第三章、その3

 夏帆は選択授業のダイビングに向かうため自然の家エントランスで凪沙と合流し、クラスメイトや他のクラスの生徒たちと一緒に港に向かう数台の車に別れて乗って向かった。

 小山を降りて菊水市内にあるダイビング教室がある港に到着し、そこで講習や注意事項の説明を受けた後海に潜るのだ。

「皆さんおはようございます、インストラクターの空野そらのです――」

 インストラクターの空野さんは南国に日焼けした小麦色の肌に長い黒髪ポニーテールのチャーミングな美人さんだ。

 ダイビングスーツに着替えてボートに乗り、ダイビングスポットに向かう。

 凪沙は待ちきれない様子でボートのエンジン音にかき消されないよう声を張り上げる。

「一緒に潜るの楽しみだね夏帆!」

「うん! でも凪沙ちゃん時々潜ってるって聞いたよ!」

「いつもは素潜りだから、それに一緒だと感動を共有できるもの!」

 凪沙の言う通りだ、一人で潜るのと一緒に潜るのとでは違う。

 こんな楽しいこと、前の人生ではなかったなと口元に笑みが浮かぶ。

 今日はどんな楽しいことが待ってるのかしらと心踊らせながら微笑み、潮風が吹き太陽が眩しい南国の空を見上げる。

 昨日の消灯後、クラスメイトたちに内地の話を聞かせたり恋バナを聞いたり、特に香奈枝やクラスメイトからは優とはどう? って興味津々の眼差しで訊かれもした。

 凪沙は夏帆の横顔を覗いて八重歯を見せ、微笑みながら訊いた。

「夏帆、何かいいことでもあったの?」

 いいこと? 敷島に来たら水無月君に助けられて前世の記憶を思い出して……ううん、完全には思い出してない……だけど! 夏帆は黒髪を靡かせながら満面の笑みで頷いた。

「……うん、これからいいことがある気がするの!」

「いいね! そういう考え!」

 凪沙も南国の太陽のように笑顔を見せ、親指を立てた。

 SNSでいいねを沢山貰ってバズる以上に価値がある気がした。夏帆はそう考えてる間にダイビングポイントに到着、早速装備を身に付けて空野さんがみんなに言う。

「それじゃあみんな、いよいよ潜るけど安全に気を付けてね! 生き物たちには触ろうとせず、優しく見守って、敬意を払ってね……草薙さん、あたしから離れないように」

「はい……」

 夏帆は緊張しながら返事する。大丈夫、インストラクターさんの指示通りに行けばいい。

 凪沙の方は経験あるのか慣れた手付きでフィンやダイビングマスクを装着してる。

「いよいよだね夏帆」

「うん、楽しみ!」

 夏帆はニッコリと笑う、さぁいよいよ! 

 インストラクターさんの指示通りダイビングマスクを装着してレギュレーターを咥えて船尾の階段を一歩ずつ降りる。結構暖かい、地上とは何もかも違う世界にお邪魔させてもらう。


 よし! 夏帆は母なる海に身を委ねて気泡に包まれた後に広がるのは、見惚れるほどの澄みきった水色のカラフルに色づいた世界だった。


 うわぁ……綺麗……夏帆は思わず目を見開く。

 こんなにも美しいカラフルな世界があるなんて……夏帆は目の前に広がるゴツゴツした水深一〇メートル程度の海底の岩場、遠くから見て何もないように見えるが、目を凝らして潜って岩場に近づくと多種多様な魚が目の前を泳いでる。

 大きい魚や小さい魚、カラフルで個性的な魚。

 手を伸ばしたら届く距離、だけどその中に混ざってカラフルで綺麗だけど危険な生き物も多くいる、ヒョウモンダコやイモガイ、ウミヘビ、イソギンチャク、エイ――夏帆はうっとりしながら泳いでると、潜って数分経たないうちにあることに気付いて思わず恐怖一色に満たされる。

 っていうか……海の中って何気に危険生物だらけじゃない!?

 他にもハブクラゲやカツオノエボシとか海を漂う機雷! イモガイなんか海底に沈んでる爆雷! サメとかもう魚雷だよ魚雷! 先日の海軍広報資料館で得た知識も交えて例える。

 さっきまで暖かいと思ってたひんやりと海の中が冷たく感じる。

 綺麗な海って結構怖いわねと思いながら浅い海底を泳いでると、数メートル先にどっしりした体格に厳つい顔立ちで、見るからに凶暴そうな一匹のサメがゆらゆらと横切るように現れた。

 体長は小さく見積もっても二メートル後半、下手すれば三メートル以上はあった。

 サ、サメェェェェェッ!! 夏帆は前世でも見たことある名作サメ映画のBGMが脳内再生されて思わず大量の泡を吹き出し、瞳が渦巻き状になってパニックになりそうになるが、空野さんがポンポンと肩を叩く。

 大丈夫、驚かさないようにねと言ってるかのようにウィンクしてる講習で教わった通り、岩場に隠れ、落ち着いて観察する。左隣の空野さんは持ってきた水中ノートで書いて夏帆に見せる。

「オオメジロザメよ」

 夏帆は関心を持ち、視線をオオメジロザメに向ける。こっちには気付いてはいるようだが襲ってくる気配はない、向こうも警戒しながらこちらを観察してるのかもしれない。

 空野さんはニッコリ笑顔で水中ノートを見せる。

「と~っても危険な人食いザメよ」

 夏帆はゴボゴボゴボと大量の泡を吹き出す、笑って言うことじゃないですよ!

 ふとオオメジロザメと目が合う、こっちを見て何やってるんだあの人間たちは? と言いたげに見つめてる。

 空野さんは「ごめんごめん」言わんばかりに頭を何度も縦に振る、すると他のインストラクターと一緒に潜ってる凪沙が右隣にやってくる。

 凪沙ちゃん! あれあれ! 大きなサメがいるよ! 夏帆は凪沙と目を合わせたまま指を差すと、ちゃんと見えてると言わんばかりに笑顔で何度も頷いてる。

 時間が経つにつれてオオメジロザメは泳ぎながら夏帆たちの距離を縮め、岩場を挟んで横切るたびにその大きさに圧倒される。

 凄い……やっぱり大きい、こんなの水族館では絶対に見られないわね。

 そういえば、前世で誰かと水族館に行った思い出は小さな頃を除いてなかった気がする。

 こっちの世界でも美由ちゃんや妙ちゃんと帝都の水族館に行ったことはあるが、あまり楽しもうって気がしなかった。

 いつの間にか考え事してることに気付いてふと見上げると、オオメジロザメと何度目かの目が合う。

 次の瞬間、オオメジロザメは何かに気付いたのか物凄い勢いで反転してどこかへと逃げて行き、一瞬で姿を消した。

 どうしたんだろう? 夏帆は空野さんを見ると、彼女は緊迫した表情で水中ノートを見せる。

「大きいのがいる、気を付けて!」

 さっきのより大きいのがいる? 危険なオオメジロザメが逃げ出す程だとしたら夏帆は逃げた方向とは反対の方を向くと、巨大な影が現れて思わず目を見開いて心拍数が上がり、世界が静寂に包まれた。

 さっきのオオメジロザメとは別種で体長は二倍の六メートル以上、背中側は濃い灰色か黒、お腹側は透き通るように白く、側面から見ると、背側と腹側の色は一本の線ではっきりと分かれている。

 数えきれない程の死線を潜り抜けてきた証である大小無数の傷跡、巨大な口にズラリと並ぶ鋭い歯はサメに詳しくない夏帆でも本能で確信した。

 

 間違いない、英語では巨大なGreat白い whiteサメsharkと呼ばれ、人食いMan Eaterザメsharkの代名詞――ホホジロザメだ。


 嘘……こんなに大きいのが目の前にいるなんて……。

 夏帆は夢を見ているような不思議な気持ちだった。本能的に怖いと感じて震えたり、逃げなきゃという気持ちが芽生えず、寧ろ美しくゆったりと優雅に泳ぐ姿は穏やかで美しいと見惚れていた。

 六メートルの巨体が目の前をゆったりと通る、手を伸ばせば届く距離。

 だけど触らず優しく見守って、生き物たちに敬意を払う。

 夏帆は空野さんに言われたことを思い出したその瞬間、その空野さんがマスク越しでもわかるほどの精悍な眼差しで仲間のインストラクターとアイコンタクトすると、迷うことなくゆっくりと岩場から飛び出すように泳ぐ。

 ええっ!? 空野さん、まさか! 正気!?

 空野さんはホホジロザメを泳いで追いかける。

 夏帆が予感してた通り空野さんはゆったりと泳ぐホホジロザメを刺激しないようにそっと近づく。凪沙も目を見開いて焼き付けようとする、空野さん! 大丈夫なの!?

 夏帆は心拍数を上げながらも、恐怖を感じることさえ忘れていた。

 事実、ホホジロザメはすぐ隣を泳ぐ空野さんを認識してるようだが、襲う様子も興味を示す様子もない。ホホジロザメと一緒に泳ぐ空野さん、しなやかで長い足をゆったりと動かして長い黒髪のポニーテールを海中に靡かせる。

 まるで人魚のようねと夏帆は見惚れながら視線で追う夏帆はその瞬間、理解した。

 ホホジロザメは恐ろしい海の危険生物の代名詞であることに間違いない、だけど決して血に飢えた怪物なんかじゃない。危険である以上に恐怖を忘れてしまうほど夢中にして、魅了して、虜にしてしまうほどの美しい生き物なのだと。


 そして、この世界は美しいもので溢れているのだと。


 夏帆はこのホホジロザメに教えて貰った気がしたのだ。

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