に、京陽は俺の代わりに答えた。

「え、え⁉本当なの⁉」

「まぁ」

「驚いた……すごいね、佐上くんのご両親は」

「と、とにかく、子供向けのチャリティーイベントだから、難しく思わなくていいんだ」

 何だか母さんと父さんに申し訳ない気がするので、俺は慌てて話を戻した。

「向こうも色々教えてくれるだろうし、大丈夫だって」

「それなら……わたしはやってみたいかも!」

 やっと決心が付いた茉緒だが、直ぐに笑顔を締めて隣の奈名の顔色を伺う。

「奈名はどう思う……やっぱり嫌?」

「え?あ、あたしは……」

 ボーっとしていただろうか。奈名は状況を理解するまで少し時間がかかった。

「……茉緒がやりたいと言うなら」

 と、頬を赤らめて頷いた。

 可愛くて微笑ましい場面だが、この二人は、どこかよそよそしく見えるのは気のせいだろうか。

「んじゃ、母さんに四人で伝えとくよ」

「待った」

「何だ、京陽?」

「僕は参加するなんて言ってない」

「お前は拒否権がねえんだ」

「何で?」

「どうせ面倒くさいって嫌がってんだろう」

「だって、面倒くさいし」

 うん、やはり俺はこいつのことをよく知っているな。

「ちょうどいい機会だ。お前最近全然縷紅草に行ってなかったし」

「!」

「行きたくない……」

「あの……ルコウソウって?」

「あ、縷紅草は俺と京陽が手伝いに行ってる孤児院のこと。演劇のことも、そこにいる子供たちのためにやるってわけだ」

 手を挙げた茉緒に、俺は一旦京陽とのやり取りを止めて、縷紅草のことや、クリスマスパーティーのことも簡単に説明した。

「……なるほど、佐上くんたちはすごいね」

「施設名はちょっと変だけど、良い所だよ」

「……」

「というわけで、お前も参加しろよ、京陽」

「え……めんどい……」

 こいつ……

 もうちょっとビシッと言ってやろうと思ったが、俺が口を出す前に、茉緒は京陽の前に迫った。

 僅か十数センチまで近づいた顔。その冴えた瞳で、茉緒は京陽を真っ直ぐ見つめる。

「あの、豊原くんにも参加して欲しいの」

「君……」

「お願い、皆が一緒なら、きっと楽しいと思うよ!」

「……」

「……」

 数秒間も対峙して、遂に京陽の方が目を逸らした。

「……行けばいいんだろう」

「本当?良かった!」

 茉緒が燦爛な笑みをこぼした。一方、京陽は手で後頭部を軽く掻く。顔には出ないが、これはアイツが照れている時の癖だ。

 万年のものぐさでも、天使の笑顔には敵わないみたいだな。

 さて、これで一件落着——

「え?奈名、どうしたの?」

 と言いたいところだったが、奈名は急に立ち上がって、ドアに向かって歩いて行く。

 縷紅草のことを聞いた時の驚きも、その後続く沈黙も、気のせいではなかったらしい。

「やっぱり、演劇なんかしない」

「おい、宮坂!」

「あたしは行かないから」

 俺が呼び止めようとしても、奈名は振り返らずに、ドアのノブに手を掛ける。

「あたしは……そこには戻れないから」

 開かれ、そしてまた閉じられたドアの音は、何故か遠くから聞こえたような気がした。

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