第一章、その2
翌日の始業式前日のお昼、両親が診療所で仕事してる隙に夏帆は白いワンピースに着替えてキャプリーヌを被り、愛用のショルダーバッグを肩にかけると、マスクを着けなきゃと一瞬探そうとしたが、この世界では必要ないことに気付く。
そうだよね、こんな暑い中マスクだなんて変だもんね。
代わりに虫除けシートを手足に塗って感染症対策、ここではコロナよりマラリアの方がよっぽど怖いのだ。
ところでコロナって? 夏帆は一瞬首を傾げたがそれも忘れて水色のミュールを履くと引戸を開けて外に出る。
南国の太陽に熱せられた空気に包まれる心地好さを感じながら、どうしても確かめたいことがあって汐ノ島辺りに行ってみようと、近くの汐ノ坂電鉄
新しく引っ越してきた家はリフォームしてるとはいえ古臭いタイプの木造二階建ての家だ。
内地に住んでた頃、帝都近郊の家の方がよかったなと夏帆は内心ぼやきながらのどかな道を歩くと、近所で農家をしてるお婆さんが挨拶してきた。
「こんにちわ、あんた草薙先生とこの娘さんだね?」
「あっはい、どうもこんにちわ」
夏帆は作り笑いで挨拶する、ああもうすぐ電車が来るのに……五分おきに来た内地とは違って電車は一二分に一本だ。
「聞いたよ、昨日は災難だったわね。でも明日から高校二年生よね、
「……はい」
夏帆は引き攣った笑みで相槌を打ちながら耳を傾ける。初めて聞く名前だし顔も見たこともないからなんとも言えない。
ここ
「――それじゃ気を付けてね」
「はい……どうも」
夏帆は一礼して村の真ん中にある山海駅へと早歩きで急ぎ、溜め息吐いてぼやく。
「はぁ……なんでこんな田舎に引っ越したんだろう?」
ここはとにかく内地とのギャップが激しい。
以前は帝都皇京の近郊で暮らしていて、コンビニも近所に二~三ヶ所あったし電車も五分~一〇分おきに来て、それに乗って通学していた。
この村は三日月状の島の内側に遊ぶ所が山ほどある敷島市に三〇分~四〇分で行けるからいいけど……コンビニやスーパーは駅前に一件のみ、スターバックスやタリーズコーヒー等の行きつけのコーヒーショップチェーンもない。
浮かない顔して歩くとまたしても近所で農家をしているお爺さんが挨拶してきた。
「こんにちわ、この前引っ越してきた草薙さんとこの夏帆ちゃんかい?」
「あっ、はい……どうもこんにちわ」
ああ、またかと夏帆は内心うんざりしてることを悟られないよう微笑みながら一礼する、母親から愛想良くするようにと口を酸っぱくして言われた。
こんなことならマスクしとけばよかったと後悔しながら、お爺さんの世間は話を聞く。
「――昨日は災難だったね、助けてくれた男の子……会えたらお礼を言うんだよ」
「はい、勿論です」
田舎は人間関係が面倒臭いうえに独自の情報網やローカルルールがある。
それは現世で知ったのか前世で知ったのかはわからない。初対面の人に名前も知られてるし、愛想良くしないと即情報が村中に広まって両親の耳に入りそうだ。
「――それじゃ気を付けて出掛けるんだよ、いってらっしゃい」
「はい……いってきます」
たった三〇秒程度なのに夏帆はうんざりだった。ああもう! いくらお父さんの恩師だからってこんな田舎に引っ越すことないじゃない! ああ内地に帰りたい! という願望は現世のものだろう。
夏帆はようやく汐電山海駅に到着すると、そこへ折よく緑色のクラシックな四両編成の電車がやってきた。
地元民の足であり観光列車でもある汐電の山海駅は降りる人が少なく、地元の人だけで観光客は殆ど素通りしていた。
小さくて狭い山間部の村を抜けると広いわだつみ海の大海原が広がり、汐ノ島が浮かんでいて、観光客の中にはスマホを構えて撮影する人もいる。
「汐ノ島……本当に江ノ島みたいね」
夏帆は呟きながら前世の記憶で両親に連れられて行った鎌倉花火大会を思い出す。
あの頃は本当に楽しくて幸せだったことを覚えてる……この世界の人たちは見ず知らずの他人同士なのに物理的な距離が近い――ソーシャルディスタンスって言葉ないんだ。
「ソーシャルディスタンス……そんな発想もないのかな?」
夏帆は独り言を呟いて気付いた。なんでそんな言葉知ってるんだろう? 前の世界の言葉だけど思い出したくない気がする。
途中の汐ノ坂高校前駅に停車すると、明日から通う高校の生徒たちが乗ってきて他愛ないお喋りしてる。
「明日から新学期か……春休み練習ばっかりだったな」「もうホントだよ、そういえば聞いた? 今度カッター部に来る新しい顧問の先生、海軍の元教官だって」「うぇぇぇ……たまんねぇ絶対スパルタ式だしうちの顧問も感化されたら溜まったものじゃないし部活辞めようかな?」「それより今年も新入生来てくれないかな?」「そうそう、可愛い女子マネージャーとか来て欲しいな!」
そうか、ここは常夏だから一年中夏服なんだね。
ネクタイやリボンの色が赤・青・紺色で違いは何だろう? 夏帆は不安六割期待四割な気持ちで、同級生になるかもしれない子たちを一瞥すると数分で汐ノ島駅に到着して降りる。
「暑い……人多いわね」
夏帆は南国の太陽に不思議と不快感を感じることはなかった。マスクしてたら確実に窒息するか熱中症になるわね、そこで夏帆は確かめたいことが何かを気が付いた。
みんなマスクせずに楽しく中には時折、密集して大声で笑いながらお喋りしてる人たちもいて夏帆は安堵の笑みを浮かべながら思わず呟く。
「飛沫感染とか大丈夫なのかな?」
どうして昨日から感染症なんか気にしてるのかしら? 自分でも不思議だった。
この島には蚊を媒介とするマラリアやデング熱に気を付けなきゃいけない。だけど感じてる違和感には嬉しさが混ざり、同時に安堵していた。
ぼんやり覚えてる気がする。
すれ違う人たちがみんな暑苦しそうにして、いつも通りに笑顔で振る舞ってるように見えるけど、瞳の奥底には心が深い闇に包まれてるのを。
目に映る人たちみんなマスクをしていて生理的嫌悪感を煽られて、気持ち悪いと感じていたことを。
だけど、この世界にはない。
長く艶やかな黒髪を靡かせる爽やかな南国の潮風、眩しい太陽の光、そして行き交う人々がそう教えてくれた気がして、夏帆は思わず晴れやかな笑みを浮かべて瞳を輝かせて足取りも自然と軽くなった。
午後三時を回ると、汐ノ坂近郊にある内地からの観光客向けの実弾射撃体験や、地元の警察や軍関係者が訓練で利用する屋外シューティングレンジ兼ガンショップである
「優、もう上がっていいぞ。お疲れちゃん……ってこれからだな」
店主であり叔父さんの
「うん、これからだよ叔父さん」
優は店の詰め所に入ると、ロッカーから各種装備が入ったキャリーバッグを開けて中身をテーブルに載せる。
自動拳銃と
背の高い容姿端麗のイケメンで成績優秀スポーツ万能、陽気で真面目な性格も相まってクラスでは男女問わず人気者の優等生だ。
「おっこれからレンジ? 弾込め手伝おうか?」
「いいよ、自分で弾を込めることに意義があるんだ」
優は慣れた手付きでマガジンに五・五六ミリ弾を込めながら言うと、喜代彦は苦笑して着替えながら昨日のことを話す。
「……店長から聞いたよ、トラックに轢かれそうなところを助けたんだって?」
「うん、あと一瞬遅かったら二人とも死んでた」
あの時は本当に幸運だったと次に自動拳銃のマガジンに弾薬を込め始めると、喜代彦は苦笑する。
「一人じゃ……ないんだね、二人揃って仲良く異世界転生してたかも」
「それって喜代彦君の好きなアニメやラノベの話し? 確かに書店やアニメショップでラノベコーナーに行くと異世界モノで溢れてるよね」
「ああ、確かに
喜代彦は学校で
「それだけ競争率も凄そうだね」
「ああ、テンプレ通りに書けばいいってものじゃないよ。例えば――」
そこから喜代彦は長い話を饒舌に始めて優は耳を傾けながら、仲良くなったきっかけを思い出す。
高校に入学して間もない頃、優は
――た、頼む! このことは学校のみんなには黙っていてくれ! 俺がオタクだと知られたら、俺は終わりだ!
入学直後に人気者のポジションを得たとはとは思えない程の動揺ぶりだった。
オタクが市民権を得て早数十年経ったが、未だにオタク=軟弱者という偏見が消えることはない。彼のように陽キャだけど実は隠れオタクというのも珍しくないのだ。
すると喜代彦は適当なところで話を切り上げて話題を変える。
「それと……さっき
「まあ、うちのクラスになるとは限らないし、ましてや女の子とは限らない……でもみんなが可能性を期待する気持ちはわかるし、否定はしないよ」
優は肯定も否定しないつもりだ。弾を込め終えると立ち上がって各種装備を身に付けてヒップホルスターに四五口径自動拳銃の1911――フルカスタムしたモデルを納める。
そしてそしてマガジンをポーチに納めると髪を後ろにやり、凛々しい眼差しの美少年の顔になると銃器メーカーのロゴキャップを被ってイヤーマフを首にかける。
「優の本当の顔を学校のみんなが知ったらチヤホヤするだろうな」
「目立つのは苦手なんだ――」
二人が通う汐ノ坂高校で優はクラスでは目立たない陰キャな男子生徒で通ってる、喜代彦とは正反対だ。
「――それに父さんのこともあるし」
「まだ仲直りできてないのかい?」
「忙しくてなかなか帰れないんだ」
優はそう言ってアサルトライフルのAR15に付けた
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