第四章、その5
大勢の人で賑わうアクアリウム・アマテラスを出ると海沿い二車線の幹線道路に出て循環バスの停留所へ向かう。
すっかりクタクタで外は夕方だったが、写真や映像でしか見たことのない茜色の夕焼けと南国の潮風に、夏帆は目を細める眩しさと長い髪を靡かせる潮風の心地よさ、一日中友達と歩き回って楽しく過ごした疲れはリモートやオンラインでは味わえない。
夕焼けに照らされて反射するアマテラスに見惚れて穏やかな笑みを浮かべる。
「綺麗……こんな夕焼け……初めて見るわ」
「……内地では見れないロマンチックな夕焼けだね」
優も夏帆の隣に立って微笑む。ミミナはまだ諦めてないのか口角を上げたまま音も立てずこっそり横に二人きりにしようと、優は苦笑しながら引き留めるように呼ぶ。
「潮海さん」
「はいいっ!!」
ミミナは裏返った声で飛び上がりそうなほど背筋をピンと伸ばして止まると、優は訊く。
「潮海さんは人の恋路を見守るのが好きなの?」
「う~んそうねぇなんというのかな? 人の幸せな表情を見るのが好きなのかなと思うの、お祖父様が言ってたわ……人の幸福を願い、人の不幸を悲しむことができる人になりなさいって」
夏帆には前世でも考えてもいなかった言葉だ。
「人の幸福を願い……人の不幸を悲しむことができる人に?」
「うん、そうすればいい人たちと良い繋がりを持つことができるって……人の幸福を妬み、人の不幸を喜ぶような人になっちゃ駄目だって、そんな人になったら悪い繋がりしかなくなるって」
ミミナの質問に夏帆はその通りだと思わず感心する。前世でもそうだったがSNSや実生活でも問わず他人の幸福を妬み他人の不幸を喜び、願う輩がいたことを思い出しながら横断歩道で青信号を待ってると、ミミナの言うことに優は頷く。
「そうだよね、悪い考えを持ってたら自分の周りには悪い人しか集まらなくなるよね……そう考えると僕は本当に人に恵まれてるよ」
「水無月君がいい人だからよ、二度も夏帆ちゃんを助けたんだから」
ミミナは友達の幸せを心から願ってるのか優しい眼差しで二人を見つめる、人に恵まれてるのはあたしも同じだと胸いっぱいになる。内地の学校で入学式の日に手を差し伸べてくれた美由ちゃんと妙ちゃん、転校して友達になってくれたミミナちゃんや凪沙ちゃんに香奈枝ちゃんと山森君。
「草薙さん、潮海さんもうすぐバスが来るよ」
そして二度も危ないところを助け、あたしに恋のときめきを教えてくれた優君は青になると丁字路の横断歩道を足早に二人の先を歩く、もうすぐ水上バス乗り場行きのバスが来る。
こんなこと前世では考えることなかったな、夏帆は胸に心地好いものが満たされながら自然と笑みが浮かんで後に続き、優は横断歩道の半分を渡ると振り向いて待ってくれる。
優の無邪気な笑みが愛らしくて夏帆も艶やかな眼差しで微笑みを返して、独り言を呟く。
「本当に夢みたいな日々ね……」
「どうしたの夏帆ちゃん? 急に?」
ミミナに聞こえちゃったようだけど、包み隠す必要はどこにもない。
「ここに来てから――ううん、あの日手を差し伸べてくれた美由ちゃんと妙ちゃんと出会えてから夢みたいな日々……なんてね!」
「夢、目覚めたくない?」
「うん、勿論!」
ミミナと微笑みを交わす夏帆、この瞬間さえも夢みたいだと思いながらふと左に視線を向けた瞬間、時間がスローモーションで引き伸ばされて目を見開いた。
横断歩道に突っ込んでくるのは軌道エレベーターを巡回警備する
USVの対人センサーが反応して急ブレーキをかける、もしくは回避行動を取ってくれると考える暇も迷う暇なんてなかった、次の瞬間には鞄を放り投げて優の方へとダッシュ!
「優君!」
夏帆は叫びながら間に合って! と全身の体重を乗せ、優に体当たりして更に安全な距離を稼ぐために両腕を押し出して突き飛ばした。その刹那――青褪めた優と目が合って夏帆は微笑む。
――あたしのことは気にしないで、お父さんこと、ちゃんと向き合えばきっとわかり合えるわ。
その瞬間、夏帆は全身がくだけ散ると感じる程の強烈な衝撃と鈍い激痛が襲い、意識がどこまでも深い闇の底へとに落ちた。
息子が事故に遭ったという一報を受けて
「すまないな、急に無茶を頼んで!」
「いいえ、早く息子さんの所へ! 駐車場で止めてロビーで待ってます!」
「ありがとう!」
白い制服姿の水無月大佐は急な頼みを快く引き受けてくれた運転手に感謝して公用車を降りると、病院のロビーに入って受け付けの人に優の居場所を教えてもらうとすぐにその病棟へと急ぐ。
その間も、優のことで頭がいっぱいだった。
妻と少し歳の離れた弟――つまり義弟で優の叔父である弘樹によれば軽傷で済んだが、精神的ショックが酷いらしい、いくら私の息子で責任感や我慢強い優とはいえ交通事故に遭えば心の傷やトラウマだってできる。
「優……今行くからな」
病棟に向かう水無月大佐の足取りが自然と速くなり、父親として何もしてやれずに寂しい思いをさせてしまったことを改めて悔いた。海軍兵予科学校の試験に落ちた時、ありきたりな励ましの言葉をかけることくらいしか自分は何もしてやれなかった。
思えば生まれた時から今日まで任務や海軍航空隊の勤務で家を空けることが多く、運動会や授業参観にはいつも妻に任せていた。その分休暇には色んな所に旅行に連れて行き、欲しがってるものを買ってあげたりした。
だがそんなものは自己満足でしかなかったことを、改めて思い知らされる。
「……すまない、優……もっと向き合うべきだった!」
水無月大佐は呟きながら救急外来がある病棟に入ると、廊下のベンチに座ってる私服姿の優が見えて思わず安堵しそうになる。
「優! 怪我は――」
水無月大佐は安堵した自分を激しく嫌悪して思わず足取りが重くなる。
優の表情と眼差しは今まで見たことないほど罪悪感と自己嫌悪、そして悔恨の念に満ちていた、兵予学校の時以上に酷い。だが、ここで歩みを止めることは父親として許されなかった。
「……大丈夫か?」
履いてる軍靴が異様に重く感じてると女の子が深刻な表情で声をかけてきた。
「あの! 水無月君のお父さんですか?」
「はい、確かに優の父です」
「私、水無月君のクラスメイトの潮海と申します――」
このお嬢さんは以前南敷島中央駅で見たことがある。優と一緒に遊んでた子だろう見た目は勿論、言動にも気品を感じて良家のお嬢様かもしれない。
潮海と名乗ったお嬢様は必死に動揺を抑え、冷静に伝えようとする。
「――実はお友達の夏帆ちゃん……草薙さんが、アマテラスの無人警備車両に跳ねられそうになった水無月君を庇って……意識不明だそうです」
最後の一言を微かに震わせながらガラス張りの向こうにいる女の子に目を向ける、長い黒髪の可憐なお嬢さんで潮海さんと一緒にいた女の子だ。
「水無月君、お父さんが来たよ!」
「うん……わかってる」
優は力なく頷いて瞳から光が消えていて、俯いたままベンチから立つがこのまま魂まで抜けてしまいそうで声も震えていた。
「父さん……僕のせいで……草薙さんが……草薙さんが……」
「優……」
水無月大佐はこういう時にかける言葉が出てこないし見つからないなんて、ずっと父親らしいことをしてこなかった報いなのか? そうして立ち尽くしてると、潮海さんが涙を浮かべながら優の背中を叩いて叱咤する。
「しっかりしなさい! 男の子でしょ!? 辛いのはわかるわ! 今は夏帆ちゃんが目を覚ますのを精一杯祈るのよ!」
優に向けた言葉だが自分の胸にも突き刺さる、そうだ。嘆いてる場合ではないと水無月大佐は歩み寄って思い付く限りの毅然とした声をかける。
「優、自分を責めるな。目が覚めたら草薙さんに目一杯感謝するんだ、いいな?」
「うん……わかってる」
優はゆっくりと首を縦に振ると、水無月大佐は潮海というお嬢さんに一瞥してほんの少し安心した。
――優、素晴らしい友達に巡り会えたんだな。
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