10 後輩は休みの日、俺が三角木馬に乗せられて泣いているのを想像しているらしい
美沙緒さんは、可愛がってくれるひとが欲しかったのか。
あぐらをかいた膝の上に、美沙緒さんの美しい顔がある。柔らかい髪の毛は俺の膝にそって流れていて、なんというか、すごく――髪の毛の匂いだけで、ぞくぞくした。
「美沙緒さんは、誰かに――可愛がってもらったことって、ないの?」
「うーんと。小学校に上がる前くらいに、いまはもう亡くなった母方の祖父母が、すごく可愛がってくれた記憶はあるんですけど、もうあんまり覚えてないです」
そんな昔のことなのか。ざっと十年前。ひと昔、というやつだ。
「従兄さんは?」と訊ねると、
「従兄は確かにわたしにいろいろ話しかけてくれたんですけど、従兄なので。可愛がってもらってる感じはあまりしなくて……こっちが一方的に好いてただけです。それにどっかの女と結婚しちゃいましたしね」
「そっか。美沙緒さんは、独りぼっちで寂しかったんだね」
「……寂しい」美沙緒さんは、俺の言葉をしばらく反芻して、
「わたしは、寂しかったんだ」と、ぽつりとつぶやいた。その表情は、小さな子供が、親に置いてきぼりにされたような、そういう表情だった。
美沙緒さんは体を起こすと、長い睫毛を伏せて、
「従兄や先輩を、性的な目で見ていたのは、寂しいのをごまかすためだったんだ。独りぼっちで寂しいのを、いやらしい妄想でごまかしてたんだ。先輩が好きとかじゃなかったんだ。先輩を性的な目で見るのが楽しかっただけなんだ」
と、小声の早口でつぶやいた。明らかに思いつめている口調。
「そこまで思いつめなくて大丈夫だよ。寂しいならそれを解決する方法を考えなきゃ」
「寂しさって、なにで紛らわせられるんでしょうか?」
「うーんと。動物を飼うとかは? ハムスターとか……お家の人に相談して」
「それはできないです。弟が動物アレルギーなので」
「まぁた弟さんかあ。うーん……弟さんって、そんなに、美沙緒さんの人生において重要視しなきゃいけない人なの? 弟さんは弟さん、美沙緒さんは美沙緒さんじゃダメなの?」
「ダメですよ! 弟は春野家の長男なんですから! 春野医院を継ぐのは弟なんですから!」
美沙緒さんは早口でそう言った。俺は考え込んでしまう。
「まずはその家父長制のお家が問題なんだと思うんだよなぁ。まあ俺に何かできるわけじゃないけど……」
「これって変なんですか? 小さいころから弟を立てろって育てられたので分からないです」
「変だよ。男の子の跡取りだけ大事にされるなんて。人間はみんな一人一人尊ばれるべきだ」
「一人一人、尊ばれるべきだ……先輩は、わたしのこと、大事だって思うんですか?」
「そりゃそうだ。部活のたった一人の後輩だし、……かわいいし」
美沙緒さんは、前髪を分けて留めているぱっちんどめをいじった。美沙緒さんはいつも前髪はそうやってぱっちんどめで分けている。特に飾りのついていない、とても質素なぱっちんどめだ。
「美沙緒さんって、なにか好きなことある? ……俺を性的な目で見る以外に」
「えっと……将棋と、ピアノのお稽古……でしょうか。ピアノは、どうしてもやりたい、ってわがまま言ってやらせてもらってるんです。将棋は先輩と指して楽しいなって思って」
「そっか。寂しいときってさ、好きなことしてると気がまぎれるよ。でもピアノはどこでも、ってわけにいかないしな。将棋も相手がいないことには」
「そうですよね……だから休みの日は、ひたすら先輩が三角木馬に乗せられて泣いてるのを想像するしかないんです」
驚きのあまりびくりと体がこわばる。そんなこと想像してたんかい。
「本……も、教室で美●女文庫読むのはやめようと思って、書店でいろいろ見てみたんですけど、やっぱり美●女文庫のコーナーに行っちゃうんですよ。気持ち悪いですよね、わたし」
そっかあ、と答えて、俺は美沙緒さんを正面から見た。こういうとき、ドラマだったら抱きしめて、気持ち悪くないよ、というのだろう。しかし俺には、そういうことをする度胸がない。腰抜けもいいところだ。美沙緒さんを誰かが抱きしめなければ、美沙緒さんはどんどん、孤独になっていくだけだ。俺は自分の手がひどく汗をかいていることを知っていた。
「美沙緒さん、美沙緒さんは気持ち悪くないよ。すごく素敵だよ。確かに女子高生が美●女文庫を愛読するのははたからみたらちょっと変わってるかもしれないけど、それにはちゃんと理由があるんだよね。大好きだった従兄さんが譲ってくれたから、好きで読んでるんだよね?」
「……先輩、先輩は、わたしのこと、気持ち悪くないって言ってくれるんですか?」
「前からずっと言ってるじゃん。美沙緒さんは素敵だよって。美沙緒さんは、すごく素敵だよ。だからさ、自分を気持ち悪いとか言うのやめようよ。美沙緒さんが可哀想だよ」
「わたしが……かわいそう」美沙緒さんはそうつぶやいて、またかわいい服の袖口でかしかしと涙をぬぐった。美沙緒さんは、顔を赤くして、ぽろぽろと泣いていた。
「わたしは。ずっと。いらない子だったから――わたしが生まれたとき、祖母は女の子かってがっかりして。それより前にエコーで性別が分かったときから、祖母は絶対間違いだって言い張るくらいわたしにがっかりしてて。母は弟が生まれたとき『人生に勝利した』って言ってて。そんなのおかしいですよね、わたしだって、期待されていいんですよね」
「そうだよ。少なくとも俺は期待してるよ、美沙緒さん将棋めちゃめちゃ強いから。俺なんかよりずっと上達が早いし、アマ初段だってそう遠くないと思う」
「先輩は、わたしが、なにか――なにか、先輩の役に立つと思いますか?」
「役に立つ立たないの文脈がそもそもおかしい。誰の役に立つとかそういうことで人生を決めちゃいけない。自分のやりたいことやらなくちゃ」
「先輩は、本当に優しいんですね。わたしはずっと、家で母の手伝いをしている以外、役に立たない子だったので。やりたいことをやってるのはピアノと将棋くらいです。どっちもぜんぜんうまくならないんですけど」
「なんていうか……うーんと……」俺は言葉に詰まって、なんとかひねり出した言葉は、
「まあ、海外じゃ『ワタシこのスポーツ十年続けてるけどうまくならないデースHAHAHA』みたいなのが許されるらしいから、無理に上達しなくていいんじゃない? まあピアノは月謝がかかってるだろうからもったいないって気持ちはわかるけど、将棋はタダなんだし」
「そうなんですか。じゃあ、いまのままでもいいんですね。なんだか安心しました」
「それに将棋、すごい速度で上手くなってるからね? もう俺じゃ歯が立たないからね?」
「えへへへ……先輩に褒めてもらうとうれしいですね」
美沙緒さんは笑顔になった。そうだよ、美沙緒さんは笑ってるとすごくかわいいんだよ。
「あの、先輩。わたし、もっと先輩に褒められたいし、もっと先輩と仲良くなりたいって、いまちょっと思ったんです。でももしかしたら先輩がオムツ穿かされてよだれかけつけてるの想像しちゃうかもしれないんですけど、でも先輩と、仲良くなりたくて」
オムツとよだれかけて。またすごい妄想をしている。でもとにかく話を促す。
「仲良くなりたいので、連休中、遊びに来ていいですか? お家、案外わたしの家に近いですし」
どう答えたものか考えた。性的な目で見られるのは勘弁願いたい。しかし美沙緒さんの孤独を思うと、むげには断れない。美沙緒さんは家にいる間、ずっと孤独と戦っているわけであるから。美沙緒さんの妄想を聞かされずに、楽しむ方法を考えて、結論が出た。
「いいけど――こんな殺風景なアパートに遊びに来るより、二人でどこかに遊びにいこうか。ボーリングとかカラオケとか、行ったことある?」
「ない……です。カラオケは、中学のころ誘われたことがあったんですけど、親がOKしてくれなくて。でもたぶんもう高校生だし行っていいと思います。ボーリングも、行ったことがなくて……具体的なルールもよく分からなくて」
「大型連休中さ、二人であちこち遊びに行こうよ。そんなうんと高級なデートができるわけじゃないけど、それでも……どこかに遊びに行ったらさ、少しは気がまぎれるんじゃないかな」
「すごい、素敵です。人生ガチ勢のデートみたいでたのしそう」
人生ガチ勢。美沙緒さんがなりたくてもなれないもの。
「人生ガチ勢とかさ、言うのやめようよ。なんでも、ガチ勢になる必要なんてないんだよ」
「そうでしょうか? ……なんていうか、先輩とデートできるって思うと、なんだか……変な妄想するより、すごく清潔なお付き合いができるんだなって思って、そう思うと人生捨てたもんじゃないなって思います」美沙緒さんは嬉しそうな顔をした。
そして明日、列車で動物園に行こうと約束した。連絡先は交換せず、時間と場所だけで待ち合わせをする古い方法で。
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